■蔓延する不寛容と過剰反応
ジャーナリストの神保哲生氏と社会学者の宮台真司氏による有料放送、『ビデオニュース・ドットコム』の4月30日に配信された番組は『誰が何に対してそんなに怒っているのだろう』というタイトルで、昭和大学医学部教授で精神科医の岩波明氏をゲストに迎えて、今の日本社会に蔓延する不寛容について様々な観点から議論が行われて大変面白かった。番組で例として取り上げられていたのは、年初から大騒ぎになった、ベッキーの不倫に対する集中豪雨的に浴びせかけられた過剰とも思える批判(活動中止にまで追い込まれてしまった)、最近の熊本地震と関連した、女優の井上晴美のブログや、タレントの紗栄子が義援金を送ったことの報告に対するバッシング、元モーニング娘。の矢口真里の不倫騒動をネタにしたテレビCM内容に対して視聴者が不快感を示す声があがって放送中止になったことなど、ある程度ニュースを継続的にウオッチしている人なら誰でも知っているであろう件ばかりではある。多少はバッシングを受けるのもやむをえないと思える案件も少なくないとはいえ、やはり過剰気味であることは確かだ。しかも、井上晴美や紗栄子に対するバッシングなど、昨今、理解に苦しむ、あるいは違和感を感じてしまう案件もすごく多い。だが、類似の事例はまだいくらでもある。あり過ぎるくらいだ。事例という点では、この番組でも紹介していた本、心理学博士の榎本博明氏の『「過剰反応」社会の悪夢 』が参考になる。ここに出てくる案件も、違和感を感じる事例のオンパレードだ。例えば、本書の冒頭に出てくる事例だが、皆さんはどう感じるだろうか。・ジャポニカ学習帳の象徴として30年以上の続いた表紙の昆虫写真に対して 『気持ち悪い』というクレームが来て廃止に追い込まれた・東京ガスの家族の温もりを伝えるテレビCMに、 『就活がうまくいかないのに傷ついた』というクレームが殺到して CMが中止に追い込まれた・全国各地で子供の声がうるさいといった保育園へのクレームが 相次いでいて園児が外に出て遊ぶことを制限している保育園がある・高校野球で、野球部の裏方で頑張る女子マネージャーに 批判が集中したこうして並べてみると、今の日本はただならぬ状態にあるのではないかと思えてくる。日本って、こんなに生きづらい国だっただろうか。私が知っていた日本の良さはすでに霧散してしまったのだろうか。確かに昔から、時に相互に監視しあう息苦しさが充満して窮屈なのが日本社会ではあるが、それでも、ガスが抜ける穴もいっぱいあいていたし、『村のルール』から極端に逸脱しなければ、比較的寛容で、少々いい加減なところがあるのが日本の良さでもあったはずだ。一体何が起きているのだろう。だが、よく考えてみると、自分の身の回りにもすでに同種の事例を沢山見つけていたことを今更ながらに思い出した。
■法律分野にも蔓延する過剰反応
例えば、私は仕事がら法律問題について関心を持たざるをえない立場にあるのだが、この領域も最近では『過剰反応』の事例に事欠かない場所になってしまっている。例えば、『個人情報保護法』はその成立当初から、過剰反応が相次ぎ、今では学校や職場での緊急連絡先一覧はつくれなくなってしまったし、病院で名前を呼んだりするとそれだけで激しく糾弾されたり、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないような事例がたくさん報告されてきた。法律に名を借りた問題なのに、もはや法律で規制されている範囲など誰も気にしていていないようにさえ見える。この点だけでも、日本社会をものすごく閉塞させてしまったと私はずっと思っていたのだった。法律に詳しい人ほど、その過剰な解釈や反応には愚かしさを感じて辟易していると思うのだが、そんなことを口にしようものなら、それこそ強いバッシングを受けてしまう。法律家はもはや法律を理解しているだけではつとまらず、日本人の集団心理を理解しないことには有益なアドバイスなどできない様相になっている。
■荒れるコメントで溢れるブログ
また、こうして書いている私のブログだが、ブログにいただくコメント(twitter経由のものも含む)、特にBlogos経由のコメントは時に大変辛辣だ。たいしたことを書いているわけでもないので、批判をいただくことはやむないと、もともと諦めてはいるが、内容とはまったく関係がなかったり、関係があっても趣旨を取り違えているとしか考えられなかったりという例があまりに多い。しかも、言い方が驚くほど上から目線で、乱暴なコメントがすごく多い。コメントにはいちいち反応して、読んでいただいた方とのコミュニケーションをはかっていきたいと以前は考えていたものだが、何か反応すると、ここぞとばかりに、さらに方向が滅茶苦茶になってしまうことが相次ぎ(先輩ブロガーからアドバイスいただいたこともあり)最近は何を書かれても、あえて反応しないようにしている(せざるをえない)。このブログの荒れるコメントについては、ブロガー仲間には同じ思いをしている人が驚くほど多い。皆、悩みながら書き続けているのだ。いつの間にか、今の日本では、日常生活のあらゆる場面で過剰反応が猛威を振るっていて、企業も個人もそれぞれの立場で苦慮している。実際、市場からの撤退を余儀なくされる企業が出たり、炎上や過剰な批判を嫌気して、人が意見を表明しなくなったりしてしまうようなことはそれこそ日常茶飯事になっている。このような事態を放っておくと、
■過剰なサービスが原因?
