生活習慣病というのがありますよね。
肥満とか高血圧とか糖尿病とか、生活上の不摂生が主な原因の一つとして判明している病気です。これがひいては心筋梗塞や脳梗塞などの命にかかわったり、障害を残したりする重大な病気につながります。世の中でも「メタボ対策!」のようなメッセージが盛んに言われるようになり、社会の大きな関心事となっています。
しかし、なぜ人は不摂生をしてしまうのでしょうか。
具体的には食べ過ぎちゃったり、運動しなかったり、ついそういう状態に陥ってしまうのはなぜなのでしょうか。
よく言われることですが、いっぱい食べたり、なるべく運動しなかったりというのがいずれも生物としては正しい行為で、本能に刻み込まれているから、というのが一つの回答です。
自然界の中ではいつご飯にありつけるか分からないので、食べられるときにいっぱい食べとかないと生存競争で不利になりますし、無駄な運動をしてエネルギーを消費して疲れ果てていれば、外敵に襲われるなどのいざというときに動けなくてやられてしまいます。
できるだけ食べて、なるべく無駄にエネルギーを使わないというのは、生物にとって非常に合理的な戦略だったわけです。
だから、それが本能に刻み込まれ、このような「正しい行為」をする時には「快感」という報酬が出るようになりました。
それは今を生きる私たちにとってもそうで、美味しいものをお腹いっぱい食べた時の幸福感、無駄なエネルギーを使わずダラダラゴロゴロと過ごす時の快適感は皆さん誰しもご経験のあるところと思います。
これらの「自然界における正しい行為」が人類の文明が発達するにつれて「人間社会における正しい行為」ではなくなってしまったことが生活習慣病問題の始まりです。
農業の発達で社会に食料が溢れ、外敵不在でとっさに逃げる必要の無い安全安心な生活環境が築かれると、できるだけ食べて無駄なエネルギーを使わないという戦略の必要性が乏しくなります。
さらに、このように「自然界での正しい行為」の長所が弱まっただけでなく、長期的な副作用――生活習慣病――という欠点が存在することが、人間の寿命も伸びることで明らかになってきました。
結果、自然界と違い「今日明日を生き延びるための生存戦略」の必要性が薄れた人間社会においては、将来起こりうる生活習慣病を避けるために「無理にたくさん食べず、時々運動してエネルギーを消費する」というのが合理的な戦略となってきたわけです。
しかし、困ったことに私たちの本能は「今日明日を生き延びるための生存戦略」のままです。
自然界を生き抜いていた時に長年正しい存在だった本能は、現在の人間社会では必ずしも正しくはないのですが、人間社会が急速に発達しすぎたせいで未だ環境の変化に対応できていないのです。
で、「ダイエットしなきゃいけないのはわかってるんだけど・・・、このケーキ美味しそう・・・。ああああああっ、ダイエットは明日からっ!」と理性では理解してるつもりだけれど結局本能の衝動に抗えないという悲しい光景が日々繰り広げられるわけですね。
これは構図としては、「本能」によりもたらされる「快感」という「短期的な利益」と、「理性」により諭される「生活習慣病防止」という「長期的な利益」との対立なのですが、なかなかどうして「短期的な利益」というものは強いです。
「長期的な利益」は単純に先のことすぎてイメージがつきにくいですし、「そもそも今ケーキを我慢したところで、生活習慣病になる前に交通事故で死ぬかもしれないし」などのよくある言い訳にも反映されているように不確実性も高いです。
まして、「本能」という「長年使ってきたもの」「今までずっとそうしてきたこと」という後ろ盾が存在しているとなれば、「短期的な利益」は非常に強固なものとなります。
「最近言われ始めたばかり」で「本当に信じられるの?」なんて疑われてしまう実績の浅い「理性」さん。彼の語る「長期的な利益」が「短期的な利益」の独占マーケットに割り入り、人々の心に訴えかけるのはなかなか大変です。
さらに言えば、本能のもたらす「快感」という利益は非常に直接的で実感が伴うものですが、理性が主張する「長期的な利益」というのは年齢を重ねても実感できませんし、正直言うと死んでも実感できません。
