アーティストの村上慧さんは、白い家を手作りして、家をせおって、日本を歩いている。
え、家を作ったの? なんで家を背負っているの? 歩いているの?
村上さんの活動を知った私の頭の中には、むくむくと疑問が生まれてきた。
アーツ千代田 3331が企画した「夏の3331 こども芸術学校 2019」で、村上さんのワークショップはわずか8分で完売したらしい。みんなの関心の高さが伝わってくる。
いてもたってもいられず、村上さんのアトリエにうかがった。
「やるべきことは1つしかない。散歩すること」「自分の何かを取り戻す作業」
そう語る村上さんの生活は、現代の暮らしを見つめなおす壮大なヒントがつまっていた。
目的地は決めずに「移動する生活」
――村上さんは、家をせおって歩いているそうですが、お家があってそこで生活しつつ、アーティスト活動として家と移動しているんでしょうか?
どっちが活動なのか、もはやわからないですね。どっちかをベースにすることから脱出したいと思ってやっているところがあります。
5年前に始めて、当時僕は香川県の高松市に住んでいて、向こうで家をつくって、東京に持ってきて。それからずっと断続的にやっていています。
――最初は、東京から歩き始めたんですか?
何となく。東京は日本のちょうど真ん中くらいにあるので。4月スタートだと暑くなる前に北に逃げられるし、寒くなる前に南に逃げられる。そう考えると東京が合理的かなと。あとは、僕が生まれた街でもあるから。
――目的地は決めずに歩いていったんですか?
目的地を決めること自体は、ちょっと……。ただ方角だけは決めていました。夏は北のほうが過ごしやすいかな、くらいの気持ちで動いていました。
――とにかく、家をせおって移動してみたんですね。
最初は、移動しながら暮らしてみようと思ったんですけれど、やっているうちに、敷地も借りなくちゃいけないとか、いろいろと学んで。最初は路上で寝られると思ってやってみたんですけれど、警察に怒られました。
――え!
銭湯から帰ってきたら、めちゃくちゃ家が警察に囲まれていて。
東京は、最初は神田の辺りで警察に囲まれたんです。浅草橋だったかな。あの辺の公園は寝れたものじゃないですね。そのときに、お寺とか半公共みたいな場所で、とにかくいる権利をもらう、許可をもらうのが必須だということを学びました。
なぜ人は働いて家賃を払うのか
――もともと建築を学ばれていたそうですが、そもそも、5年前、家をつくり始めたのは何かきっかけが?
今だからちゃんと説明できるんですけれど、散歩が好きなんですよ。高校生のときから、ご飯を食べた後に、家の周りを2時間散歩するような人だったんです。
――なかなか散歩の才能がありますね。
大学のときも「東京もぐら」という散歩サークルをやっていて。行き先を決めないで、散歩という方法を使って、街を集団で漂流したんですよ。
「シチュアシオニスト」(状況派)という人達の「漂流」という方法論があるんです。産業化されてしまった街を、もう一度人間の体のスケールに変換する。それに影響を受けて、歩くことで取り戻していく、みたいな感じでサークルをやっていました。
5〜7人くらいで、目的地を決めないで、路地を発見したり、駅から駅まで歩いてみたり。Google Mapみたいな地図じゃなくて、自分の足で歩いて、自分の地図をつくっていく。そんな活動をしていたんです。
――散歩を通じて、街に身体性を持たせていた。
それと、大学3年生のときに吉阪隆正という建築家を知ったんですけれど。吉阪さんは、「家は自分の体の延長線上にあるものなんだから、そもそも他人に設計してもらうのは変な話なんだ」と言っていました。
僕はそこに引っかかって、建築設計に踏み切れなかったんです。僕が人の家を設計する資格みたいなものがそもそもあるのか、と。そこを考えないようにしないと、建築設計ってできないんですけれど、僕はそこに引っかかっちゃって上手くできなかった。
――誰かの家を建築することに立ち止まったんですね。
4年生になって大学卒業と同時に震災があって。家が流されている映像を見て、原発事故もあって。数え上げればいくらでも出てくるんですけれど、やっぱり自分の立っている地盤が危ういな、とすごく意識し始めたんです。
――暮らしの地盤が危うい、と。
それから僕は、卒業してすぐに美術家として活動をしたんですよ。どこにも就職しないで、浅草に住んで、作品をつくっていたんです。展示会とかイベントとか、いろいろやってたんですけど、それだけじゃ全然暮らせなかったので、バイトをするじゃないですか。
