私も「昔は」ソニーが好きだったのである。
小学校の時、同級生のS君のお父さんがソニーに勤めていた。
S君はスポーツ万能で、勉強もでき、クラスの人気者だった。
誕生会でS君の自宅に行くと、当たり前だが、
家じゅうにソニー製品が溢れており、
それはそれは、羨ましかったのを覚えている。
ソニー製品のデザイン、コンセプトが好きだった。
とにかく「夢」があった。
しかし商売をやっていた私の父は松下幸之助氏が好きで、
家の家電はほとんど「ナショナル」だった。
初めてソニーの製品を買ったのは、高校の時、自分のお金で、確か「YOKOHAMA」という名前の横長で薄型のラジカセだったと思う。
その後、大学生になり、ウォークマンを2台、結婚して子供が生まれた時に、カールツァイスレンズを搭載したハンディカメラを買った。
でもそれ以降、ソニー製品を買っていない。
ソニータイマーというのがあるのかどうか定かではないが、まあ、そういうことだ。
投資銀行で働きだしてからは、ソニーを製品よりも発行体として見るようになった。
ソニーはほぼ毎年の様にセグメントを変更しており、経験から言うと、業績の悪い発行体ほど、よくセグメント変更を行う。社内的に、迷いがあり、考え方が錯綜しているからなのかもしれないが、アナリシスサイドからすると、各事業ポートフォリオ分析を行うにあたり、過去からの時系列分析が出来なくなるので、極めて不便だった。そして相次ぐ業績下方修正にも辟易としていた。
公募増資の時も否定的な見方をした。
事業ポートフォリオにおいて、ソニーでコンスタントに稼いでいるのは金融(ソニー生命)であり、エレキは投下資本が過大すぎるので、回収(売却)が必要だとも書いた。
仕事の関係ではなかったが、これでも平井CEOと某所で会い、話もした身である。
最後に名刺交換した時、「機関投資家様でしたか。」と苦笑いされた。
とにかくソニーをdisっていた。
そんなソニーが今日、5月7日で設立70周年を迎えた。
1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。
ところで、井深は新会社を発足させるにあたり、設立の目的を明らかにした"設立趣意書"を、自ら筆を執り、取締役の太刀川に預けていた。それを設立準備のゴタゴタにまぎれて、すっかり忘れていた。後に、太刀川が井深に、「こんなことを書かれたんですよ」と見せたところ、「なかなか良いことを書いたんだなあ......」と自ら感心する始末。
しかし、設立式当日の井深の挨拶は、その"設立趣意書"に書いたことと寸分も違っていなかった。いわく、「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう」
資本金は19万円。機械設備とてない。お金や機械はなくても、自分たちには頭脳と技術がある。これを使えば何でもできる。それには、人の真似や他社のやっていることに追従したのでは道は開けない。何とかして、人のやらないことをやろう。この時から、既に東京通信工業の進むべき道は決まっていたのだった。
資本金19万円。当時盛田さんは26歳。井深さんは39歳である。
尤も戦後すぐなど、仕事など自分で作らなければいけない時代だったのは、容易に想像できるし、だからこそ、どの業界であれ、需要は大きくあるので、いかに早く始めるかだったのだと思う。
それでもソニーが、かつての東京通信工業が、ここまで大きくなったのは、ひとえに「製品オリエンテッド」だったからだろうし、高度成長時代の日本に上手く乗ったという環境もあるだろう。
しかし、ここに書かれているのは一貫して「好奇心」である。やはり大事なのは、そういうことなのだ。
幸いにも前期、ソニーは業績を大きく戻し、売上8兆1000億円、営業利益2942億円となったが、利益の半分はやはり金融が稼いでいる。ROEも6.17%とまだ目標である10%には足らない状況であるが、ゲームの利益が回復する等、ようやく兆しが見え始めて来た。
ということで、これからのソニーに期待したい。
ソニー、設立70周年、おめでとう。
(2016年5月7日「田中博文 Official Site」より転載)