無事生活習慣病にかからずに天国に行けたとしても、「私が生活習慣病にならずに生涯を終えられたのは不摂生を避けたからだ」と思いたい反面、もう一つの可能性が否定しきれず残るのです。
「もしかしたら不摂生していても生活習慣病にならなかったのではないか?」
と。
だから、理論上、「長期的な利益」では決して完全な満足感を得ることはできないのです。
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このように、直接的で、確実で、伝統ある、短期的な、利益行為というのは非常に強力で、仮に周囲の環境がそれが適切でない方向に変わろうとも、習慣として残ってしまいやすいです。
で、、実はここまでが前振りで、これからが本題なのですが・・。(前振り長っ)
私は生活習慣病という個人の病気だけでなく、「社会習慣病」という社会の病気も存在しうると考えています。
例えば、
・社会の戦略として長年正しかったのでみんなの習慣や常識となっていたものが、いつの間にか時代遅れになっていても、「ずっとこうして上手くやってきたんだ」「正しいんだ」「これが常識だ」として直されない
・「社会に役に立つ」というみんなの直接的かつ短期的な利益になることばかり注目され、それをもてはやす習慣ができ、実感を伴わない長期の利益・リスクの可能性に気付かない
・みんなが「絶対に利益になること」「絶対に安全なもの」という確実性にとらわれ、社会として時に必要な積極的なリスクテイクがなされない
など。
いずれも、社会習慣を守ることで「社会的に正しい」という短期的かつ直接的な「快感」を手にでき、社会習慣を打ち破るという可能性が無視されやすくなる構図です。
しかしもし、本当は社会をとりまく環境が変わっていて、その社会習慣が社会の存続に適切なものでなくなっていたとしたら、長期的視点に立てばそれは変えるべきはずです。
にもかかわらず、短期的な利益にこだわった結果、その社会習慣を変えず、そのままその社会習慣で突き進んでいくとすれば、それは生活習慣病の構図となんら変わらない、「社会習慣病」と言うべき状態ではないでしょうか。
もちろん、何でもかんでも社会習慣を変えれば良いという話ではありません。
今までのままで良い場合もあるでしょうし、新しく提案された方法の方が状況を悪化させる場合もあるでしょう。
また、新しく提案された方法に比べ古くからの習慣の方が時代に合っていなかったとしても、その程度によっては必ずしも習慣を変えなければいけないわけではありません。
生活習慣病を避けるためとはいえ、完璧に栄養を管理された食事しか摂らず、美味しいものを思う存分食べるあの快感を完全に諦める必要が無いのと同じです。
不合理なところ、無駄なところにこそ人の個性や人生の味わいがあるように、社会にも伝統や慣習によって彩られる個性があるでしょう。
社会が常に変わらないといけないわけでもありませんし、完全に合理的である必要もありません。
ただ、社会があまりに習慣に固執し変化や未来に盲目になると社会の存続可能性を脅かすリスクがあることは、私たちは認識しないといけないと思います。
「今までこれで上手く行ってきた」
「こうするのが正しい」
「これが常識」
「当たり前だ」
「社会の役に立つ」
このような言葉の魔力にかかっていないか、短期的利益に目がくらんで暴飲暴食を繰り返していないか、本当にそうなのか、自問自答しないといけません。
長期的利益・リスクを見出すことは難しいですし、何度も言うように不確実性も高い代物です。やっぱり結局はもともとの習慣を続ける選択肢を取ることも多いでしょう。
しかし、そうして考え続けることでこそ、本能だけでなく理性も併せ持った人間社会と言えるのではないでしょうか。
ということで、最後に皆さんにお尋ねします。
これは決して答えがなく、
そして、
決して終わらない永遠の質問です。
「私たちは社会習慣病にかかってはいませんか?」
P.S.
まあ、そんなことよりまず私も個人として生活習慣病にならないように気をつけなきゃなんですが(;・∀・)
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(2015年6月30日「雪見、月見、花見。」より転載)