私は「誇りある障がい者」 遠回りして、そう思えるようになるまでのこと

障がい者も健常者も同じ土台でいられる世界になる未来を望んでいる。

私が10歳か11歳だった頃、家族で記念写真を撮った時のこと。

私の首には呼吸を補助するための小型の白い装置、「気管カニューレ(気管切開チューブ。ここでは省略してチューブと呼ぶ)」を着けているんだけど、撮影が終わった時にフォト・エディターが、そこにぼかしを入れたほうがいいと提案してきた。

私は思わず「そんなの、ありえない!」と、少し声を荒げて彼に言った。

その時、私はまだ子供だったが、どこか屈辱的な気持ちと反抗心が入り混じった怒りを感じたことを覚えている。私は今までチューブを隠す必要などまったく無いと思っていたから。でも、フォト・エディターの提案は、私の思考に疑問を投げかけた。

「私は障がいを気にするべき?チューブをぼやかした方がいいかな?」

私は生まれた時から声帯麻痺により呼吸補助としてチューブを首に装着していた。

成長するにつれて、健常者の大人達はよく私に「首にカラフルなスカーフを巻いて見えないようにしたほうがいい」と言った。「そうすれば、チューブしてるなんて分からないよ」と、それがあたかも良いことかのように話した。まるで障がいは恥じるべきかのように...。

子供の頃は、今のように自分の障害に対するしがらみなど全く考えたことがなかった。それが私の生き方だったから。私は「自分の呼吸の音がうるさいことに恐縮せず、自信を持って生きていいんだ」と気付くまで、かなり時間がかかった。

現在、私は26歳。そして今、誇りを持って自分のことを障がい者だと言える。この障がいがあってこその私だと思えるからだ。

私は今、障がいを持ったジャーナリストとしての自分のストーリーを共有するため、そして他の記者たちに障がいをどう取り上げれば良いかを教えるため、世界中を旅している。

私が未だに覚えているのは、ジャーナリストを志す大学生たちに初めて講義を行った時のこと。私は自らの立場を利用して、障がい者を勇気付け、彼らが自分らしくいられて、自らの話を共有できる安全な空間を築くことができる、と気づいたのだ。

残念なことに、障がいについては今でも「克服するべきもの」とネガティブに捉えられているのが現状だ。依然として、私たち障がい者には「不足している部分を補わなければならない」というストーリーの前提がある。

でも、これが私たちの生き方であり、姿なのだ。

もし違うと言うならば、それは...特に治療法がない障がいをもっている人にとっては、私たちの価値はどれだけ健康かにかかっているということを示唆することになる。

現実は、この世は障がいを持った人々のために作られた世界ではない。アメリカの人口のおよそ4分の1が障がいを持っており、何千という異なる障がいや病気、そして精神疾患にわたる多様なコミュニティと歴史があるにも関わらず、だ。そのうえ、私たちはメディアやエンターテイメント、政治や労働力で、かなり過小評価されている。

しかも、障がい者差別は私たちの歴史や権利の消去にとどまらない。それは健常者の思考に深く植え付けられている。

具体的に例を挙げると、感動ポルノ(障がい者を感動ストーリーに仕立てること)はニュースなどで頻繁に取り上げらている。障がい者向け特殊教育プログラムは、常に打ち切りの危機にさらされている。そして私にとっては特に、障がい者向けの医療保険や宿泊施設を得るのに一苦労する。それは私が持っている障がい自体よりもややこしい。

健常者は障がい者に対して自分達に感謝すべきだと言うが、障がい者対応がなされている公共機関や社会への参画などは彼らからの贈り物や恩恵ではない。これらは基本的な人権だ。障がいはあらゆるストーリー、方針、会話や社会の一部でなければならない...なぜなら、私たちは既にそこに存在しているのだから。

だからこそ私は、このようなことを講義で伝えたり、障がいに関するトレーニングを主催したりするたびに、自分自身を「誇りある障がい者」と呼ぶようにしている。その理由は、私が若い頃には「誇り」と「障がい」の2文字を同じ文章の中で見たことが無かったから。「障がいを持つ誇り」などが存在することさえ知らなかったから。

そして多くの人にとって私の講義は、初めて障がいについて率直に、オープンに、そして悪びれず語られた話だったと思う。

私は障がい者コミュニティで出会った人たち...教育者、歴史家、作家、弁護士や活動家といった様々な人たちから、いつも感銘をうけている。それは私たちが、障がい者も健常者も同じ土台でいられる世界に対する、同じ情熱や緊迫感を持っているから。

私は今「誇りある障がい者」と名乗っているが、そのような呼び方が特別なことではない世界に住めることを望んでいる。私たちは、障がい者の描写や権利の問題ではなく、障がいが称賛されるような、包括的で公正な社会づくりに進む時だ。それは「今」だ。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。