大津・園児死亡事故でのマスコミ批判。佐々木俊尚さんは「報道側も世間に晒される時代になったと認識を」

取材にはどんな問題があったのか。そもそも“記者会見“は必要なのか。過去に放送局でアナウンサーとして働き、現在はネットメディアの記者である私が、ジャーナリストの佐々木俊尚さんに聞いた。

滋賀県大津市の交差点で5月8日、保育園児の列に車が突っ込み2人が死亡した事故。同じ日に保育園側が開いた記者会見では、泣き崩れる園長に対し、一部の記者が保育園側を追及しているようにも見え、視聴者から批判が相次いだ。

この取材にはどのような問題点があったのか。そもそも”記者会見”は必要なのか。過去に放送局でアナウンサーとして働き、現在はネットメディアの記者である私が、ジャーナリストの佐々木俊尚さんに聞いた。

「報道する側も世間に晒される時代になった。その認識があまりにも欠如している」と佐々木さんはそう分析した。

記者会見で涙する「レイモンド淡海保育園」の若松ひろみ園長(左)。右は社会福祉法人檸檬会の前田効多郎理事長=5月8日、滋賀県大津市
記者会見で涙する「レイモンド淡海保育園」の若松ひろみ園長(左)。右は社会福祉法人檸檬会の前田効多郎理事長=5月8日、滋賀県大津市
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原因の1つは、「メディアスクラムがはびこったこと」

今回の会見では、泣き崩れる園長に記者たちが立て続けに質問したことに批判が集まった。

これについて佐々木さんは、「原因の1つは、メディアスクラム(過剰なマスコミ取材)がはびこったことだ」と指摘する。

「会見場にいた一人一人の記者たちが悪いとか愚かだとか、そういう事ではないと思うんです。ただ、記者会見場で一つの”空気”のようなものが形成されてしまう」

「他社が撮っている映像なんだからうちも撮らなきゃいけないとか、他社が質問するならとにかくうちも何か引き出さないと...という様に周りに引きずられる形になる。1対1の取材では、あのようには決してならないと思います」

”犯人探し”ではなく、問題の構造を解き明かす報道が必要

事件や事故などの取材をする場合、加害者だけでなく被害者やその関係者に話を聞くのは一般的だ。事故の原因を様々な角度から検証し、再発防止などにつなげるためだ。

だが、今回の会見の様子を見ていると、取材する側が事実を聞くことだけでなく、園長自身のコメントを無理にでも引きだそうとしているようにみえた。

もし私があの記者会見場にいたとしたら、園長の気持ちを考え、理事長や副理事長らに質問を投げかけたと思う。

特定の誰かを責め立て、悪者のように映し出してしまう報道はなぜ生まれてしまうのか。佐々木さんはこう語る。

「泣いている園長の映像が印象に残るから、という理由でそのシーンを写真におさめる。動画を撮る。それが、エンターテイメントになってしまっている」

「他の例では、日産の元CEOのカルロス・ゴーン氏が逮捕された時もそうです。逮捕されたこと自体や、東京地検特捜部の対応が問題とされますが、日産という会社の構造的な問題こそ追及し、解明されるべきでした」

保育園児らの列に車が突っ込んだ事故現場で手を合わせる女性=5月9日午前、大津市
保育園児らの列に車が突っ込んだ事故現場で手を合わせる女性=5月9日午前、大津市
時事通信社

「自分たちも晒されている」という視点が足りていない

最近ではインターネットのメディアなどで記者会見の様子がそのまま放送される機会が増えたり、記者が質問する姿や質問の文言がテロップで表示されたりして、記者会見が「可視化」されるようになった。

時代に合わせて、報道するメディア側も認識を改めるべきだと佐々木さんは主張する。

「まず、(報道する側の)自分たちも晒されているということに気が付けていないことが問題です。そこにある意識は『自分たちの目線こそが、世論を反映しているんだ』という思い込みです。これが蔓延っている」

「もう一つ、今回の記者会見に関しては、メディア側が、あの園長先生の目線に立って会見を観ている人々の視点に立てていなかった。視点の多様化に対応できていないように思うのです」

「多様化というのは例えば、ひと昔前は尾崎豊の名曲『15の夜』の、”盗んだバイクで走り出す”という歌詞を皆がかっこいいと思って疑わなかった。ただ、今の10代20代に聞くと、『盗まれた側が可哀想だ』という視点が出てきた。これはあくまで例ですが、視点が固定化されてしまっていると、この見方には気が付けないわけです」