そのバイトがもう半端じゃないくらい嫌で。人の下で働くのがこんなに嫌なのか、と。
しかも、家賃がそれで消えるわけじゃないですか。死ぬほど嫌な思いをして働いたお金の大半が家賃に消えていく。こんなわけがないだろう、と。とにかく閉じ込められていました。
僕の日記の本があるんですけれど、「閉じ切った生活からの脱出を試みる」が帯になっていますね。当時の気持ちを思い出します。
とにかく、暮らし方が1バージョンしかない。「働いて家賃を払え」しか知らない。家も高すぎる。(暮らし方の)オルタナティブなバージョンをもう1個つくらなきゃいけない、と。
以前のように映像を撮ったりはしない。「コミュニケーション」を目的とするようなことでもない。以前とは問題意識が違う。もっと根源的に、この定住と貯蓄を前提としたこれまでの僕自身の生活を対象化し、日々の生活のために日常をこなしていったような、あの閉じきった生活からの脱出を試みるのだ。
(『家をせおって歩いた』2014年4月7日より)
――根底にあるのは、現代社会への大いなる疑問だったんですね。
(建築士で民族学研究家の)今和次郎は、関東大震災の後に、公共が人の手によって復興されていくのを見て、何か(現在を)見つめねばならない事柄が多いと感じたという経緯で、「考古学」に対して「考現学」を始めたんです。
その辺とモチベーションが近いんですが、震災があって、いろんな概念が揺さぶられましたよね。それがもう一度固定化していく中で前の状態に戻っちゃう。
今和次郎は、「同じ時代の人間を観察するためには、別の生活をしなくちゃいけない」みたいなことを書いています。「自分も生活者であることを忘れなくちゃいけない」と。
「所有」とか「貯蓄」とか「定住」みたいなものを前提にした世界で生きているから、それを見るためには、そうじゃないところに(家を)建てなくちゃいけない。
それで、気がついたら家をつくっていたんですよね。発泡スチロールを買ってきて。
誰が見ても「家」だと思える理由
――気がついたら家を……。なぜ発泡スチロールだったんですか? 軽いから?
軽くて断熱材にもなる。テレビ局の中で大道具をつくるバイトをしたことがあって。そのときに、めっちゃ煉瓦で重そうに見える壁が、実は発泡スチロールでできているのを見て。発泡スチロールという素材は使えるかもしれないと。
――家は、どんなところにこだわっていたんですか?
家を動かしながら別の生活をしてみる。しかも自分がやる。そのための家を徹底的につくろうと思って、自分が寝れるギリギリのサイズで、かつ、誰が見ても「家だ」って言うもの。だから、瓦をちゃんとつくったりしました。
家って呼んでいますけれど、あれを家と呼ぶこと自体が、結構おかしな話じゃないですか。
――言われてみれば、なぜか「家」としか呼べないですね。白色の家ですね。
このプロジェクトは、実はドローイングが最初なんです。
高松にいたときに、近所の家の絵を描きまわっていたんです。なんでもない、普通の家を。かなり不審だと思うんですけれど、(作家の)赤瀬川源平が1000円札を描いたみたいに、とにかくまずは敵(家)を観察しようと。
40枚くらい描きまくって、「よし、自分の家を考えよう」って家をつくり始めたんです。そうすると必然的にドローイングみたいな家になったんです。
――自分の中に内在化した「家」だったんですね。瓦があって表札もある。
表札もあります。それと、前を見るために何か穴がいると思って。でも、ただ穴をあけるんじゃなくて、実際にあるようなものを使って、そこを覗き窓にしてしまおうと。だから家の矢切の部分にあるような換気口をのぞき窓にしました。
(家を)描いてみると、結構換気口ってあるんですよ。ちなみにこの換気口の名前は「妻ガラリ」というらしいです。
「僕の家は歩くことによって常に公共を動かしているようなものになる。「動くプライベート」というより、「動く公共」と言った方がしっくりくる。だって僕の家は、壁の外側だけよく作り込んでいて内側には全く無頓着で、ガムテープやビスやらがむき出しなのだから」
(『家をせおって歩いた』2014年4月7日より)
家を移動させたら変わった「住み方」
――実際に、移動する生活について聞きます。家をせおって歩いて、移動した先で寝るところを決めるのって、結構コミュニケーション能力も必要ですよね。
あまり慣れないですね。ずっと緊張はしますね。
――どうやってアプローチするんですか?
