新作は数分間で、走る地下鉄車内で描かれた!
早朝のロンドンで、マスクとメガネ、白い防護服、完全防備で固めた男性が人気のない地下鉄車両に乗り込んだ。手には除菌剤を入れる容器を重そうに下げている。
みるからに地下鉄車両を毎朝消毒してくれる作業員のようだ。次の駅から別の男性客が同じ車両に入ってきた。すると作業員は、近寄るなといわんばかりに手で彼を制御し、窓や内側壁に水色の液体を吹きかける作業を続けた。
だが、広範囲に壁面に吹きかけた水色の液体で描かれた文字は…「Banksy!」
なんと、作業員はあの覆面ストリートアーティスト、バンクシーだったのだ。
ガタガタと揺れながら走る列車内、いつもの単調な車内アナウンスが流れるなか、クリーナーに扮したバンクシーは、何食わぬ顔で、手際よく、作業を続けた。
アナウンスから、ベーカーストリート駅からユーストン・スクエアー駅までだとわかる。ものの数分だ。その間に残されたのは、水色のスプレーペイントの他、くしゃみをするネズミ。水色マスクを落下傘にして遊ぶネズミ。マスクにくるまってもがいているネズミを描いたステンシル作品。
ロックダウン中の自宅トイレにも現れた「ネズミ」たち
周知のように、バンクシーが描く「ネズミ」は活動初期から登場する、アーティストである彼自身の分身だ。
このネズミは、ロンドンはもちろん、パリにも、NYにも出没した。真偽はともかく東京にも現れた。
ネズミを自らの分身に選んだのには、もちろん理由がある。この動物が人間社会の近くに住み、嫌われ者であり、かつ生命力があるからだ。
バンクシーが活動を始めた1980〜90年代、ストリートアーティストたちは、社会の負だと考えられていたし、日本で展覧会が開催されるようになった今も、その社会的認識が根強い。
ネズミといえば、ヨーロッパでは中世に蔓延したペストと結びつく。
イギリスでも、人口の半分を死に至らしめた疫病の原因として忌み嫌われる存在だ(現在は、ペスト菌の媒体はノミだとわかっているが)。2020年を生きるわれわれ現代人も、同じく疫病である新型コロナウイルスに対し、なすすべもなく、7月に入った今も収束の道筋がみえてこない。
この疫病がイギリスで急速に広がり始めた2020年4月、最初にバンクシーが公表した作品は、自主隔離(ロックダウン)中の自宅洗面所で鬱憤ばらしに、暴れまわるネズミたちの絵だった。
タイトルは、「家で仕事してると妻が嫌がるんだよね」。ここでもネズミと自分を結びつけていることがわかるだろう。
「ロックダウン」と「ノックダウン」に込められた思い
6月に入って、英国政府がロックダウンを少し緩めるや、家から飛び出し、本来の活動の場である街に現れたバンクシーが最初に描いたのは、やはり自由に暴れ回るネズミたちだった。
そして、その活動の場は、キース・ヘリングやバスキアなど、ストリートアーティストやグラフィティライターたちの制作の原点であり、駆け出しのバンクシーが挑戦した場であった地下鉄なのだ。
今回の作品でも「Banksy!」の水色文字の脇に、まるでそれをスプレーしているかのようにネズミが天井からぶら下がっている。ここでも、ネズミはアーティストの分身だ。
約15年ぶりに、バンクシーがタグ(グラフィティライターたちが残す自分の活動名のこと)を残しているのも興味深い。
そうしたことから、コロナ禍で、バンクシーがアーティストとしての存在意義を自ら考え直しているとみても過言ではあるまい。このような状況下、アーティストならば必ずや、自分をみつめる精神活動をするのは自然だからだ。
バンクシーの制作風景を映し出す映像の隅で、さきほどの男性乗客が唖然としてみている。目の前の作業員がまさかバンクシーだとは思いもしなかっただろう。アーティストは仕事を終え、車両を降りると、さっさと朝の風景の中に消えていった。
マスクと覆面、除菌スプレー缶とスプレーペイント缶、環境の除菌作業と環境を汚すこと、コロナとペスト、分身としてのネズミとストリートアーティストとしての自分。
いつもながら、彼の作品には、複雑に絡み合う象徴がある。噛めば噛むほどに面白い。
もうひとつ重なる象徴を加えよう。「ロックダウン」と「ノックダウン」だ。
映像の中で、バンクシーが姿を消した後、地下鉄プラットフォームの向こう壁には、
「I GET LOCKDOWN (おれはロックダウンさせられた)」の水色の文字が残された。
次の瞬間、手前の地下鉄列車が閉まるとそのドアの内側壁には、
「BUT I GET UP AGAIN(でも、また起き上がってやるさ)」の文字が現れる。
バックに流れる音楽は、イギリスの90年代アナーキーバンド、チャンバワンバのアップテンポな曲、「 I get up again(Tubthumping)」だ。
その歌詞が水色スプレーのメッセージと重なる。
「I get knocked down,
But I get up again.
You are never gonna keep me down.
オレはノックダウンされた。
でも、また起き上がってやるさ。
オレをずっとダウンさせておくなんてできないぜ。」
ところで、これは落書きだろうか? アートだろうか?
定義はどうあれ、彼の残したものには、その時やその環境と遊ぶユーモアがあり、今の現実社会へのまっすぐなメッセージがある。
鬱屈した現状を笑い飛ばし、明日への元気をくれることは間違いない。
【追記】
その後、ロンドン交通局は「バンクシーには適切な場所で制作してもらいたい」とコメントし、ルールに則って今回の作品をすぐに消去した。
しかし、そうなることをバンクシーは最初からわかっていた。だから、一連の活動を映像に残し、彼のインスタグラムで拡散したのだ。つまり、今回の場合の「適切な場所」とは映像だったといえよう。
吉荒夕記(よしあら・ゆうき)
ロンドン大学SOAS美学部にて博士号取得、在学中に大英博物館アジア部門にてアシスタントキューレターを務める。2012年、ロンドンを拠点にアートローグを設立。2019年9月には著書『バンクシー 壊れかけた世界に愛を』(美術出版社)を出版した。
(編集:毛谷村真木)