認知症のお母さまを持つ方からお便りをいただきました。早稲田大学人間総合研究センターが刊行する学会誌『現代生命哲学研究』に記事を投稿されたとのこと。その中で、拙著からの一文が引用されていました。
無力でもいい。それこそが、寄り添う(Being)ということなのだから。何かをする(Doing)よりも、はるかにそれが大事だ。思いやりを持って患者さんの気持ちを聞き、受け止める。いちばん大切なのは、あなたの存在そのものなのだ。
ー『死に逝く人は何を想うのか』(P129)
そしてこう続きます。
母は【Doing】を求めていない。【Being】を望んでいるのだ。頻繁に面会に行っていると、母は精神的に落ち着く。面会に訪れることを喜んでくれる。母は、たまにデイルームに出てくるものの、大半は個室で寝て過ごしていて、口数も少ない。母の面会に行っても、一緒におやつを食べ、車椅子を押し散歩するだけだ。【Doing】ではなく【Being】だ。だが、母には、今【Being】こそが必要なのだ。大切なのだ。
著者の坂田昌彦さんのお母さまは、かつて教員として数学を教え、晩年は活動的な生活をされていたそうです。文章からは、そんなお母さまの変化に対する坂田さんの複雑な心境や深い愛情を感じ取ることができます。
認知症のご家族を持つ方たちは、ロング・グッバイ(長いお別れ)を経験する中で、想像以上の疲労、孤立感、怒り、不安、喪失感、などを感じている場合が多いです。同時に、大切な人の死に逝く過程(dying process)に向き合うということは、生きることについて学ぶ機会でもあります。
坂田さんはこう書いています。
私にとって、母の最後の役割の一つは、人間には「人間像」から離れていく『夕闇の時期』があることを、伝えてくれていることだと感じる。人間は「人間像」を求め我がものして行く『青空の時期』だけではなく、その箍(たが)が外れ、幻覚に翻弄され「知」を失ない、感情を制御できなくなり、時には暴言を吐いたり暴力を振るう存在でもあることを理解させてくれた。それが人間なのだ。その現実を了承することで、はじめて〝人間の全体像〟を等身大に捉えることができる。
「生・死・認知症に関する考察:認知症を患う母との関わりと通して」は、『現代生命哲学研究』の2019年3月号に掲載されています。『現代生命哲学研究』は、早稲田大学人間総合研究センター・Tokyo Philosophy Projectが刊行する学術誌です。
(YUMIKO SATO「認知症の母と寄り添うこと~being」より転載)