香港映画『淪落(りんらく)の人』が2月1日より日本で公開される。
主演はアンソニー・ウォンさん。『インファナル・アフェア』(2002年)などで知られる、香港を代表するスター俳優の一人だが、この5年の間、俳優活動を封殺され、ほとんど収入を得られない状態が続いたという。
本作『淪落の人』が香港で公開されたのは2019年。その5年前と言えば、若者たちを中心にした反政府運動「雨傘運動」が勃発した年。アンソニー・ウォンさんはこのデモを支持していた。
2019年の逃亡犯条例改正案に端を発するデモの際にも支持を表明し、香港政府に対して自身のフェイスブックなどを通して強い批判を繰り返している。そのため、彼は香港独立派と見なされ、映画界から締め出されていたのだ。
苦境の中でアンソニーさんは、32歳の新人女性監督による低予算映画『淪落の人』への出演をノーギャラで決めた。なぜ、彼は本作への出演を決めたのか、そして、香港映画界の現状と未来について話を聞いた。
「私は身体の自由より、心の自由を重んじる」
『淪落の人』で、アンソニーさんが演じるのは、事故で半身不随となった孤独な中年男性。妻と離婚し、息子も離れた場所で暮らしている。そんな彼の元に、フィリピン人の家政婦が住み込みで働くことになる。言葉が通じず互いにイライラを募らせるも、2人は次第に心を通わせていく。
低予算ながら、アンソニーさんと家政婦演じるフィリピン出身の女優、クリセル・コンサンジの好演が光る、心温まる人間ドラマだ。
香港有数のトップスターであるアンソニーさんはノーギャラで出演を決めたことについて、笑いながらこう語る。
「中国当局からの圧力で仕事がないから暇だったんですよ(笑)。ノーギャラでの出演に関しても、これが低予算映画であることはわかっていましたし、自分を安く見積るくらいなら、ノーギャラの方が良いという程度のことです。その代わり、儲かったら少し分け前をくださいねとお願いしています(笑)」
「暇だった」こともなげに言うが、俳優活動ができなかった5年間、彼はほとんど収入がない状態だったそうだ。
2014年の雨傘運動を支持したことは、はたから見れば大きな代償と思えるが、それでも彼は昨年の香港デモでも支持を表明し、香港政府への痛烈な批判をやめない。それはなぜなのだろうか。
アンソニーさんは「自由には2種類ある」と言う。
「人間には、身体的な自由と心の自由があります。私は俳優活動を制限されただけでなく、日常生活でも気を使わなければならなくなりました。私のような立場の人間は殺される可能性もありますから。
ですので、今の私には身体的な自由は少ないわけです。
その代わり、精神的にはすごく自由です。私はこれからも言いたいことは言い続けます。心の自由がなければ、いくら経済発展して豊かな物質に囲まれても、それは動物園の檻の中の虎と一緒で、飼いならされているに過ぎませんからね」
皆が知る香港映画界はもうない
「一国二制度」が揺らぎつつあり、香港社会全体の自由が危機に瀕しているが、その余波は香港映画界にも押し寄せている。
かつて、香港はアジアを代表する映画産業地帯だった。ジャッキー・チェンやアンディ・ラウ、トニー・レオンなどビッグスターを数多く有し、カンフー映画や犯罪アクション映画に代表される娯楽大作を数多く制作してきた。
1997年の中国返還前には年間200本以上の映画を制作していたが、ここ数年は年間40~50本程度の制作にとどまっている。
その上、中国政府の検閲化におかれ、自由な映画製作ができる状態ではなくなっている。
アンソニーさんも親交の深い、巨匠ジョニー・トー監督は「香港映画が完全に自由な時代はもう終わった」と発言したこともある。
アンソニーさんも、「みなさんが思い浮かべる香港映画界は、もう無いのです」と口惜しく語る。
「みなさんの連想する香港映画は、ジャッキー・チェンやチョウ・ユンファなどが活躍していた時代だと思いますが、そういう時代は終わってしまったんです。悲しいけれど、それが現実です」
それは、97年の返還前から危惧されていたことでもあった。
中国政府による検閲を危惧して、香港映画界は返還の数年前から映画を作り控えする傾向にあった。
その後、アジア通貨危機の余波を受けて、財政的に苦境に立たされた香港映画は、中国本土の資本を頼らざるをえなくなり、合作映画が増加。香港映画は中国政府の検閲を受け入れざるをえなかった。香港出身のビッグスターも中国の大作映画に出演するようになり、急成長する中国映画と裏腹に香港映画は衰退してゆく。
アンソニーさんは、そんな自由を失った香港映画の現状を嘆いている。
「今、香港はどんどん中国に似てきています。政府は様々な制約を増やしていますが、中でも政府が一番恐れているのは、文化や芸術の持つ力です。例えば、学校の教室で学級委員長を決めるという物語を作ろうとします。そうしたら、政府は『それは一党独裁への批判のつもりか?』と圧力をかけてくるほどに神経質になっているんです」
若い世代に新しい香港映画界を作ってほしい
そんな時代に作られた本作は、これまでの香港映画のイメージを覆す作品かもしれない。本作でデビューを飾ったオリヴァー・チャン監督は1987年生まれの若手だ。
外国人家政婦の存在は現代の香港では一般的な存在だが、これまで彼女たちを描いた物語は非常に少なかったからこそ、出演を決めたのだとアンソニーさんは言う。
そんな新しい物語を語る若手世代に、アンソニーさんは一縷の望みを託している。
「この映画は、かつての香港映画にはなかったテーマを扱っています。こういう企画には、まずお金が集まらなかったでしょう。私は、新しい時代の、新しい現実を見つめる若い世代に、ゼロから新しい香港映画界を作ってほしいと思っているんです」
本作でアンソニーさんが演じるチョンウィンは、フィリピンからやって来た家政婦のエヴリンが写真家になる夢を抱いていると知り、その夢を後押しするようになる。外国から香港にやってきた若い人の夢を支えるチョンインの姿は、若者たちの行動を支持するアンソニーさん自身の姿にも重なる。
「彼らの価値観がこれからのスタンダードになるんだということを我々年長者は理解しないといけません。私は常に、古い価値観を下の世代に押し付けないようにと自分に言い聞かせているんです。未来は若い人たちのものですから」
アンソニーさんへの封殺は解けていないが、「自分はすでに過去の人間だと思っているが、できる限り俳優活動は続けていく」そうだ。自由のために、表現し続ける彼の姿勢に、私たちも大いに学ぶところがあるのではないだろうか。
(編集:毛谷村真木)