今年で7回目を迎える三井住友信託銀行主催の「わたし遺産」。未来へと伝え、のこしたい「人・モノ・コト」にまつわる物語を募集している。
持ち前の明るさと親しみやすさで、視聴者に元気を届ける人気フリーアナウンサー・木佐彩子さんの場合、「人・モノ・コト」でいえば、コトが「わたし遺産」。幼少期に逆境を乗り越えた経験が、その後の人生にも大きな影響を与えてきたという。
父の転勤で、突然アメリカ・ロサンゼルスの現地校へ
自分にとっての「わたし遺産」ってなんだろうと、これまでの人生を振り返ってみて、思い当たったのが「幼少期のサバイバル体験」。といっても、無人島で生活をしたというようなサバイバルではなく、小学2年生の時に、父の転勤で突然日本からアメリカのロサンゼルスで暮らすことになった時のことです。
当時の私は全く英語を話せず、アルファベットすらわからない状態。そんな私を、母はポンッと現地校に入れたんです(笑)。日本人は一人もいませんでしたし、言葉によるコミュニケーションが全く成り立たず、何か話しかけられても何がなんだかわかりません。心細くて、とてもつらい日々でしたね。毎日が、今日はどうやって生き抜いていけばいいだろうかと必死に考える、まさにサバイバルだったんです。
そんな中、休み時間になると、ボールを持って私のところにやってきて、一緒に遊んでくれる心優しい女の子がいたんです。もう、その時は本当に神様に見えました。誰かが困っている時には、こんな風に手を差し伸べてあげたらいいんだということを彼女が教えてくれました。
会話はなかなか成り立ちませんでしたが、そんな優しい友達との交流をきっかけに、みんなが話しているのを見ながら、こういう時にはこう言うんだというのをマネるようにして、英語を少しずつ覚えていきました。とはいえ、まだまだ言葉がわからないので、最初の頃はいろんな神経を働かせて、この人はどういう人だろうとか、この場ではこの人についていけばいいのかなとか、その瞬間その瞬間で判断しながら懸命に学校生活を送っていました。
半年ほど経つと、だいぶ言葉もわかるようになってきました。すると、みんなとジョークを言い合ったりパーソナルな話もできたり、これまでとは違う深いコミュニケーションを取れるのがうれしくて、今度は逆にとても楽しくなってきたんです。大きな壁を乗り越えた先には、こんなに楽しいことが待っているんだということを、幼いながらに、身をもって知ることができました。
サバイバルを生き抜き、多様で自由な教室の空気に触れた
日本とは異なり、アメリカでは肌の色も、宗教も、価値観も異なる人たちが1つの教室に集まり、仲良く授業を受けていました。ある宗教の人は、今週は学校に来ないとか、クリスマスを祝わないとか、そういう違いがあるのが当たり前の環境だったんです。
そして、とっても自由な雰囲気がありました。机も黒板に向かってきれいに並べるのではなくて、グループでブロックになり、友達と向かい合って算数の問題を解いたり、担任の先生は当時のレーガン大統領が演説をするから見たいと言って、授業中にもかかわらず、突然テレビを持ってきて大統領の演説を流したりしていました。日本にいた頃にはあまり意識をしなかった多様さを、その教室で学ぶことができましたね。いろんな違いを持った人同士が、違うなら違うなりに仲良くやっていて、互いを受け入れ合う心を尊重していました。こうした学びや気づきを得られたのも、大きな財産だと思います。
中学2年生の時に、再び父の転勤で日本に戻らなければならなくなった時はアメリカに残りたくて、あの手この手で両親に懇願したほどでした。
みんなと別れを惜しんでいる中で、思わぬ質問が飛び出ました。もう1980年代にもかかわらず、「日本にテレビはあるの?」と聞かれたのです。「なぬ?」と耳を疑いましたが、思わず「ちょっと待って、あなたの家のテレビはたぶん日本製よ」と返しました。他にも「日本でジーンズは履いていいの?」と聞かれたことも。怒りも含めて、悲しかったですね。すぐに友人らを前にして、日本に関するミニ講義を行いました(笑)。この頃から、将来日本のことを発信したり、日本とアメリカの架け橋になれたりというようなことができたらいいなと思うようにもなりました。アナウンサーという職業を選ぶきっかけにもなったと思います。
今の私を形作ってきた「わたし遺産」は、親からのギフト
フジテレビのアナウンサーになってからは、週6本もの生放送を担当していたこともありましたが、この放送をどれだけ多くの人が見ているのだろうとか、放送事故が起こったらどうしようとか、私の日本語能力は大丈夫だろうかとか、不安を想像し始めたらキリがありませんでした。
それでも、カメラの前に立つと、なるようにしかならないと腹をくくり、何が来ても臨機応変に対応しながら頑張ってきましたし、テレビの前で失敗をしたり、恥をかいたりしても「こういう経験をしたら、もう二度と間違えることはないから、むしろラッキーだ」と、前向きに考えるようにしていました。ここぞという時の度胸や対応力、前向きさは、きっと幼少期にサバイバルを乗り越えた経験が原点にあると思うんです。とても心細くてつらかった日々と、その先に待っていた輝かしくも楽しい日々と。私の人生において、非常に大きな意味を持つ、かけがえのないひと時でした。
そして、アメリカの教室で学んだ、多様性を尊重し、他者や様々な違いを受け入れていく心は、それぞれに個性ある共演者やスタッフの方々と一つの番組を作り上げていく中で、大きな力となり、支えとなりました。みんな様々な違いを持っているからこそ、受け入れたり、受け入れてもらったりしながら、一緒に生きていけたらいいと思うんです。その方が様々なチャンスが広がっていくと思いますし、人生が楽しくなると思います。
2002年に、夫・石井一久がMLBのロサンゼルス・ドジャースに移籍し、再びロサンゼルス生活を送ることになったのですが、縁あって当時通っていた小学校を訪れることになりました。
校内に足を踏み入れた瞬間、何とも言えない懐かしい匂いに包まれ、思わず涙が出そうになったんです。まるでタイムマシーンに乗って、昔の自分に戻ったように、当時の記憶や感情が蘇ってきました。あの時はやっぱりつらくて、学校に行ってもお腹が痛くなり、母に迎えに来てもらったことも度々ありました。でも、子どもながらにそれではいけないと思って、また頑張って学校に行き、授業を受け、なんとか周りとコミュニケーションを取ろうと必死でしたね。
あの時、つらくても頑張ったからこそ、今があります。もし、両親が過保護で、逆境に身を置くような経験をすることがなかったら、今の私はなかったかもしれません。そう思うと、あのサバイバル体験は、親から私へのギフトだったように思えます。そして、そのギフトを通して、この世界の多様さや互いの違いを受け入れ、共に生きてゆく心も学ぶことができました。
当時は一日一日を生き抜くのに必死でしたが、振り返ってみると、両親に感謝をしたいです。そして、今度は私の息子にも、そうしたギフトをのこしてあげたいという思いがあります。私にとっての「わたし遺産」は、そんなふうに、未来へと伝わっていけばいいなと思いますね。
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