映像人類学のアプローチで作品を作っているアーティストのCan Tamuraという人と一緒に制作した映像があります。彼が用意してくれたゴープロを自分がつけて撮っています。
(映像を見せてもらう)
――お寺のようなところですね。丁寧にお願いしましたが、断られていますね。
古い街は、断られる確率が高いかもしれないですね。
「ここはやめたほうがいい。隣の坂を上がったところにお寺があるからそっちに行ったほうがいい」と言われて行ったら、「降りたところのほうがいい」って言われて。「いや、そこに言われてきたんですけれど」って言ったら、「うちも無理ですから」と。
――そういうときは、どうするんですか?
どこか見つけるまで、探すしかないですね。
「家だけ置かせてもらえないか?」って逃げるパターンもあります。ドラッグストアの駐車場とかに「僕はホテルで寝るので、これだけ明日の朝まで置いておいてくれないか?」って。滅多にないけど。
――基本は、この家に入ったら一休み、就寝するんですか?
(家は)寝るときしか使わないです。置いたら、速攻で荷物を置いて散歩しますね。
近所のコンビニとかでビールを買って、知らない街を夜に歩くのが楽しくて。近所のお風呂場とか洗濯機を探して。コインランドリーを探してから、間取り図を描く。使えそうなものを近所で探しながら、散歩します。
――トイレ、お風呂場、寝室、洗面台……。街が自分の家になっている。
そう。でかい家に住むみたいな感じです。
そういうときに、何でもない軒先とかで人が喋っている様子を見ると、結構グッとくるんですよね。犬の散歩とかを見るのもすごく楽しい。川で釣りとかをしているおじさんを見ると、超うれしくなっちゃう。
――どこにでも人の営みがある。
本当にどこにでもいるんですよ。やっていて思うのは、日本の景色はだいたい山と道ですね。だいたい両側に山があって道があるんです。その間に街がある感じです。
山の中を歩いていても、結構とんでもないところに家が建っていたりする。山に電柱が立っていて、めちゃめちゃ遠くから電気を運んでいたりするのを見ると、よくもここまでやったな、と。人が自分でつくったところに住んでいるんだなって思いますね。
――村上さんの家も自分でつくったものですね。
家を手づくりして動かしながら住んでいると、寝るとき、すごく楽しいんですよね。
自分が借りた空間で、家賃を払ってアパートで寝ているときよりも、「自分の場所感」がすごく強くあります。そこから月を見たりすると、すごく綺麗に見えたりする。
水も、電気もガスも、全部そうですけれど、そこには全部人の手がかんでいる。全部でお互いに支え合っている。
移動していると。全体として協働してる、みたいな感覚をすごく感じますね。同じ家で、同じ職場でずっと働いていると、なかなか忘れちゃうんだけれど。
身体化する「日本」
――各地を移動して、ご自身のなかで「日本が身体化する」ような感覚はありますか?
めっちゃ感じますよ。この辺に青森県がある感じ。
――おお、頭のすぐ上に。
韓国にもフェリーで行って、戻ってきたんですけれど、この辺に釜山があるみたい。
電車とか飛行機に乗ると、断絶があるじゃないですか。土地から土地に移動するにあたって、次のチャンネルに変わる、みたいな。そうじゃなくて。当たり前ですけど、歩くと全部道路で繋がっているんですよ。
そうやっていると、同じ地平線上で全部イメージできる。場所も、人の顔も、人の暮らしも、全部そうなんですけど断絶がないんです。
警察に、家のことを説明する
――警察に通報されたこともありますか?
相当ありますよ。通報も職務質問も。
――どう対応しているんですか?
別に悪いことはやっていないので。でも、通報されたら警察も来なくちゃいけないから。
だから「本当にすみません」みたいな感じで警察が来ることもあるし、「僕もこんな人を疑ってばかりの仕事じゃなくて、もっと芸術家みたいな仕事に就きたかったんです」的なことを警察官に言われたりすることもあります。
――どうやって説明するんですか? 「家を背負って歩いているんです」と。
そう。「これは何ですか?」って聞かれるので、「これは僕の家です」って。以上です。「どこで寝るんですか?」って聞かれるから、「借りて寝ます」と。そうすると「車だけ気をつけてください」って言われます。
――実際に困ったりしたことは? 雨も降ってきちゃったりしますよね。
雨は別にそんなに大丈夫なんですよ。雨漏りはしないんです。
さっき話した通り、最初は冬寒くなったら南に行けばいいと思って宮崎まで行ったんですけど、冬の宮崎県はめっちゃ寒くて。だから、晩御飯を食べたレストランで新聞がレジのところに積んであったので、「その新聞もらえませんか?」って言ってもらってきて、断熱材として寝袋の中に丸めて詰めて寝たりとしたことはあります。
――充電がきれちゃって困ったり?