日本の過剰なサービスが原因の一つという見方もある。日本のサービスは、全般に、そのクオリティの高さを世界に誇れるものだ。特に昨今、中国からの観光客が大量に日本を訪れるようになり、日本の様々なサービスに触れるようになると、それを絶賛するコメントを多数目にするようになり、日本のホスピタリティーの優越性を再認識している日本人も少なくない。ところが、サービス提供者の徹底した腰の低さをいいことに、過大なサービス/行き過ぎたおもてなしを要求して、受け入れられないと、ネットで過激な誹謗中傷を発信して、サービス提供者を撤退に追い込むようなケースがすごく増えているようなのだ。一昔前の日本人の(サービスを受ける側の)『客』は、過剰なサービスに対して、過剰なくらいの慎み深さで反応し、サービス提供者の揚げ足取りをするようなことはあまりなかった。その双方の腰の低さは、日本社会のモラルの高さ、居心地の良さ、社会の安定感を醸成していたはずだ。ところが、サービス提供者と客の相互補完で成立していたはずの関係も、客の側が一方的に図に乗って放漫になれば、成り立たなくなってしまう。お客様は神様とばかりにおだてられ続けたため、いつの間にか過剰な権利意識を持つようになったのが原因ではないかというわけだ。確かにそういう側面もあるだろう。だが、それだけで全てを説明するのは少々無理があるように思える。
■第一原因はインターネット(ソーシャルメディア)?
それ以外にも、経済低迷による余裕のなさ、訴訟社会の米国を真似た『法化社会化』の進展などいくつも原因の候補はありそうだ。ただ、突き詰めると、どれも原因なのか結果なのか、曖昧になってくる。第一原因は何なのか。挙がった候補について仔細に検討してみると、どうやらインターネット(中でもソーシャルメディア)の負の側面の悪影響が一番大きな原因の一つといえそうに思えてきた。この点、最近出版された、慶応大学の田中辰雄准教授と国際大学GLOCOMの山口真一助教の共著『ネット炎上の研究』がその辺りの事情に切り込んで分析していて大変参考になる。本書のタイトルは『ネット炎上の研究』だが、本書は狭義の『ネット炎上』以上のことを語っているように読めた。本書の最も重要な指摘は、現代では、、ということだろう。炎上やバッシングがタレント生命を断ち、CMを中止に追い込み、店を閉店に追い込み、多様でバランスのとれた発信者の発信をやめさせ、偏った過激な意見ばかりが横行する。本書によれば、ネットの炎上の参加者は、わずかネット利用者の0.5%なのだという。それなのに、その影響力は大きすぎてしかも止めることができない。
炎上で問題にすべきなのは、現状のSNSでは、誰もが最強の情報発信力を持っていることである。すなわち、誰もが相手に強制的に直接対話を強いることができ、それを止めさせる方法がない。ブログにコメントを書き込めば、ブログ主とそのブログを見ている人は全員そのコメントを見ることになる。そして、コメント者はいつまでもこれを続けることができ、止めさせる方法がない。
アクセス禁止にしても他のIDを取り直せるし、炎上時にはあとからあとから新手の人が現れる。有無を言わさず相手に直接対話を強いて、その直接対話をいつまでも続けることができること、これはネット上では当たり前のように思えるが、一般的な情報発信のあり方としてはきわめて異例である。一個人の情報発信力が不釣り合いに大きいからである。
『ネット炎上の研究』より
インターネットには固有で本質的な弱点が潜在していて、利用者が増えるに従って今その弱点が露呈してきている、という本書の指摘は正鵠を得ているように私には思える。すなわち、そもそも学術ネットワークとしてスタートした当初のインターネットは、参加者もいわば騎士道精神あふれる騎士ばかりで、最強の発信力を濫用したり、暴虐に手を染めるようなこともなかったのが、今ではインターネットは社会インフラとなり、牧歌的風景は去り、少数だが、特異な人もいる世界全体への適用に堪えなかったというわけだ。そして、いつどこで撃たれるかわからない殺伐とした荒野が広がったのだという。だからといってインターネット利用を禁止してしまえばよいかと言えば、それは違う。この点、本書の指摘には全面的に賛同する。
インターネット全体の情報発信の仕組み自体は変えられないし、変えるべきでもない。一個人がマスメディアの力に頼らずに世界に情報発信できることはインターネットの最大の利点である。これは人類史上初の快挙であり、社会が情報社会に進もうとするなら守るべき必須条件であって、これを1ミリたりとも侵すべきではないだろう。
『ネット炎上の研究』より
■炎上対策案
