ー はじめに ー
今ニューヨークではコロナの患者数が急激に増え、それに伴いアジア人への差別が問題になっています。この記事の冒頭は私が実際にニューヨークで体験した差別についてです。ですがこれはあくまで前置きであり、私が伝えたいのは差別の実態ではなく、差別の本質です。少々長い記事ですが、最後まで読んでいただける方に目を通していただきたいです。それはこの文章を世に届けるに当たって新たな偏見を生まないために私が出来る事だと思っています。それをご理解の上、ここから先の文章を読んでいただけたら幸いです。
ニューヨーク州で初のコロナ感染者が発見されたのは2020年3月1日、それから約2週間経った
2020年3月19日 木曜日
自宅に帰る途中だった。日曜日から外出禁止令が出るのを知り、友人としばしの別れを告げ、いつものように地下鉄に乗り込んだ。久しぶりの地下鉄だった。夜遅くに帰ることも度々あったので私にとって何ら変哲のない車内だった。特にマスクをしている人もいない。治安の悪さは感じたが、夜は大体こんな感じだ。
電車を降りた。反対側から女性が歩いてくる。少し嫌な予感がした。急いですれ違おうと思い、うつむき気味で足を進めた。ブへェッッツ。顔面に向かって勢いよく唾が飛んできた。一瞬の出来事だった。女性が私に対して何か言っている影が見えた。だが、当の私は何が起きたのかも理解できず、まるで時間が止まったみたいだった。慌てて我にかえって周りを見回すと、白い目で見る大人たちの姿が目に入った。このままだと胸の中で何かがはち切れてしまいそうで、一人で抑えられる気がしなくて、急いでその場を立ち去り母に電話した。スマホひとつで日本と繋がれる時代に本当に感謝しかない。母の声を耳にした瞬間、こらえてた涙が一気に溢れ出した。怖くてたまらなかったのだ。
母と繋がる電話を右手に持ちながら、階段を降り、次のホームに向かった。この時間なのに思ったより人がいる。なるべく各々に近づかないように、安全そうな人の近くで電車を待つ事にした。少し身なりの整った女性の後ろに間隔をあけて立った。母と話しながらすっかり安心しきっていた。と思ったのも束の間、その女性が後ろを振り返り、私の顔を見た瞬間ものすごい悲鳴をあげて走り去った。またも一瞬の出来事だった。彼女は私から十数メートル先に逃げると、鋭い眼差しで睨みつけた。周りの人も同じような目で私を見つめる。正直この時にはもう何が何だかわかっていなかった。ただこれが差別なんだという認識だけはできていた。こんな表現は如何なものかとも思うが、彼女の悲鳴とあの去り方はまるでゴキブリを見つけた時の私だった。
( もう、お願いだから誰も近づかないでくれ。)
心の中でそう思った。到着した電車に急いで乗り込み、なるべく誰にも顔を見られないよう、誰にも遭遇しないよう、慎重に帰路を辿った。
―――――――
初めてニューヨークで恐怖を感じた瞬間だった。私はかなり鈍感な方なのかもしれないが、アメリカで約3年暮らし、それまで直接的に差別を感じた事はなかった。周りに恵まれていたのかもしれない。そのため連日のアジア人に対する差別のニュースを見るたびに、私は絶対言い返してやる、と自信を持っていた。だが、軽く見すぎていた。言い返す事は思ったより簡単ではなかった。ただただ怖く、状況を理解するので精一杯だった。
そしてもう一つ怖かったのは、誰も手を差し伸べてくれなかった事だ。私が差別を受けた時、周りの人たちは、まるで悪いのは差別をしている方ではなく、アジア人の顔をしている私だと言わんばかりの冷たい視線を向けてくるだけだった。Why do I have to be discriminated against based on my race? Because I am Asian?