充電は切れますよ。でもちょっと街に行けば電源があるところがあるんですよ。マックとかカフェとか。あとは、銭湯で電源を借りたり。日記を書くから必要ですけど、でも切れたら切れたでいいか、と思っていますね。
家とは何か、住所とは何か
――東京の公園のエピソードや、コミュニティが残っているところは泊まりやすいという話がありましたが、たとえば都市部や地方で、泊まりやすさに違いを感じたりしますか?
そういう意味では、大きな震災を経験した街は違うかもしれないです。1回フラットになっちゃったので細かいことを気にしていない。熊本もそうでしたし、東北も。
あとは肌感覚ですが、なんとなく海沿いのほうがオープンマインドな感じがします。東北のある山間部では、もう歩いているだけで“キチガイ”扱いされました。
――歩いて移動していると、県ごとの変化は感じない?
県という区分けは、関係ないですからね。茨城県から福島県に入ったときに思ったんですけれど、別に何も変わってない。iPhoneの画面を見て初めて「福島に入ったらしい」みたいな。行政区分はあまり意識しないですね。
――家をせおって歩いてみて、家の機能って何だと思いますか?
家の機能は、2種類あると思っています。
そもそも家ってシェルターとしてつくられているじゃないですか。虫とか動物の巣と一緒。身を隠して、自分の落ち着く場所というか帰る場所をつくる。つまり、雨を防いで、風を防いで、視線を遮るシェルターの機能が、本来の家の機能なんです。
加えて、今はそれが住所と一緒になっていて、納税地というか、社会に紐づけるためのポイントになっています。それがシェルターとしての家と一致している状態だと思います。
僕は今や一緒じゃなくてもいいんじゃないか、と思うんです。引っ越し手続きとか、すごく面倒くさいじゃないですか。時代として、移動がやっぱりライトになってきているし、LCCもできたし、インターネットも普及しているから。
生活がどんどん軽やかになっていく。足が軽くなっていると思うんですけれど、相変わらず住所とか言っているので、決定的に現実とのギャップがすごいなと思います。
――2拠点生活する友人は「納税先を2つにしたい」と話してました。まったく新しい暮らし方を実践してみて、現代の暮らしや住み方について、何か思うところは?
やっぱり自分の家は、自分で手を入れるのはしたほうがいいと思うんです。
僕の母親は沖縄出身なんですけれど、沖縄の家ってみんな手づくり感があって、自分で壁を塗ったりするんです。スウェーデンもそうだったけれど。今は(家が)商品になっちゃっているから、もうちょっと手を入れられるといいなと。
今(現代の暮らし)は、高級マンションを買って、52階の部屋のソファに座って、「つまらない」って言ってるみたい。めっちゃ景色がいいところで「つまらない」って言ってるような状態。
編集するというか、見立てを変えるって言ったらいいのかな。与えられた状況に対して、自分の好きなように見ていいわけですよね。
コインランドリーを洗濯機と呼んでもいいわけだし。そういう感覚が絶対に必要だなと思いますね。じゃないと、楽しくないんじゃないかな。余計なお世話かもしれないけれど。
――絵本「家をせおって歩く かんぜん版」の終わりに「住む場所は変えられるし、住み方だってつくれる。住み方を変えると世界を変えていける」と書かれていましたね。今もそういうお気持ちですか?
高校のときの散歩の楽しさから、ずっと続いているんです。
散歩が好きだったのは、家も人数が多くて、ひいおばあちゃんとも一緒に住んでいて、4世代で7人家族みたいな状態で。家に自分の部屋もなかったし、民生委員をおばあちゃんがやっていて、家がパブリックみたいな場所だったんですよ。
だから、夜に散歩で1人になれるのがすごく楽しくて。
歩いていると、どんどん景色が変わって見える。音楽を聴きながら歩くんですけれど、同じ街、同じ道を歩いているんだけれど、昨日と全然違うみたいなことが起こる。そういうことをそのとき知っちゃった。
こっちの態度次第で、景色は変わっていく。かける音楽によっても変わる。
歩くのはいいですよ、やっぱり。あまりにもシステムが巨大なので、散歩くらいしかできることがない。家賃というシステムがある以上は、できることはそこで遊ぶくらい。
やるべきことは1つしかない。散歩すること。それで自分の地図をつくる。自分の体にする。何かを取り戻していく作業に近いんです。