新型コロナウイルスの影響により、突如、始まった休校は3カ月間にも及んだ。6月より多くの学校では教育活動が本格的に再開されつつある。
コロナ禍、そして休校という事態が、子どもたちにどんな影響を与えたのか。今後、どんな教育が求められるのか。教育学者の内田良さんにお話をうかがった。
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新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために全国の公立小中高校などで約3カ月にわたる臨時休校が実施され、感染が完全には収束しないなか、各地で学校が再開されました。
そこで聞こえてきたのは、政府が配布する布マスクの着用を生徒に求めたという中学校や、マスクと冬服着用で直射日光の当たるグラウンドで始業式を行ない、生徒が体調を崩したといった、首をひねるような話です。
私たちは新型コロナという重大なリスクを目の前にして、ここ数カ月のあいだ、ずっと子どもたちの安全・安心を考えてきたことになっています。
でも現実には、「安全・安心とは何か」といったことは意外と考えていないように見えます。
つまり、国や自治体が「休校しなさい」というからそうしているだけであって、安全・安心そのものを追求してきたわけではない。
それは、過去に社会問題になった巨大組み体操と似た構図かもしれません。巨大組み体操では、タワーやピラミッドなどの技による事故の多発を受け、国や自治体の指導で全国一斉に組み体操の段数を下げるという見直しが行なわれました。
ところが、今度は段数を低くして危険度の高いアクロバティックな技が採り入れられるようになり、事故例も複数報告されています。
本来は何が危険なのかを考えたうえで、次の行動を選ぶべきで、段数さえ下げれば危険な技をしてもいいということではないはずです。
学校での教育活動は「安全・安心」を土台にして、初めて成り立つものであるはずなのに、「教育活動」と「安全・安心」が天秤にかけられているような状況にある。新型コロナにおいても同じで、僕はこの現状が非常に気になっています。
リスクはゼロでも100でもない
子どもたちはもちろん、私たち大人も、ここ数カ月の自粛生活のなかで、不安やストレスなどはあるものの「家にいるとなんてリラックスできるのだろう」という感覚を味わったのではないでしょうか。
学校生活というのは非常に窮屈な世界です。しかし、みんながこのゆるい数カ月間を味わったのだから、学校も少しはその空気を取り込んでほしい。
仮にその空気が取り込めないにしても、長期間にわたり学校を離れていた子どもたちが、快適な家庭から息苦しさを感じる学校生活へ戻ろうとするとき、分散登校などで段階的なステップを踏んでいくことが必要です。それは感染リスクを避けるのと同じくらい大事なことでしょう。
しかし、一方で「安全・安心を考えたら、学びなんてできないよ」という意見があります。
たしかにリスク研究の分野でも、ゼロリスクは想定していません。学校においても熱中症やケガなどを含め、さまざまなリスクがあります。
リスクをゼロにしようということではないわけです。リスクはゼロではないよと言うと「ほらみろ、なんにでもリスクがあるじゃないか。巨大組み体操は危険だといっても、スポーツにケガはつきものだ」などと誤解されることがありますが、そうではありません。高いリスクは当然減らす努力をしたほうがいいのです。
学校を再開するにあたっては、「ステイホーム」と「学校再開」を天秤にかけることになり、後者が選ばれました。
しかし、リスクがゼロになったわけではないので、「学校へ行っても大丈夫なんだ」と急に気をゆるめるのもちがいます。リスクはゼロか100かではありません。
大事なのは学校生活のなかでも減らせるリスクは減らし、リスクを回避しながら、コミュニケーションのなかで許容のラインを決めていくこと。
感染のリスクをゼロにはできないにしても「安全・安心」を最優先に考え、それを土台にあらゆる教育活動を構想していくということに変わりはないわけです。
正しく恐れる、を
新型コロナにおける子どもたちの心理的な影響のサポートについては、「正しく恐れる」ことを教えていくのが現状に即しているように思います。