ただただ悲しかった。
世界ではコロナは中国が発祥だと言われている。あの大統領でさえChinese virusというくらいだ。それに影響されている人も多いだろう。だが、それが誰かを差別していい理由には繋がらない。ニューヨークシティーという街は A Rainbow Community と言われるくらい、様々な人種の人がお互い助け合って暮らしている。だが、私の目に映ったその街は、もはや私の知っている街ではなくなっているような気がした。正直、今でも外に出るのは怖い。まして地下鉄なんて死んでも乗りたくない。
私は忘れないうちに、その時に起こった事、感じた事、それを踏まえて思った事を時間をかけて全て文字に書き起こした。わざわざシェアする内容ではないし、私自身切り替えは早い方なので怖くて辛くて誰かに知ってほしいという思いがあったわけでもないが、みんなが同じ辛い状況だからこそ、今は誰かとの壁を作る時間ではなく、お互い助け合える世界になったらいいな...と思い、その強い気持ちを添えてFacebookに投稿した。また、自分自身も知らない間に誰かを差別しているのかもしれないという事を今一度見直すきっかけになればいいなと。今回の話はあくまでほんの一部の心無い人の行動であって、アメリカ人みんながみんなそうでないということも知ってほしいという思いも付け足した。
想像をはるかに超える多くの人からコメントが来た。そのうちのほとんどがアメリカ人だった。友人、先生方、アドバイザーから、教会でお世話になった方々まで。とても温かく愛の溢れるメッセージをたくさんいただいた。私の周りはこんなに素敵な人で溢れていて、私を一人の人間として見てくれているという事実に改めて感激した。彼らがいたからこそ私はアメリカを好きになり、ここまでやってこれたと言っても過言ではないくらい大切な人ばかりだ。それとともに、どんなことがあっても、私も彼らの味方でいたいと確信した。
本題はここからだ。
今回この記事を書いたきっかけは私自身の言葉でこの想いを綴りたかったからだ。
というのも、知り合いから私の投稿を大手のメディアで紹介したいと連絡が来たのだ。それにより何か少しでも世界がいい方向に変わるならぜひ紹介して欲しいと思った。それと同時に、もしこの記事を読まれた方が違う解釈をしてしまったらどうしようという不安が頭をよぎった。私の投稿に目をつけていただいた事に対しては嬉しい。たが、誰かの手に加えられた記事が世に放出され、それにより新たな偏見が生まれてしまう事の方がよっぽど怖かった。お気持ちだけ受け取り、今回は丁重に断らせていただいた。
その後の返信で私の判断は間違ってなかったと確信した。
「せっかくの立派な意見だったので差別偏見を食い止めるためには最適だと思いましたが、お気持ちを尊重します。.... 昨日もアジア人は強制送還だと騒いでいたアメリカ人がいたとか。そっちの方を追求してみますね。...」
ああ…
やはり私の伝えたい事は伝わっていなかった。気持ちを尊重していただいたのは有難い。だが、私はこの投稿をアジア人差別や偏見を喰い止めるために書いたのではない。どんな人種であれ、今の状況を理解し、一度頭の中を真っ白にして、自分の心と対話をするきっかけを作って欲しかった。そして私自身も作りたかった。ただそれだけだった。その想いを何文も重ねて投稿したつもりだった。自分の想いが同じ形で伝わらなかったもどかしさと共に無念さを感じた。
アジア人差別を喰い止めるために大きく行動する事が正義だ、と言う人がいるのだとしたら私は同意し難い。実際アジア人差別が増えてきているのは本当だ。しかし、そこでその差別事例のみを切り取って、他者の言葉で書き換えられた記事を発信し、敵対する事は何の解決にもならない。また、その情報を拡散する人々の半数は見出しだけを読んで、軽い気持ちで拡散することだろう。切り取られた情報だけが拡散され、誤解を招き、偏見に繋がりかねない。前述した通り、全てのアメリカ人が差別をするわけではない。ごく一部の心無い人だけなのだ。過剰な情報の発信は、現地を知らない人にとって、アメリカではアジア人差別が酷くて、アメリカ人は怖いという発想を植え付けてしまう可能性だってある。私たちは現代社会において、情報の操り方次第で知らない間に差別をする側に立つことができてしまうのだ。