それを前提として、本書では炎上の規制対応案として、次の5つをあげている。(1) 名誉毀損罪の非親告罪化(2) 制限的本人確認制度の導入(3) 誹謗中傷(炎上)に関するインターネットリタラシー教育の充実(4) 捜査機関における炎上への理解向上(5) 炎上対処方法の周知これに加えて、現状では『普通の人』が参加しにくい討議の場としてのSNSにつき、受信と発信が分離された『サロン型SNSの構想を提案している。だが、このうち、(1) はやがて法による表現の弾圧や別件逮捕の材料に使われるような負の影響が大きいと考えられること、(2) は違憲(憲法違反)の可能性に加え、そもそも効果が薄い(先んじて導入した韓国では効果がないとの判断でこの策を廃棄してしまった)ため、(3)(4)(5) に積極的に取り込むべき、とする。だが、(3)(4)(5) はいずれも直接的な対策ではなく、間接的な対応策であり、即効性は期待できない。現段階では即効性のある対策が見つかっていないということになる。
■日本だけの問題ではない
ちなみに、インターネットの負の側面がの影響が上記のような問題を引き起こしているのなら、これは日本だけではなく、全世界的な問題ということにはならないのか。だが、これまで米国のインターネットは実名制中心で、日本と違って、活発に有益な議論が行われていて、日本で起きているような問題はあまり起きていないと少なくとも私はそう思っていた。インターネットの政治利用についても、オバマ大統領の選挙戦にインターネットが使われて華々しい成果を上げたとされる米国のことを眩しく感じていた。ところが、どうも米国でも日本と同じようなことが起きていることを思わせる報告もある。米国在住の渡辺由佳里さんの『やじうま観戦記!』によれば、米国大統領選における指名候補争いにおいて、ソーシャルメディアの負の部分を武器として最もよく理解し、巧みに使いこなしているのが、共和党のトランプと民主党のサンダースというのだ。そして、それぞれの支持者のいがみ合いが、ネットを離れ、さまざまなリアルにまで飛び火しているという。3月11日に行われたトランプのラリーでは、会場でトランプ支持者とサンダース支持者が衝突し、警官が出動して怪我人や逮捕者が出るほどの騒ぎになった。しかもこの騒ぎはさらにエスカレートして、カリフォルニアでは暴動に発展した。また、民主党のヒラリーを指示を明らかにした上院議員のスピーチに対して、サンダース支持者の若者が『whore(売女)』とか『bitch(メス犬)』といった汚い言葉でヤジやブーイングを飛ばしてスピーチを妨害し、たしなめられると、『憲法修正第一条で保証された表現の自由を知らないのか? 僕には発言の自由がある!』と怒鳴り返す、という一幕があったというが、何やら、日本のヘイトスピーチを思わせるものがないだろうか。いわゆる炎上事件も起きているようだ。トランプは対立候補に、#LyingTed、#LittleMarco、#LowEnergyといったハッシュタグをつけてツイッターで馬鹿にする。すると、何千、何万ものトランプのフォロワーがよってたかってその候補を嘲笑う。また、サンダースに批判的なコラムを書いたノーベル経済学賞者であるポール・クルーグマンのツイッターには『クルーグマンは安楽な民主党のエスタブリッシュメントの味方』、『ヒラリーから閣僚の地位を約束されたんだろ?』、『アカウントを閉じろ』といったリプライが押し寄せ、フェイスブックは『ちびの情けない男』、『知性のかけらもない』といったコメントで埋まって、現在は閉じているという。こうしてみると日米にさほどの違いはないように思えてくる。ソーシャルメディアを大統領選でスマートで、クレバーに使って話題になったのは、民主党の現オバマ大統領だが、これがソーシャルメディアの光の部分を象徴していたとすれば、今回の大統領選は、ソーシャルメディアの闇の部分を使いこなすトランプとサンダースが大健闘しているというのも、時代の変移を象徴している出来事とも言えそうだ。
■インターネット普及途上における文明病
米国での現象は、私自身がまだ咀嚼も分析もできていないので、今回はこれ以上語らないでおくが、やはり日本固有の問題というより、インターネット普及途上における文明病とでもいうべき現象が起きているという視点が必要なように思える。しかも、まだ、効果的な対処法が見つかっていない。時代が大きく変わろうとしている時には避けられない、いわば産みの苦しみなのか、対処に手をこまねいている間に、次々に連鎖的に問題が飛び火して手がつけれなくなってしまうのか、いずれにしても時代は岐路にあることは間違いなさそうだ。(2016年5月15日「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)