「スポーツウォッシング」という言葉が、近年よく使われるようになっています。
そして2022年は、この問題が特に懸念される年だとも言われています。
スポーツウォッシングとはどんな行為で、なぜ今注目されているのでしょうか。
スポーツウォッシングとは
スポーツウォッシングは「スポーツ」と、不都合なことを覆い隠す「ホワイトウォッシング」という単語をあわせた言葉。
国や団体、会社、個人などが、スポーツを利用して自身のイメージを向上させようとしたり、問題を覆い隠そうとしたりすることを意味します。
中でも、独裁的な政権がスポーツイベントを開催して、自国の人権問題から国際社会の注意をそらす試みに対してよく使われます。
この言葉が頻繁に使用されるようになったのは比較的最近ではあるものの、スポーツウォッシング自体は古くから存在しています。
その一つが、1936年のベルリンオリンピックです。
ナチス政権はこのオリンピックを、アーリア人の優位性を喧伝したり、反ユダヤ主義や差別政策などを隠したりするプロパガンダツールとして利用しました。
スポーツウォッシングが注目されている理由
スポーツで問題をごまかそうとする行為には、ますます厳しい目が向けられるようになっています。
アムネスティ・インターナショナルは2018年、ロシアで開催されたサッカーワールドカップをスポーツウォッシングだと指摘しました。
その理由として、ロシアで活動家やLGBTQへの人権侵害が続いていることを挙げ、「FIFAが有意義な人権デューデリジェンスなしにロシアにワールドカップ開催の権利を与えたことは、手痛いオウンゴールだ」と批判しました。
また、2014年にソチ五輪を開催した国際オリンピック委員会(IOC)についても「ロシアでの人権侵害を見て見ぬふりをした」と述べています。
2022年は、スポーツウォッシングが一層注目される年だと言われています。人権状況が懸念されている国で、オリンピックとワールドカップが開かれるためです。
北京オリンピック・パラリンピックが開催される中国は、新疆ウイグル自治区での人権侵害疑惑や、香港の民主主義弾圧、前副首相からの性的関係強要を訴えたテニスの彭帥(ほう・すい)選手が一時行方不明になった問題などに、国際社会から厳しい目が向けられています。
また、ワールドカップが開かれるカタールでは、会場建設工事などに携わる外国人労働者たちが死亡しており、給与未払いも報告されています。他にも、同性間の性行為が犯罪とされている点や言論の自由の弾圧も、問題視されています。
大会開催以外でも、スポンサーシップ契約やチーム買収という形のスポーツウォッシングもあります。
2021年にサウジアラビア政府系ファンドを中心としたコンソーシアムが、英プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドを買収した際に、スポーツウォッシングだと指摘されました。
こうした問題から目をそらしたり、サウジアラビアのイメージ向上のために、クラブやリーグの人気が利用されかねないという懸念があります。
サッカーチーム買収の他にも、F1やボクシングなど様々な国際大会を積極的に開催していますが、スポーツで人権侵害の問題を覆い隠そうとしている、と言われています。
また、スポーツウォッシングは海外だけの問題ではありません。新型コロナの感染が広がる中で開催された東京オリンピックに対しても、スポーツウォッシングだという批判が起きました。
スポーツウォッシングを防ぐために
スポーツウォッシングに、国際社会はどのように向き合うべきなのでしょうか。
北京オリンピック開幕を控えた1月14日、アムネスティ・インターナショナルは、「国際社会はスポーツウォッシングに加担すべきではない」とする声明を発表。「むしろオリンピック・パラリンピックを利用して、中国の人権状況改善を後押しすべきだ」と訴えました。
同団体がIOCに求めたのが、人権デューデリジェンスの徹底的な実施や、選手たちが安心して声を上げられる環境づくりです。
アムネスティ・インターナショナル中国研究員のアルカン・アカド氏は「中国では、表現の自由の権利が組織的に侵害されています。だからこそ、IOCや各国オリンピック委員会は、人権問題で声を上げようとするアスリートやスポーツ関係者に敬意を払わなければなりません。それには当局が“慎重”と考える問題も含まれています」と述べています。
アカド氏は他にも、事前に約束した大会期間中の報道の自由の保障や平和的抗議活動の許可を中国政府に守らせるよう、IOCに求めています。
スポーツには、社会を動かす力があります。
アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカは、1960年代から30年近く五輪参加が禁止されました。同国はサッカーやテニスなど他のスポーツの国際大会参加も認められず、ボイコットはアパルトヘイト政策が撤廃されるまで続きました。
こうした、人権や平等を守ろうとするアスリートたちをひとりひとりが支持することでも、私たちはスポーツウォッシングにノーと言えるのかもしれません。