性教育を超えて。小学生の息子と性の問題を語り合う韓国の女性が思うこと

キム・ソファさんは、子育てする人と子どもが一緒に対話しながら成長していく問題だと考えている。

小学校6年生の息子をもつキム・ソファさん(女性学研究者)は、息子が1年生のときから「性的対話」をたゆまず続けてきた。成績についてではない。"性的(sexual)対話"だ【*】。

【*】韓国語では「成績」と「性的」は同音異義語で、どちらも「성적」と表記する。「成績(についての)対話」と受け取られることが多いと、後述のエピソードでも語っている。

基本的に息子の成長過程に合わせた対話だが、テーマは自慰、生理、性暴力、家事労動、権力関係、男らしさなど、社会のジェンダーイシューを縦横無尽に駆け回る。

「まだ小学生なのに、なんでそんなことをするのか」という反応も多かったが、キムさんは子どもが小学校に入る前から対話を交わすことが重要だと考える。

「人間は生まれてから死ぬまで性的存在」として、私たちの生のほとんどはジェンダーと密接な関連があると考えているからである。

2018年に出版された『フェミニストママと小学生の息子の性的対話』は、キムさんが2015年から2016年までフェミニストジャーナル『イルダ』で「小坊の息子、英語より性教育」というタイトルで連載したコラムをまとめたものだ。

『フェミニストママと小学生の息子の性的対話』
http://ildaro.com
『フェミニストママと小学生の息子の性的対話』

キムさんが、書籍のタイトルで性教育と言わずに性的対話と表現した理由は「子どもたちに(全面的に)教えるのではなく、子育てする者と子どもが一緒に対話しながら成長していく問題」であり、性教育という単語だけでは息子との対話を説明するのに不十分だったからだ。

これまでの性教育は、性暴力予防教育、もしくは「精子と卵子が出会って赤ちゃんができる」程度に限られていた。

そのような状況で、果たして大人の私たちは子どもよりどれだけ多くを知っているのだろうか?ジェンダーバイアスを根深く内面化しているのは、むしろ私たちではないだろうか?

キムさんは「まず親が性への固定観念から抜け出さなければならないのに、私もやはり思考のフレームを壊せなかったことがとても多いことに気づいた」とし「息子との対話を通して、私の方がもっとたくさん成長したように思える」と話す。

キム・ソファさん
Kwak Sang Ah / HuffPost Korea
キム・ソファさん

著書には母親と息子が登場するが、母親が息子を教育する話ではない。性別を区別せずに養育者と子どもが、私たちをとりまく世界について話し合う形で、すらすらと読める。

今後、子どもを産んで育てたい人たちやいま子育てをしている人たちをはじめとして、この社会で生きていく人なら誰でも耳を傾けるべき話だ。以下はキムさんとの一問一答だ。

--タイトルにあえて性教育とせず、"性的対話"とした理由は?

韓国で性教育というのは、非常に狭い意味の教育でしょう。性的な行為に対する教育程度と認識されているじゃないですか。様々な性、ジェンダー問題に対する息子との対話が、性教育という単語ではうまく表現できないと思いました。

そして、養育者を教育者の位置に据えると、教える人になるじゃないですか。相手を弱く、成熟していない存在として定義することになりますから。あまり良くないと思いました。

それで「あなたと私がこれらの問題について話せるんじゃない?」という意味で、性的対話としました。

しかし、相変わらず多くの人が成績について話していると思っています(笑)いったいフェミニストのママは、息子と成績についてどのように対話するのかと気になられたようで...。

--「初めて息子の性教育が必要と考えるようになったのは、性暴力加害者の親の態度、特に母親たちの複雑な態度のためだった」と仰いました。どういう意味ですか?

私の考えでは、子どもが何かを起こした時、父親は養育者としてあまり登場しないだけでなく、大半が"審判"の役割をしているようです。ある瞬間になると「私の息子がそんなはずがない」もしくは公然と「我が子ではない」とか。

ところが多くの場合、母親たちははるかに複雑な心境になるようです。「私の息子、どうしよう」とか「あれが自分の息子なのか」とか「私はあんな風に育てなかったのに」とか。複雑だという言葉以外には、うまく表現できないです。

私はこの差が、ケアという役割に母親がとても深く介入しているからだと思えるのです。「ケア」とはすなわち、家族の中で母親が引き受ける役割であり、それができるかどうかによって母親の人生全体が評価されるわけですから。

