ガサガサの肌にため息をつきながらファンデーションを塗り、荒れた唇に口紅を塗る。お化粧が肌にうまくのらない日は、気分が上がらない。
はぁ、今日は仕事をするだけなのに、化粧って本当に必要なの?
あれは2009年のこと、私は大学を卒業し地方の小さな出版社に就職した。入社してすぐ、マナー研修を受けた。そこで女性の講師に「女性は化粧をしましょう」と教えられた。きちんと身だしなみに気をつけ化粧をし、時間をかけて準備をしましたよと相手に示すことが、社会人として当然のマナーです、と。
なるほど。それが社会人ってやつなのか。
働き始めたばかりの私は、社会には学生の頃とは違うマナーがあるのだと学んだ。以降、私は毎朝20分かけて、社内の先輩たちがしているようにファンデーションを塗ったあとチークを重ね、流行にあった形の眉を書き、少しでも目が大きく見えるようにマスカラを塗り、口紅をひいて出勤した。
ある朝、めざまし時計が鳴らず30分ほど起きるのが遅くなった。時刻を確認し、大慌てで着替え、寝癖を水で濡らして整え、歯を磨き家を飛び出した。
やばい、遅刻する!
始業2分前。ギリギリでタイムカードを押す。間に合ったーと肩で息をしていたら、後ろから女の先輩が心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
「どうしたの、しんどいの?」
廊下を歩いていたら、男の上司から
「あれ、今日はテンション低い感じ?」
んん? みんな、どうして変な質問をしてくるのだろうと思った。でも、答えはトイレの鏡を見たときにすぐに分かった。
あ、私、化粧してないや。
毛穴は開いているし、まゆげは薄いし、頬に血色はないし、唇も白い。
こんな顔だもんな、調子悪そうって言われて当たり前だよね。心からそんな風に思った。そしてこれからは、気をつけようって。
時は流れた。私は30歳になり、台湾企業に就職した。
初めて海外の会社で働く。しかもオウンドメディアの編集長というポジションで。英語と中国語を使い働かなくてはならない。オフィスに日本人は私だけだ。
気合が入る。最初の印象が大事。デキルやつだと思われたい。
今でも覚えている。
その日の私はいつもよりも1時間も早く起きて、念入りに化粧をした。丁寧に毛穴を隠し、眉毛を凛々しく書き、頬をピンクに染め、赤い口紅をキリッとひいた。
完璧...だ。
出社初日は、各部署を回る。エンジニア、マーケティング、人事、総務。私は濃い化粧をした顔に、満面の笑みを携え、あいさつをして回った。
ひと通り挨拶を終え席に戻る。さぁ、仕事をバリバリとしていかなきゃと背筋を伸ばした瞬間、隣の席の同僚が私にたずねた。
「今日どこに行くんですか? パーティ?」
出社初日に、パーティに行くなんて。いやいや、ありえない。もうあいさつ回りをしただけでクタクタだ。今日はまっすぐに家に帰り、ベッドへダイブしたい。
「ううん、どこも行かない。まっすぐ家に帰るつもり。」
同僚はへーとちょっと不思議な顔をして、仕事に戻った。
台湾企業での仕事は順調に進んだ。同僚はみないい人だし、言語の問題もなんとかクリアできている。
ただ不思議なことに、私は毎日「今日はどこに行くの?」と聞かれ続けた。
ある日、私は台湾でも寝坊をし、すっぴんのままで始業ギリギリに会社に滑り込んだ。間に合ったーと肩で息をしていたけれど、私の顔を見て、何か言ってくる人は一人もいなかった。
あれ、日本と違う? 私毛穴が開いたままの肌で、血色も悪くて、眉毛もないし、唇は白いよ?
改めて周りを見回すと、その時初めて気がついた。オフィスに居る女性のほとんどがすっぴんだった。
日本のオフィスとあまりにも違う女性たちの顔。私はすっぴんで会社にきている女性社員たちに聞いて回った。
「化粧、しないの?」
彼女たちの答えは様々。面倒くさい、毎日ファンデを塗るのは肌に悪い、朝は寝ていたい、今日はオフィスにずっといるから。
平日は、化粧をしない彼女たち。
だけど週末に外で会うと、みんな驚くほどバッチリメイクをしてくる。面倒だ、寝ていたいと言っていた子も、毛穴ひとつない肌、まつげもクルンと上を向き、きれいなピンクの口紅をつけていた。「化粧」が嫌いなわけではなさそうだ。
「今日は遊びに行くから、かわいくありたい」
私が台湾で出会った女性たちは言う。
いつ化粧をして、いつしないか。それは私たちの自由なんじゃないの? そもそも朝化粧のために時間を使うより、運動や勉強をしたほうがいい。それに会社にずっといて、社外の人には誰にも会わないのに、なぜ化粧しなきゃいけないの?
今日、私は私の気分を上げたいから
今日、素敵なレストランに行くから
今日、新しい服を着るからそれに合わせて
彼女たちが化粧をするのは個人的な理由が全て。だって自分の顔でしょ。特別な理由がないなら、自分の顔に粉や液体を塗らなくても良いじゃない。
オフィスから出て街の様子をみても、すっぴんの女性が多かった。逆にばっちりと化粧をしていることが恥ずかしく感じるほど。みんなありのままの顔で生活しているのだなぁと思った。台湾では当たり前の事実が、その時の私にとっては大きな衝撃だった。
それから私はマスカラをやめ、チークをやめ、ファンデーションをやめ...と少しずつ武装解除をしていく。最終的には日焼け止めを塗って、眉毛を描いただけでどこにでも出かけるようになった。
化粧をしなくなって気づいたのだけど、化粧をしていない顔はとても軽い。顔が軽いって本当に気持ちいい! そしてすっぴんで街を歩いていても、恥ずかしい気持ちにならないことが楽しくてしょうがなかった。私の顔のままでいいんだ! そして誰も気にしていないんだ、私のすっぴんをって。
そして自分がしたいときに、好きなように化粧をする。そんな新しい習慣を手にしたことで、自分の容姿に対して抱いていた不安感が少し減った。すっぴんでもいつもどおりに接してもらえるとわかったからだ。
今まで私たちが「すべき」だと思っていたことを、平然としない社会がある。もちろん住む人も文化も違うのだから、それは当然のことなのかもしれない。だけど、すっぴんで街を堂々と歩く台湾女性の姿を見て思う。
なんて、美しいの。
日本でも「化粧をする、しない」はマナーではなく、もっと自由であってもいいんじゃないか。私たちに決めさせてほしい。
台湾に3年半住んで、すっぴんに慣れてしまった私は思う。だって、自分の顔で街を歩くのは、すっごく居心地がいいんだから。