 「自分たちの報道が本当に観る人々の要求に沿っているのかということを、もっと考えないといけないと思いますね」

取材の対象者と同じように、報道する側も晒されるようになった記者会見の場。筆者の意見だが、かつて1990年代以前は、放送においても質問の音声のみが使われていたように思う。アナウンサーや記者は、完全な「黒子」だったのだ。

だが、現在は一昔前とは状況は違う。

特に放送局に勤めていると会見の様子を番組内で中継するため、アナウンサーやキャスターはもちろん、記者も晒される事には慣れている印象がある。晒されることは、「想定内」なのだ。

晒される事を意識した事で、踏み込んだ質問を自重してしまうということもある。逆に、心ない質問をして視聴者に受け取られれば特定され、批判を浴びる。

ただ、一部の新聞記者や雑誌などのライターは晒される事にまだ慣れていないように見える。

佐々木さんも、「90年代のいわゆる古い意識の記者にこのような傾向がある」と指摘する。その理由を、「取材行為として相手をわざと怒らせたりして面白い情報を得ることをしたりした結果」と分析。その上で、「インターネットの出現で何が変わったのかを、前時代的な記者は意識すべき」と提言する。

 記者会見におけるワイドショーの功罪

一方で、あの記者会見をすべて”放送する”意味はあったのだろうか?放送する事で生じる公益はあったのか?私にはその必要性を感じ得ず、今回の一番大きな疑問だった。

佐々木さんはこの問いについて「今回の会見を放送する意味はなかった」とした上で、放送が増えた背景を「ワイドショーの功罪」だと分析する。

「1990年代に入ってテレビのワイドショー番組が人気となった事で、事故や事件の報道が情報バラエティー番組で長尺で扱われるようになった。これによって、番組毎にキャスターやリポーターが立てられることが増えたんです」

「各番組はやはり、自らの担当リポーターが質問している映像が欲しいから、結果的に、同じような質問や中身のない質問が多く見受けられるようになりました。もちろん全てがそうではないですが、ニュースをエンターテイメントにしてしまったという点で、ワイドショーの功罪という見方はあると思います」

確かに過去を振り返ると、私がリポーターを務めた時も、放送後には録画映像を観て、”会見のどの部分が使われていたか”、”自分の質問が放送で使われているか”をチェックしていた。他の記者が既にしたのと同様の意図の質問を繰り返し聞いてしまっていたかもしれない。

加えて、ワイドショーでは映像が”編集”される。この編集が視聴者にとって意味のあることになる場合もあるが、一方では編集で一部が切り取られることで、前後の文脈までもが削ぎ落とされてしまう時がある。

切り取られた場面のみが放送されてしまうと、世間に対して大きな誤解を与えてしまう。この懸念は取材をする側とされる側、両方にある。

保育園児らの列に乗用車が突っ込んだ事故で、フェンスが大きく変形した現場に花を手向ける人たち=5月8日午後、大津市
保育園児らの列に乗用車が突っ込んだ事故で、フェンスが大きく変形した現場に花を手向ける人たち=5月8日午後、大津市
時事通信社

”マスゴミ”と言われないために...

 今後、”記者会見”におけるメディアのあり方はどのようにあるべきか。

佐々木さんは、「このまま情報のバラエティ化の流れが止まらないならば、情報番組を制作する側がより一層ジャーナリズムの認識を深く持つ事だ」と語る。

「世間の報道への信頼は確実に落ちています。ネットの時代になった事で何が変わったのか。これを考えないと、マスコミは”マスゴミ”と言われ続けてしまう。『世間はどう見るのか』ではなく、『自分たちはどう見られているか』という視点をこれからの時代は、もっと意識すべきだと思います」

放送局で働いた身として、私は「ニュースのエンタメ化」について、決してマイナスではなくむしろ良い面もあると感じている。情報番組にしてもワイドショーにしても、放送をきっかけに議論が広がるし、深まっていく。その役割は、テレビが今後も担っていくべきではないか。

だが、どんな事柄であってもメディアが記者会見を望み、その様子を放送するというスタンスは必要なのか。その都度、メディア自身が判断し、視聴者からの批判にたえず耳を傾けないと、記者会見それ自体が、思わぬ被害者をまた一人生んでしまう事になるかもしれない。

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