子どもが間違った時、母親のせいにするのは本当に簡単でしょう。私は基本的に、息子とお母さんが出会う状況自体がジェンダーイシューだと思います。

--ところで小学生から性教育をしなければならない理由とは何でしょうか。

とにかく幼い頃からするのが良いと思います。「小学生にどうしてそんなことを教えるんですか?」というのは、性教育をセックスへの教育くらいに考えているからだと思います。

「高校生でもないのに何が性教育なのか」「知れば(セックス)する」こんな風におっしゃる方々には「基本的に、人間は生まれてから死ぬまで性的存在」だと申し上げます。

ここでいう性的存在とは「人間は生まれてから死ぬまでセックスする」という意味ではありません。私たちの生き方、服の着方、自分の表現し方、私たちに与えられた役割などなど。

良いこと悪いことすべてを含め、私たちの人生のすべてのものは、基本的に「ジェンダーイシュー」と切り離すことができません。そんな意味で性的存在だと言うんですね。

私たちはそれを性教育と認識していませんが、実は子どもがお腹の中にいる時から、性を基盤にしたメッセージを受け取っています。

産む前から娘か息子かを知らされて。それを伝え聞いた養育者たちは、嬉しい気持ちでベビー用品を買います。娘といえばピンク色の服を用意し、息子というとブルーを準備をして(笑)

そうしたことがなぜ性教育ではないと思うのでしょうか?生まれる瞬間から、もう私たちは性教育を受けているんです。それも悪い方式で。

人間は皆、違っています。ところで、子ども自身に集中するより、性別にまず注目するのが問題の根源のようです。「君はどうしてサッカーをするの?」という質問は、ものすごく変です。サッカーをどうしてやるんですかって?

ところが、その前に"女"をくっつけて「女がどうしてサッカーをするの?」とすると、まるでそれが正しい質問のように思える。そんな社会が問題だということです。

Words Boys and Girls on bright backgrounds. Unknown baby gender, uncertainty and doubt concept
Milkos via Getty Images
Words Boys and Girls on bright backgrounds. Unknown baby gender, uncertainty and doubt concept

--「被害を減らすためには加害が何なのか教えるのが優先されなければならない」と仰いました。

加害が何なのかを教えなければならないということについて、みなさんよく誤解なさいます。「私の息子を加害者とみなすのか」「それならすべての男が潜在的加害者なのか」とおっしゃるのですが...

私が言いたいのは、私たちが子どもたちに「他人の物を奪うな」「他人を殴るな」と教えるじゃないですか。物理的暴力であれ強奪であれ、他人を侵害するなと。「私がこの先、これを奪われるかも知れないから、何も買っちゃいけない」と思う人もいないですし。

しかし、なぜ「他人を性的に侵害するな」というのは自然に受け入れられないのでしょうか。なぜ最小限のマナーを教えるのが、潜在的加害者に仕立て上げることになるのでしょうか。

多分、すべての性的事案を危険なものと想像したり、それ故、司法的な枠組みの中でのみ考える傾向がもたらした問題のようです。性的な状況やジェンダー関係において、被害者・加害者のフレームに閉じ込められてはならないと思います。

私たちの言葉と行動と思考の中で、どんなことが他の人を傷つけるのか、逆に誰かをもてなすのはどんな方法であれば良いのか、そういった次元の悩みが必要だと思います。

--著書の末尾に息子が「僕にAVを見せてくれない?」と尋ねるところが出てきますが、その後、AVに対する対話はされましたか?

はい。子どもが家のパソコンで(19禁)ウェブ漫画を密かに見ていたことがわかりました。いつからどのぐらい見たのか、どんな内容を見たのか確認した後、子どもに聞きました。「主人公がある人にこうする場面があったんだけど、あなたはどんな思いになった?」って。

息子は「僕が考えるに、その男性がこの女性で遊んだように思えた」と言いました。「それでもそのウェブ漫画を見たほうがいいのかな?」って尋ねると「(間違ってるのはわかっているけど)それでもずっと考えちゃう。刺激的だから」と答えました。

なぜ、ずっと考えてしまうのだろうか。何が気になったのだろうか。こんな風に話を交わしつつ、子どもに思春期について本格的な説明が必要だという気がしました。気になるのはとても自然なことですが、ああいった安直な情報で好奇心を満たそうとするのは、心身に役に立たないと伝えてあげたりします。

