「あいちトリエンナーレ2019」は10月14日、75日間の会期を終えた。慰安婦を表現する少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品が展示された「表現の不自由展・その後」は、「電凸」と呼ばれる激しい抗議電話や脅迫を受け、開幕3日後から約2カ月間、中止となった。
「自由に表現したいなら、税金を使わずにやれば良い」「税金で国をおとしめるような表現をすることはけしからん」――。不自由展に反対する人たちから、そうした意見が多く聞かれた。そもそも、公のお金と、文化や芸術の関係をどう考えるべきなのか。憲法学者で、文化芸術への公的助成に詳しい横大道聡・慶応義塾大学大学院教授に聞いた。
――「自由に表現をしたいなら、自分たちのお金で、税金をもらわずにやれば良い」という意見があります。公的なお金で文化芸術を支える意味をどう考えれば良いでしょうか。
憲法は「表現の自由を制約してはならない」と言っていますが、「表現の機会を提供しなくてはならない」「税金で補助しなければならない」とは言っていません。憲法上、文化芸術のためにお金を出さなければいけないかというと、出さなくても良い。逆に、出したらいけないかというと、そういうわけでもない。だから、「出しても出さなくても良い」というのが、憲法の基本的なスタンスです。
では何が決めるのかとなると、法律や条例が決めるわけです。文化行政を考えるにあたって参照すべきものとして、「文化芸術基本法」(2001年施行、2017年改正)があります。
文化芸術基本法の「前文」一部抜粋
「我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠である」
この法律では「芸術家の自主性や創造性を尊重しましょう」という趣旨のことが書いてあります。国や自治体が内容に口を出して、自分たちが良いと判断したものを広めるというのではなく、芸術家を主体として自立性や創造性を尊重し、側面から整備していくことが文化芸術振興の望ましいあり方であると書いているのです。
冒頭の質問に戻ると、「自分のお金で勝手にやれば良い」「何で補助金をもらってやるの」という疑問に対しては、補助金を出すことで多様で豊かな価値を生み出すという判断のもと、政策としてやると決めているから、と言うことができます。
法律の中に文化芸術の価値であるとか、芸術家の自主性や創造性を守りましょうと書いてあるわけですから、そういう形で文化行政をやるというのが法律上の要請になっていると考えられます。
■お金を出したからと言って、その表現は自治体には帰属しない
――では、国や自治体は表現の「内容」に口を出してはいけないのでしょうか。
例えばある自治体が、「慰安婦像はけしからんと考えている」と表明することは、自由です。「原発反対です」といったことと同様、特定の立場に立って考えを表明することはかまわない。国も、例えば文部科学省が推薦するといった形で、映像作品などにお墨付きを与えることがありますよね。そのときに自分たちの立場と相いれないものに、お墨付きを与えなくてもいいはずです。
しかし、今回のあいちトリエンナーレでは、行政が直接に芸術祭を開催するという形ではなく、実行委員会を作り、間に芸術監督やプロのキュレーターを挟んで、彼らの責任で芸術祭をやる形を作っています。そこで行われた表現は、いくらお金を出していても、愛知県のものでも、名古屋市のものでも、国のものでもないはずです。
一つ例を出します。ある市がある団体に公民館を貸し出したら、市としてその団体の立場に賛成したかというと、普通は賛成したとは考えません。公道をデモ行進に使わせたからと言って、自治体がデモを支持したことにはならない。だからこそ、ヘイトスピーチをする可能性のあるデモでも、許可せざるを得ないような状況があるわけです。
道路を使うということが判例上、基本的にはデモの自由ということで認められているから、いくら内容が気にくわなくても認めなければいけない。なぜかというと、そこでの表現は「自治体のものではない」からです。今回の芸術祭も同じで、お金を出したからと言って、その表現は自治体には帰属しない。自治体の表現ではないのだから内容にまで口を出すことはできない、ということです。
■お金を出す主体と事業主体の「切断」
――「不自由展」に反対していた人の話を聞いていると、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品に対して「どうしても不快だ」という意見がありました。不快になる人が一定程度いるような作品であっても、プロの判断が入っているのであれば、展示してもかまわないということでしょうか。
