2007年に長崎市の平和式典に関する取材中に同市幹部(当時)から性暴力を受けたとして、女性記者は長崎市(田上富久市長)を相手取り、約3500万円の損害賠償とホームページや市広報への謝罪広告の掲載を求めて長崎地裁に提訴した。
4月25日、東京と長崎で女性記者の代理人が記者会見した。
訴状によると、女性記者は2007年7月、長崎平和式典に関する取材相手だった原爆被爆対策部長(当時)から呼び出されて性暴力を受けた。
元部長は地元紙の取材に「合意の上だった」と釈明していたが、同年11月1日に自殺。元部長と親しい別の幹部が週刊誌報道に対して「部長は女性記者にはめられた。自殺の原因は女性記者にある」などと虚偽の噂話を流し、ネット上では女性記者に対する二次攻撃が始まったという。
都内で会見した中野麻美弁護士は、「市には記者の名誉を回復し、防止策を講じてもらいたいと再三頼んできたが、ままならず、やむを得なかった。弁護士としては慚愧(ざんき)の念に堪えない思いですが、このような事態となった」と語った。
長崎市は2007年12月に「取材するあなた様と本市元部長との間でこのような事案が発生したということに関しては問題があったと考えているところであり、誠に遺憾に思っている」という報告書を記者側に提出したという。
中野弁護士は「男女の関係をうかがわせるような表現で、これで誤魔化そうというのかという怒りがある。被害者を愚弄している」と怒りを込めた。
会見に同席した角田由紀子弁護士も「”平和”と”男女平等”と”暴力根絶”は一体の問題。平和行政を統括する人間が平和に反することを率先して行い、二次被害に加担した。非常に皮肉な事件だ」と指摘した。
女性記者は会見には出席しなかったが、A4用紙いっぱいのコメントを発表。
被害から12年が過ぎた今も「人と接する怖さが抜けず、記者失格だと思うこともあります」と明かした。
休職を経て復職した今も一線から退かざるを得ない状況が続いているといい、「変わらない長崎市の姿勢に失望し、絶望し、今もなお苦しめられています」と訴えた。
これまでの経緯は?
2007年
長崎市では4月に伊藤一長市長が銃撃されて亡くなる事件があり、この年の長崎平和式典(8月9日)は伊藤市長の追悼と合わせて平和宣言を行うこととなっていた。
式典直前の7月29日には参院選も控えていたため、国内外の要職が一堂に会する式典は大きな注目を集めていたという。
被害後、女性記者は体調不良のまま式典を取材。他者の記者や市の職員に被害を相談するなどしたが、PTSDなどでやがて出勤できなくなり、8月中に長崎を離れた。
10月と11月、女性記者が勤める報道機関は長崎市に抗議。
12月、市は「元部長の死亡により、すべての事実関係を明らかにすることが困難になった」と発表。女性記者らに対して「取材するあなた様と本市元部長との間でこのような事案が発生したということに関しては問題があったと考えているところであり、誠に遺憾に思っている」と報告した。
2008年
8月、女性記者は第三者委員会の設置を要求したが、長崎市は拒否。
10月、女性記者が日本弁護士連合会に人権救済申し立てを行った。
2014年
2月、日弁連が市役所や市議会での虚偽の噂が女性記者へのインターネット攻撃につながったと認定。長崎市に対して女性記者の名誉を回復するための謝罪と再発防止を行うよう勧告。
2017年
長崎市は日弁連の勧告について「調査が不十分」だとして受け入れを拒否。
2018年
3月、長崎市が「同意の上か否か、職務上の権利を利用したものか否かを容認することはできない」として、勧告の受け入れを再度拒否。
2019年
3月、「今後は金銭要求も含め一切の請求を行わない」ことを条件に女性記者へ謝罪すると「解決案」を提示。
4月、女性記者側から、市が元部長の性暴力と二次被害の責任を認め、謝罪することなどを盛り込んだ「解決案」を提示したが、これを断られたために提訴に踏み切った。
長崎市は「差し控える」
長崎市は「現時点では、訴状が届いていないため、コメントを差し控えさせていただきます。今後、訴状の内容を精査し、対応してまいります」とする田上市長のコメントを発表した。
記者本人のコメント
おぞましい事件から約12年が経ちます。あまりに唐突で、自分に何が起きたのか認識はできたものの、言葉にすれば自分が壊れてしまいそうでした。なぜ私なのか。私はただ必要な取材をしていただけなのに。今も分からないままです。取材相手を信頼した自分が間違っていたのか。自分を責めました。
長崎にとどまり何とか勤務を続けましたが、最後は逃げるように長崎を離れざるを得ませんでした。情けなくて悔しかった思いは今も鮮明です。
その後に待ち受けていたのは、誰の発言か分からない事実と異なる中傷でした。インター ネット上にも掲載、拡散され、今もネット上に残っています。今も見ると胸が張り裂ける思いです。人と接する怖さが抜けず、記者失格だと思うこともあります。
私は休職を経て復帰しましたが、以前のように一線から退かざるを得ない状況になりました。3・11東日本大震災当時は思うように仕事ができない自分にもどかしさを感じました。
日本弁護士連合会から人権侵害を認定する勧告が出たことで、私はこれまで2回、長崎市にこの問題の解決を求めてきました。
私は赴任中、平和都市ナガサキ、人権と核兵器廃絶をうたうナガサキを取材してきました。 しかし、その平和式典に関する取材中に、しかも平和式典を担当する幹部に性暴力を受けた のです。日弁連の勧告を受けても、日本新聞労働組合連合による今回の抗議と要請を受けてもなお変わらない長崎市の姿勢に失望し、絶望し、今もなお苦しめられています。
性暴力を受けた女性記者は私以外にもいると聞いています。身に起きたできごとに圧倒されて、どれほど多くの女性記者が無念の思いで仕事をあきらめたり、その後の人生を変えられたと思うと、やるせなさでいっぱいです。
私の身に起きた性暴力は私自身が知っています。記者として不正を知りつつ報道現場から去ることはできないとの思いが、支えの一つになり、私は今も報道機関にとどまり続けて います。
主治医や弁護士、支援者たちが、これまで私を支えてくれました。日本で性暴力被害者の支援がもっと身近に受けられるようになることを願っています。
ただ、私の身に起きたことは、私の家族の全員には打ち明けていません。すべて話せる日はもう来ないかもしれないという不安もつきまとっています。
唯一、母にはすべてを打ち明け、私の回復を辛抱強く待ってもらいました。今回の決断も 尊重してくれました。ずっと心配をかけてごめんなさい、そしてありがとう。(以上)