(暴力的な内容の19禁ウェブ漫画に対して)現実的ではなく、そんなことを実行してはいけないと正確に指摘する必要がありますが、いっぺんに出来ることだと思いません。子どもは既に私よりもっと大きな文化の影響を受けているので、当然、私一人でやってもできることでもありません。

でも、私は、子どもに「君はいかなる問題でも、ママ/パパと話せる」「どんな問題が起こっても、あなた一人で解決しなくてもいい」というメッセージを送りたかったです。高学年の子どもたちには、これが重要なようです。

どのみち子どもは全ての生活を私に言わないだろうし、私も全ての状況に介入したくないから。

キム・ソファさん
Kwank Sang Ah / HuffPost Korea
キム・ソファさん

--性的対話をしていく上で、一番大変だと感じた障壁はどんなものでしたか。

自分の中の偏見です(笑)。思ったより偏見が多いことを悟りました。人は子どもに性的行為に対する部分を伝えるのが一番難しくて気まずいと思うようですが、私が考えるに、それはむしろ簡単です。

一番難しいのが、家族関係です。ものすごく乗り越えにくい形で、ジェンダーバイアスが入り込んでいるためです。

いわば、お父さんはお父さんの役割を、お母さんはお母さんの役割を、おばあちゃんはおばあちゃんの役割をする姿です。これはただ、自然に行われるものじゃないですか。

例えば、家族が集まって食事をすると、女性は自然と果物をむき、男性はソファーに座っていて。すべてがとても自然です。料理の準備をする時、男性がちょっと参加したとしても、結局、後始末は女性に任せるとか。

夫と少しずつ努力しましたが、うまくいかないこともあったし、それぞれ習慣化されたところがありました。

ですが、息子の教育をめぐって、夫とたくさん対話するようになって「ああ、こうしちゃダメなんだけどな?私たちが変わらなければ、息子も同じ人生を歩むだろうな?」と思い、日常で違った姿を見せようと努力しました。

例えば、私の家族では夫と私が家事労動、子育てを半分ずつ分けます。曜日別に分担する方法で。こんな生活をしてみると「ごはんはママが作るものだ」といった考えは少しずつ砕けるような気がします。

相変わらずもどかしいことは多いですが、ちょっとずつ前進しながら生きてきたと思います。

--権力関係の中で強い人を恐れる息子の姿を批判すると、息子が「お母さんもおじいちゃんに『はい、はい、はい』ばかりいって、毎日おばあちゃんとずっと台所にいるのに」と反論したとのエピソードが特に印象的でした。

そうですね(笑)とても大変なんです。とても慌てました。自分では舅姑の機嫌を伺っている素振りはなかったと思いましたが、子どもの目には本当に正確に見えてしまうんだなぁ...と。

子どもたちは、母親が普段そんなことをする人ではないのに、おじいちゃんの家を訪れさえすればそうだと知っているんです(笑)

実家の母親は、ある意味では偏見がかなり強くもあるんです。でも、私は実家の母親と面と向かって喧嘩します。それでまた息子が私にこう言います。

「ママはおばあちゃんが手ごわくないみたいだね。(母方の)おじいちゃんがおばあちゃんよりもっとひどいのに、おじいちゃんには反抗しないじゃん」と。

それで私が「そうだね?今日、母さんがもう少しおじいちゃんに話したらよかったのかな?」と言うと、「それじゃあ破綻するから、こう話してみたら」とアドバイスしてくれて(笑)。

--似たような問題で悩む人たちに、聞かせたいことはありますか。

本が出版されてから色んなところで講義をしていますが、多くの方々がこのような質問を頻繁にされます。「子どもが自慰するんですけど、そんなときはどうすればいいの?」って。

いくつかのテクニックをお伝えすることはできますが、選択問題のように解答を差し上げることはできません。

質問を聞いてみると、すでにその状況自体に養育者の偏見が含まれている場合が多いんです。私が逆に聞いてみます。なぜその状況を問題だと考えたのかと。

話してみると、養育者が自ら「あぁ、私が性的偏見を持っていたのね」「当然、女子ならそうするんだと思っていた」と悟る場合も多いです。

性教育において私たちに必要なのは、選択問題式の回答ではなく、養育者である大人がまず自分自身を省みることだと思います。

ハフポスト韓国版から翻訳・編集・加筆しました。