「私は単に命令に従っていただけだ」 ―現代ドイツ社会の街角で

今でも、この社会は、警察以外の市民が他者を相互に警戒し、密告したり取り締まるようなことを奨励しているのではないかとさえ疑う時がある。

先日の日曜日、私が住む街のドラッグストアで感じたことを率直に書かせて頂く(なお、ドイツでは日曜日は基本的にレストランや一部の商店を除いて商店街やその他の店もすべて閉まっているのが普通であるが、この日は日曜でありながら、この町のoffener Sonntagと呼ばれる特別日曜市のため、多くの商店が開いていたということを踏まえてほしい)。

この日、私は、閉店の時間が迫っており、早く買い物を済ますよう店員に迫られた。そのため、余計なものを買うのを控え、レジに急いだ。

レジ待ちをしていると、一人の中年の女性店員が来客を追い返そうと入口のドアの前で立っているのが見えた。ここまでは、ドイツでは日常の光景である。

しかし、閉店間際であったが、来客が押し寄せる。この来客に対して彼女が何か言っているのが聞こえる。まるで映画の中で見る刑務官のような顔をして、入店させまいとこの来客である人物を追い払っているのである。

ここまでならまだよい。見た目からは、ホームレスと思われる男性が続いて入店しようとしている。彼女がこの男性の前に立ちはだかり、顔を近づけながら、ものすごい剣幕で怒鳴っている。彼女は、彼を追い返すことに成功した。

続いて、男性が入店しようとしたが、すぐにあきらめた。さらに、一人の男性が入店しようと訪れた。

彼は、「Ich brauche ... heute (今日・・・必要なんです)」と述べたが、彼女は「Es ist heute Sonntag, egal!(今日は日曜日だから、そんなのどうでもよい!)」と返答したのである。

驚きである。この日、来客として店を訪れようとした彼が必要としていたものを店員である彼女がそんなもの必要ないと言い放ったのである。

彼が何を必要としていたのかを聞き取ることはできなかったのだが、彼はすぐにあきらめた。ある意味で、何かのコメディでも見ているような感覚であった。

彼女は、彼の何を知っているのだろうか?

もしかしたら、彼らはこの日初めて顔を会わしたのではなかったのかもしれない。しかし、それでは、なぜ彼女は彼を追い払ったのだろうか? 彼の必要なものに関して、彼女には何か言う権利があるのだろうか?

彼女は、警察官なのか? 店を訪れた市民らは何か悪いことをしたのだろうか? 彼女は、街の一角を取り締まるような権限を持っているのだろうか?

言うまでもなく、彼女の行為は、先進的な民主社会で許容できるものではない。

確かに、周りの人間を全く無視した度を超えた恣意的な客を追い返す行為は、ある程度許されるべきであるが、単なるドラッグストアの一店員である彼女に、店に訪れただけの人間を怒鳴ったり、ましてや人が必要としている物に対して必要ないなどと文句をつけることなどもってのほかである。

確かに、この日は日曜日であり、彼女は店じまいをして早く帰宅したかったのかもしれないが、彼女の行為は、周りで見ているだけでも非常に不愉快な行為であった。

ここは、過去の世界ではないし、独裁国家の政治犯収容所や刑務所ではない。また、第三世界の小国でもなければ、今のドイツは極端なインフレに陥っているわけでもない。ここは、列記とした現代の民主国家ドイツ連邦共和国の小さな町の商店街の一角である。

これは、この町特有の問題であるとする意見もあるかもしれないが、私の印象では、他の町に比較すると、むしろこの町ではこういうことは少ない方だと思われる。

問題は、この社会では、このような消費者側に対する生産者側のある種暴力的な威嚇行為を問題であると意識する人間が少ないということである。

そのため、この社会は、上に書いたような問題行為を多く許してしまっているということなのである。確かに、それがこの社会のやり方であるとかこの社会の文化であるという見方もできるかもしれないが、実は問題はそういうことではない。

というのも、私がドラッグストアで経験したように、この社会では、社会のエンジンの稼働サイクルを乱すような行為は、誰でも容赦なく咎められるという事実があるからである。一日の稼働を終えるためのそのエンジンを止める作業は、まるで大型洗濯機が洗濯物を濯いだ後にその余分な水を流し、さらに余計な水を取り払うために「脱水」している様を見ているようである。

なお、この国では、誰にでも分かり易い法や条例に関する意識が非常に高く、それを無視するような行為に対しては誰でも誰にでも口出し、むしろそれを行なうのが社会正義だと考えている節が非常に強いということも指摘できる。

彼らは、法や条例を守らない行為に対して著しく不寛容なのである(もちろん、法治国家である以上これは当然なのだが、この国では一般市民において法に対する規範意識が必要以上に強いのである)。反対にいえば、皮肉なことに、法の権限の及ばない行為は、全く野放しになるということである。

上のような点で、ドイツは、政治的な意味で未だ後進国であるといってよいかもしれない。戦後70年以上が経過した今でも、この社会は、警察以外の市民が他者を相互に警戒し、密告したり取り締まるようなことを奨励しているのではないかとさえ疑う時がある。

例えば、子供連れ専用駐車場に子供連れではない者が車を止めようとしたり、公園内へペットを少しでも侵入させようとしたりすれば、すぐに誰かが近寄ってきて「Verboten!」(禁止です!)と言われる始末である。歩道と単なる線で区分けされただけの自転車専用車道に歩行者が入ろうものなら、ひどく怒鳴られる。

上のような社会生活での一幕を見ると、この国の過去を深く考えさせられる。間違いなく、ドイツでも、より他者に寛容な民主社会の実現という観点から見れば、国民は自分たちのメンタリティに大きな問題を抱えている

たとえある社会においてある社会的行為や社会的規範が「機能」という点から評価できるとしても、人間を神にしてしまった「お客様第一主義」は問題であり、市民が相互に囚人あるいは収容所の政治犯のように取り扱い合う「警察精神主義」もまた問題なのである。この点で言えば、まさに文化および社会的慣習の中に問題が潜んでいるといってよい。

この点では、それゆえ、どの社会にも言えることであるが、普通われわれは問題を一層認識しにくい環境に置かれている

というのも、社会生活において、問題とは、常にある文化や社会習慣の内部で起こるのであるが、個人の心のうちに深く行動規範として染みついている社会習慣という枠の中で、その習慣自体を問題と見做すというのは誰にでも非常に難しいからである。

とはいえ、この社会には、自らの問題を認識する声も明らかに存在する。この国には、それを乗り越えるための知的なストックも十分にある。この点から見れば、確かに非常にポジティヴな展開を期待できるかもしれない。

けれども、問題はそう簡単ではない。この国の哲学者たちは、戦後この社会に深く染み付いたドイツ的メンタリティを民主的にポジティヴな帰結をもたらすよう変革することを課題としたが、果たしてその成果はいかなるものであったのだろうか。

もし日々われわれが子供たちに現実に社会で起きていることを率直に伝えることができないのならば、彼らは過去を決して認識することができないであろう。その時、彼らに何が起こっても、われわれは彼らにおいて真実が問い質されると確信できない。

歴史は繰り返す。それでも、人はまた「私は単に命令に従っていただけだ」というのであろうか。

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