違和感の正体
東京新聞の望月衣塑子さんが原案を担当した映画『新聞記者』が、好評らしく、リベラルな人々から賞賛されている。
公開直後から「ところで、あれ観た?」というのが、メディア業界の関係者と会う時、時候の挨拶代わりになっていた。かくいう私も、7月7日に渋谷「ユーロスペース」特別イベントで、件の望月記者と対談をした。
あらかじめ、私の感想を述べておくとーもちろん、望月さんにも伝えたがー、そこかしこに違和感が残った映画だった。
主人公の女性記者の取材プロセスが描かれておらず、超簡単にスクープを取れるような描写にも違和感があったし、私も社会部にいたはずなのに、社会部記者である彼女の取材手法に何らリアリティを感じなかったし、ラストシーンの決断にも「おいおい、そりゃあ信義則違反だろう」とツッコミを入れざるを得なかった。
伊藤詩織さんや前川喜平さんの身に現実に起きた「事件」を描き、タブーに挑んでいる的な賞賛も「日々の新聞に書いてあることばかりで、これがタブーなら新聞はタブーを破ってばかりだ」と思った。
この辺は個人の好みで、現場を回っていた私がついていけないと思っても、リアリティがないと思っても、絶賛する人はいるだろうと思う。
ついていけない「調査報道至上主義」
イベントでも語ったが、より根本的な違和感は映画で描かれている記者が、あまりに新聞社の理想像に忠実な「古典的な調査報道至上主義」とでも呼べる、非常に狭い「記者」イメージで描かれていたことにある。
新聞社の理想像だけでなく、ある世代や考え方の人にとっての「新聞記者」の理想像と言ってもいいだろう。
権力―今なら安倍政権―を監視し、徹底的に対峙し、発表されない権力の闇を、情報を持っているインサイダーに食い込んで暴いていくーー。プライベートの時間を犠牲にしても、スクープに殉じていく新聞記者像はある意味でジャーナリズムの美学そのものである。
政権批判さえしていれば記者の役割を果たしていて、満足だという人たちは拍手喝采だとは思う。
もちろん調査報道は地道で手間がかかるし、単純に費用対効果以上の価値があることは否定しない。だが調査報道、それも映画に描かれるような古典的な「調査報道」ばかりが花形扱いされ、美徳とされていいのだろうか。
今の時代にこんな「かくあるべき」像で、何が伝わるのだろうか。そこにあるのは、あまりにベタな新聞社のロマンティシズムだ。ニュースの世界は、そこまで単純なものではないと思ってしまうのだ。
もう少し深めると、こうした理想像による画一化された価値観は、逆にニュースの危機につながってしまうと考えている。どういうことか。イベントでは展開できなこととを詳しく書いておこうと思う。
これもあらかじめ断っておくが、私はタイプは違うと思ったが、別に望月さんの存在ややり方を否定する意図はない。
ニュースの3分類
私はニュースを3種類に分割して考えている。それは速報、分析、物語だ。
速報
速報は文字通り、素早く仕上げて出すニュースだ。新聞の事件・事故記事が代表的なスタイルで、各社とも誰が書いても同じように伝えられるように、基本型を徹底的に教え込まれる。ストレートニュースと呼ぶこともある。野球の投手でも基本はストレートなので、ニュースの基本中の基本だ。
速報の最大の勲章はどこよりも早く書くストレートニュースの「特ダネ」だろう。この中には、映画に出てきたような調査報道によるそれも含まれる。
「〜〜逮捕へ」「新大臣に〜〜を任命」「新社長にX氏」というニュースを読んだことがないという人はいないと思う。
分析
分析は、起きた出来事を意味付けるニュースのスタイル。いきなり発生したことだけ報じられても、その意味がわからないことは世の中にはたくさんある。
その筋の専門家に取材を重ねたり、内部に特別な情報源を作ったりして、一体何が問題なのか、背景に何があるのか、これまでの歴史ではどうだったのかを解説していくというニュースだ。
得意としているのは、専門的な知識を持っている記者。例えばある業界や国を長く取材している、政治、経済、司法、科学、スポーツといった特定の分野に強い記者である。
これまで何人か「分析の名手」と仕事をしてきたが、彼らに共通していたのは情報へのドライな視点だった。