悲しい事に世界では差別をしてしまう人は多かれ少なかれ存在する。けれども、それと同時に私たちに手を差し伸べてくれる人がいるのも事実である。
It might happend in China at first, but it could have happened in any other country. What if that was your country? 今差別をしている人に問いかけたい。もしこれが貴方の国だった場合、貴方は同じような行動をとるだろうか? 今回はたまたま中国から始まった。いや待て。始まったと言われているだけかもしれない。第一次世界大戦の末期、欧米で猛威を振るったスペイン風邪。発症の元凶はスペインでもなんでもなかった。そうやって名前だけが一人歩きして、新たな偏見が生まれたのかもしれない。
これは友人が私の投稿にしてくれたコメントの一部である。The ignorance and cruelty of mankind boils to the surface when some people look to blame others that are different than themselves. (人間の無知と無慈悲は、一部の人々が自分達とは異なる他者に非難を向ける時に表面に湧き出る。)そう。差別とは人間の無知と無慈悲によって生まれる。かつて哲学者のプラトンが無知を「いわば何一つ知らないのに、全てを知っていると私たちは思い込み、知識のない事を他人に頼る事なく、自分自身で行って必然的に誤ってしまう」と定義していたのを思い出した。
私たちは正しい知識を持っていないのにも関わらず、断片的な情報により全てを認識していると思い込み、誤った行動をしてしまうことがある。「知っている」と思い込むことは、これ以上学ぼうと探求しないことに繋がり、それこそ私達の知を愛する道を閉ざす恐れがあるとソクラテスは警告していたほどだ。
そしてソクラテスはこんなことも言っている。”The only good is knowledge and the only evil is ignorance”(唯一の善は知ることであり、唯一の悪は無知であること)
これから新たな差別を生まないためにも、自分たちの無知さに気付き、今の情報社会での情報の取捨選択と、常に探求し続けることが大切だ。本質を知ろうとすることで、他者を無条件に非難することはなくなるだろう。これは今の状況だけでなく他のどんな状況にも当てはまる。差別を正当化できる理由はどこにも存在しないのだから。
私は実際に差別を受けて、差別の怖さ、誰も助けてくれない孤独、そして、自分がいつでも差別する側に立てるという恐ろしさを学んだ。私がこの記事を通して伝えたいことは、酷い事をされた事実でもなく、ニューヨークのアジア人差別の現状でもない。一人一人が今ある状況を理解し、目を閉じて、ゆっくり息を吸って、自分を見つめ直す時間を作って貰えることこそがこの記事を書いた大本命なのである。
- Take a deep breath and relax. Now, think about it; what’s happening in the world, what you can approach this situation and what you can do right now -
- あとがき -
これをある身近な人に見せた時、いい人ぶりすぎてるのでは?と言われた。それを言われてからすごく悩んだ。私はいい人ぶっているのだろうか?ならこの記事を出すのをやめようか。と。そう思いながらさりげなくFBを開いた。アメリカにきてからよくして頂いている知人が私のことをメンションするポストをしてた。そこのコメント欄を見たら私の知らない方々の心温かいコメントがたくさん連なってた。涙が止まらなかった。私のことを知らない人までもがこうやって温かい言葉を送ってくれてることに。溢れんばかりに涙が出た。ただただアメリカで出会った人たちが大好きなだけなのだ。私は文章を書くのが得意なわけではない。だけどどんな形であれ、この記事で何か感じてもらえれば大収穫だ。
(2020年3月24日のemukoさんのnote掲載記事「ニューヨークで初めて受けたアジア人としての差別. それがもたらしたもの.」より転載。)