展示の責任を持つのは、お金を出した自治体ではなくて、芸術監督と実行委員会になります。
今回、不自由展の中止を受けて設置された「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の中間報告でも、作品の趣旨を適切に伝える上で「キュレーションに多くの欠陥があった」と指摘されました。そういった問題は多かったと思いますが、そのことと、愛知県が税金を払うべきではないというのは別の話です。
本来は、お金を出した側の行政と、芸術祭に責任を持つ側の実行委員会が「切断」されていなければいけません。
切断の理屈が本当は一番重要だと思います。
――「切断」とはどういうことでしょうか。
今回、実行委の会長を大村秀章・愛知県知事、会長代行を河村たかし・名古屋市長が務め、芸術面での権限が芸術監督の津田大介さんにいく態勢となっていました。
お金を出している愛知県という主体と、事業自体の責任者が同じ人物となっており、事業主体の責任者としての決定が、あたかも政治決定のように見受けられるような外観を作り出してしまった。実行委のトップとして口を出していても、知事として政治的に口を出したと見られかねない。政治性が入ってこない中立的な組織を作ることが、本来は必要だったのだと思います。
今回、「不自由展」に対する反対意見のなかに、「県があのような表現を支持するのは何事か」といった趣旨の意見がありましたが、そのように受け止められるような組織体制であったことは否定できません。見る側にとって、「誰の表現なのか」の受け止め方が分かれてしまうような仕組みであったということが、炎上した大きな要因の一つでしょう。
■「表現の自由」で保障されるもの、されないものとは
――そもそもですが、すべての表現に「表現の自由」が認められているわけではありませんよね。表現の自由が担保されるものと、されないものとの違いは何でしょうか。
まず違法な表現は、表現の自由の保障を受けません。名誉毀損や脅迫、詐欺といったものです。
違法性がないもので、表現の自由で保障するものと、保障されないものを考えるとき、大きく分けて①そもそも表現として認めませんと明確に切るアプローチ、②表現としては認めるけれども十分な理由があるから制約は許されるというアプローチがあります。
日本では基本的に後者のアプローチが採られています。
表現として認められるものはとても多いけれども、こういう理由があって制約することが許されるのは「これとこれ」です、という形でのアプローチの仕方ですね。前者に該当すると明確に述べられたものの例としては、米国の例ではありますが、児童ポルノなどがあげられます。
――表現の自由として認められる範囲は非常に広いということですね。例えば、日本のお笑い芸人がバラエティー番組で肌を黒く塗るメイクをしたことが、人種差別だと指摘されたことがあります。例えばこういった問題は、どのように考えたら良いでしょうか。
あの表現によって、誰の権利を侵害したかというと、黒人の方全般が「嫌だな」と思った可能性はありますが、権利を侵害された対象を「Aさん」「Bさん」と個別に特定できるかというと、難しい。誰かが損害賠償請求訴訟を起こしても勝ち目はないでしょう。
表現の自由としては保障され、法的な制約は受けない。ただし、それを不快に感じる人はいて、反論する自由はある。双方のやり取りの中で、あの表現が「良かった」「悪かった」と反省的に見ていくことが、理想的なあり方なんだと思います。
■補助金不交付の問題点は
――9月末、文化庁があいちトリエンナーレに対して採択を決めていた補助金約7830万円を不交付とすることを発表しました。現在、国会でも議論が続いていますが、文化庁の決定を率直にどのように受け止めましたか。
文化庁が事業の実現可能性、継続性を審査しなければならないのに、審査のうえで必要な情報の提供がなかったということが理由でした。率直な印象としては、文化庁の説明には相当無理があると感じました。
――無理がある、とはどういうことでしょうか。
いったん事業を採択しているということは、いわゆる「内定」が出ている状態です。その後に自治体が正式に書類を提出し、補助金をもらうという手続きがありますが、実態としては事業がスタートしています。