取材をしていれば、必ず「こうあってほしい」という思いが出てくる。追いかけている問題を報じたい、となればバイアスもかかる。しかし、彼らは都合のいい情報ほど信じることはせずに、本当なのかと疑うところから仕事を始めていた。
人間は、常にこうあって欲しいという情報に弱いというバイアスがある。こうだったらいいな、自分が信じるほうに物事が進んでいってほしいなと思う。
もちろんニュースの仕事に取り組む人たちもバイアスから逃れることはできないが、だからこそ、安易に飛びつかずに理性をもって情報に向き合う。自分をも疑う理性が分析の肝なのだということを彼らから学んだ。
物語
物語は、起きたことを深掘りし、裏に隠されている「ストーリー」を発掘し、一つの「物語」として描き出すスタイルのニュースだ。事象、人、会社……。
どんな些細なことでも、深掘りすれば表には出てこない「物語」のタネを多くの人は持っている。
人は物語ることから逃れることはできない。単なる事実関係の説明からは読み取れないことを、物語化することで理解しようとする。
これは私がしばしば参照点にしている、ある文芸運動とリンクする。それは、1960年代〜70年代にかけて隆盛し、後年のノンフィクションに大きな影響を与えたニュージャーナリズムだ。
ニュージャーナリズムの書き手たちは徹底的に取材を尽くせばシーンを小説のように描くことも可能ではないかと考えた。アメリカで勃興した運動は、やがて海外にも伝播していく。
いま手元にある毎日新聞社編『日本を震撼させた200日 記者の眼ロッキード疑獄』は、ニュージャーナリズムの強い影響下にある一冊だ。特に前半は唸るような取材とディティールの積み重ねによるシーンで構成されていて圧倒される。冒頭の田中角栄元首相の逮捕シーンの描き方が実に面白いので引用してみよう。
《「東京地検です」
押し殺したような声に田中は一瞬にしてすべてを悟った。きわめて事務的な二、三のやりとりのあと、田中は観念したように車に乗り込んだ。(中略)タカをくくっていたマスコミ陣は田中邸をまだ張っていなかった。たまたまこの日取材に来たある週刊誌カメラマンが辛うじて“決定的瞬間”をモノに出来ただけだった》
まさに「見てきたように本当のことを書いている」シーンから物語は動き出す。マスコミはまだ張っていなかったという描写から、そこに毎日新聞記者はいなかったと考えるのが自然だろう。なのにどうして、悟った表情だったとわかるのか。
それはシーンを描くために取材を重ねたからだ。東京地検の関係者、田中邸にいた家族や書生らに取材を重ねてシーンを組み立てていったことが手に取るようにわかる。
危機感の正体
上記を踏まえて、本論に戻ろう。私が抱いた危機感は、記者の理想像が「画一化」されることにある。ある世代、ある考え方の人々にとっての記者の「理想像」が時代に適合しているとは限らない。画一化の結果、失われるのは、ニュースあるいは記者が持っているはずの多様性だ。
速報、分析、物語という3つのスタイル全てがオール5で、きれいな三角形チャートが描けるのは一握りの「天才」だけで、そんな人は滅多に出会えない。速報には強い特ダネ記者が文章力も分析力も皆無とか、分析力は抜群でも文章がイマイチとか、物語を捕まえる力は抜群なのだが論理的に詰めていく分析ものは苦手といった人は珍しくない。
だが、それがいいのだ。
ニュースが多元的に開かれていることで、いろいろなタイプが参入でき、それぞれの個性を発揮できる。
権力と戦うと一口に言っても、戦い方は一つではないし、理想形が決められているものでもない。インターネット時代においてもニュースの価値は変わらない。新聞に限らず記者の仕事の価値は、これからも変わらない。むしろ、多様であることがますます求められる時代になったとも言える。
「新聞記者」を安易に理想像とすることなく、もっと多彩に、もっと自由に。
私はこの9月から東京大学で半年間、メディアに関する講義を受け持つ予定だ。若い世代に対しては、メディア環境の変化によってますます多様化するニュースや記者の仕事について伝えていきたいと思っている。 講義で話した内容は、またハフポスト日本版の記事にする予定だ。