僕のもとにも「学校を再開してほしくない」という声がたくさん届きました。その気持ちもよくわかります。
とはいえ、大人たちが学校を再開したらダメだと必要以上に言い続ければ、不安が増幅し、それが子どもに伝わります。
すると学校生活が不安でたまらなくなり、「○○さんが咳をしていた」「○○ちゃんに抱きつかれた」など、ささいなことから不安の連鎖が始まるおそれがあります。
リスクを回避しつつも、私たちはそれをどこかで受けいれざるをえません。子どもに対しては不安をあおらないかたちで、なおかつ無防備になってもいけないことを教えていく。
そして、学校の指導が理不尽だったり、おかしいと思ったときは、おかしいと声を上げるようにしていくことが大事でしょう。
一方で、学力への不安から早く学校を再開してほしいという声もたくさん聞かれました。学校が臨時休校になったことによる教育学者の一番の懸念も、やはり学力の格差です。
日本はOECD諸国のなかでもICTに遅れをとってきた現実がありますが、今やるべきなのは、家庭学習を可能にするICT環境の整備を急ぐことです。
具体的には、WiFiルーターやパソコン・タブレットを貸し出すなど、学べない環境にある子どもたちのサポートに重点的に予算を投じ、双方向型オンライン授業の環境を整備する。
コロナ禍のなかでその重要性は、ゆるぎないものになっていると言えるでしょう。教育学者が懸念する学力格差の問題も、これでだいぶクリアできるはずです。
この先も新型コロナの第2波、第3波があるかもしれません。あるいは別の感染症が発生する可能性もあります。台風などの自然災害や季節性インフルエンザなどもあります。
けれども、オンライン授業が整備されていれば、何かあったらいつでも「ステイホームでいいよ」と言えます。もちろん、家庭内に置かれた子どもの状況が苦しかったり、虐待などが疑われる場合は話は別です。
一方で教育の使命としては、同じような教育を与えて、そのなかで努力を重ねていくというのが大きな枠組みとしてあるので、設計上は学校に来てもらうことも大事です。
しかし、オンライン授業が構築されていれば、学校へ行くことをもっともっとゆるくできる。僕はそう期待しています。体調不良のときも、無理をせずに自宅で授業を受けられるので、学校を休みやすくなり、無理する必要がなくなるわけですね。
オンライン授業によって子どもたちの学ぶ権利を保障できれば、いじめを起こした加害側の子どもには授業をオンラインで受けてもらうということができるかもしれません。
学校の態度、変える契機に
もちろん、それだけでいじめを受けた子どもの恐怖がなくなるとは思いませんが、学校側の態度を変えるきっかけにはなるはず。いじめを受けた子が一方的に学校へ行けなくなったり、転校を余儀なくされるのは、やはりどう考えてもおかしいですから。
オンライン授業はリアルタイムで観てもいいですし、録画したものを観るのでもいい。カメラは教師のみオンにして、児童生徒はオフにする。
参加の選択肢を広げれば、不登校の子どもたちも、自分が学びたいタイミングで学ぶことができるようになる可能性があるでしょう。
僕が受け持っている大学の講義は、4月以降ずっとオンラインです。当初は、これで学力がつくのだろうかと思いましたが、学生たちに考えさせる仕掛けをつくったところ、彼らが着実に成長している手応えを感じています。
むしろ、今までなら教室にいても、居眠りをしていた学生もいたでしょう。これは僕にとっても大きな発見でした。
社会でも学校でも、これまではそこに来ていれば評価され、来ていないやつはダメだというレッテルを貼られていました。でも、けっしてそうじゃない。
大事なのはひとつのことを真剣に考え続けることであって、オンラインがそれを浮き彫りにしてくれたことを、僕は今、身をもって感じているところです。
(了/編集・小山まゆみ)
【プロフィール】
(うちだ・りょう)1976年福井県生まれ。名古屋大学大学院准教授。学校管理下の組み体操や柔道を含むスポーツ事故、いじめや不登校の教育課題、部活動顧問の負担など、子どもや教員の安全・安心について研究。
(この記事は2020年6月30日不登校新聞掲載記事『教育学者・内田良が提唱する with コロナ時代の教育構想』より転載しました)