「不自由展」は一時中止となりましたが、トリエンナーレ全体として事業は進行し、来場者数も前回より良かった。その意味で、事業の継続が危ぶまれているわけではないと考えられます。実現可能性についても、事業全体としては実現しているわけです。不交付が妥当だったのか疑問が残ります。
別の視点の問題点としては、仮に申請する段階で「展示に反対する人たちが押し寄せて騒動が起こるかもしれない」と連絡していなければ、事後的に「審査に際して必要な情報を提供していなかった」と不交付になり得る、ということを先例とする危険性です。
申請書類に虚偽のことを書いていたり、まったく実現可能性のないことを計画していたり、ということならわからなくもないのですが、今回はそういう話ではない。「不自由展」に対して想定外にクレームが来て、中止せざるを得なかったわけですが、警察に警備について相談し、事業の継続性は担保できるという判断でやっているわけです。
まだ危険が具体化していない抽象的な段階でも、危険性を少しでも感じたのであれば伝えなければいけないというのは、かなり介入の口実を増やしていくことになってしまいます。
――萩生田光一・文科相が「(愛知県が)事前に相談してくれていたら寄り添った対応をしていた」と発言しました。事前に相談することは、必要なんでしょうか。
相談された側が「あの会社ならクレーム対応のノウハウを知っていますよ」といったような警備上のアドバイスをするだけで終わるでしょうか。
事前に相談するというのは、「こういう展示をするので、こういう事態が起こる可能性があります」と相談するわけですよね。展示内容まで含めた相談をしないと意味をなさないわけです。それに対して、「その展示、やめた方が良いんじゃない?」という形で寄り添われれば、それは実質的に内容に口出しをすることになります。
このような形での示唆を受けて、展示内容が変更になったとします。そうすると、芸術のプロの判断によって作品が選ばれたという外観を取りながら、実質的には作品の内容に基づいて公権力が口を出し、展示内容が決まったということになってしまいます。
――直接的に内容に介入しなくても、間接的に取り下げておこうという圧力になるということですか。
芸術家が萎縮するということはないと思います。自分が表現したいという欲望で活動しているわけですから。お金がもらえないからと、表現をマイルドにしておこうとはならない。
ただそれに対して、芸術祭を企画する自治体などが萎縮する可能性はあります。回り回って、私たちが多様な作品に接する機会がどんどん減っていくことになってしまいます。
■多様な意見が行き交うことで、享受するものがある
――今回の問題から、今後のために学ぶべきことは何でしょうか。
まず認識しておく必要があると思ったことは、今回急に出てきた問題ではない、ということです。ある表現が気にくわないからと言って、制限することはできません。じゃあどうするかというと、場所を貸さない、補助金を出さない、後援をしない、といったことが各地でニュースになっていますよね。そういった形で、表現の自由に対して何らかの影響を与える動きは、ずっとあったわけです。
それに対してどう対応すべきか。基本的には、「税金が入った=国や自治体が支持をした」ということではないという認識を、自治体側も私たちも、まずは持たなければなりません。
さきほど指摘したように、制度的な「切断」の仕組みを作ることも大事です。この観点からすると、来年行われる予定の「ひろしまトリエンナーレ2020 in BINGO」も広島県知事が実行委員会のトップをつとめる体制となっており、懸念があります。
海外では、「アーツカウンシル」と呼ばれる第三者機関のような組織を間に挟み、アーツカウンシルにお金は渡しっきりで、芸術のプロが全部取り仕切る形でやります。「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の中間報告でも、そういう立て付けにするべきだという提言がありましたけれども、その通りだろうなと思います。 政治的な判断ではないということをきちんと担保するということです。
また、少し大構えな話になるかもしれませんが、「多様な意見や見解が流通していることで、自分も社会も利益を得ている」という感覚を持つことが必要だと思います。
ざっくばらんな言い方をすれば、自分と違う意見や過激な意見、不快な表現のすべてがなくなってしまったら、「つまらなくないですか?」ということです。
多様な意見が行き交っていることで、不快かもしれないけど、もしかしたら怒りや喜びの感情が刺激されることもある。そこから自分が享受している利益もあるんだという感覚が必要なんだと思います。