色も人も多様だから世は美しい、イタリア サンレモ音楽祭

人々が自らの文化や習慣・見方を一方的に押しつけようとすることなく、損得ばかりを短絡的に考えることのない世の中になっていきますように。

昨晩のサンレモ音楽祭では、Mikaが舞台で演奏を始める前に語った一言も、とても心に響き、また、世界の政治や人心がおかしな方向を向きがちである今こそ、こうした言葉を、多くの人に届けることが大切だと思いました。

その言葉のイタリア語原文は、次の記事の冒頭の写真の下に引用されていますが、以下に日本語訳をご紹介します。

「音楽にはぼくの心の色を変える力があります。白かもしれないし、青や紫、あらゆる色である可能性があります。あらゆる色であることは、とてもすばらしいことです。もしだれか世界のあらゆる色を受け入れたくないという人がいて、ある一つの色だけがより優れていて、ほかの色よりも多くの権利を持つべきだと考えたり、虹はあらゆる色を象徴するために危険だと考えたりするようであれば、そうですね、かわいそうなのはその人です。本当にね、そんなだれかには音楽なしで生きてもらいましょう。」(「  」内は石井訳。意訳あり。)

もう15年以上前、英語の勉強も兼ねて、日本でよく外国映画を見に行っていた頃、英国の映画の中に、障害を持つ人や同性愛の人が、ごくふつうの登場人物の一人として描かれていることが多いのに驚きつつ、日本でもこうでなければいけないと感じました。

日本でも当時そういう人物が出てくる映画はあって、勤めていた高校などで全校生徒の前で、人権教育活動の一環として上映することは時々ありました。けれども、そういう映画では、障害を持つ人は差別に苦しみながら打ち勝ち、幸せをつかむ主人公である場合がほとんどでした。

それはそれですばらしいのですが、そういう映画では、障害を持つ人が特別な存在として描かれがちで、一般的な映画やドラマに、ごくふつうの人として登場することがめったにないことが気になっていました。

もう約20年近く前の米誌『TIME』に、ようやくハリウッド映画で、同性愛者を奇人や殺人事件の被害者ではなく、ごくふつうの愛すべき人間として描く映画が現れ始めていると語る記事がありました。記事では、ロビン・ウィリアムズら主演の映画、『バードケージ』(原題は『The birdcage』)も、そうした作品の例として取り上げていました。

映画は社会を映す鏡であり、社会の差別が映画に反映されるきらいがあるけれども、ハリウッドは本来は同性愛の人が多い場所でもあり、社会をよりよい未来に導く映画を作る責務があるのではないかといったようなことが、その記事には書かれていたように覚えています。上記の英国の映画を見て、わたしが感嘆したのは、こういう記事を読んでいたからです。

同様にニュースやドラマで描かれるある国の人のイメージもまた、社会によって作られる一方で、多くの現象やありうる物語・人物設定の中で、ある特定の描き方・状況のみを選びがちなマスメディアの影響を、多く受けていると思います。

マスメディアはまた、残念ながら、視聴率を上げるために、また、ある特定の政治家や政党に都合がいいように、妙に社会を震撼させるようなニュースばかりを選び、移民や外国人に対する偏見や差別を助長するような報道ばかりする傾向があるように思います。

イタリアでは、皆が平和を、穏やかな毎日を望んでいるはずなのに、報道されるドラマの大半が推理ドラマで、しばしば殺人が起こり、また上映される映画にも、戦争にせよ西部劇にせよアクションにせよ、登場人物が、怒りに任せて、すぐに暴力や殺人に走る作品が多すぎると感じています。

虹の立つ海、マルケ州フェルモ県ペダーゾ 2016/2/14

平和や安全を望んでいるなら、どうして子供に戦争や殺人が出てくる映画やドラマを見せて、武器のおもちゃを買い与えるのかと言っていたのは、だれか思い出せませんが、マスメディアが売れればいい、私益につながればいいということだけではなく、自らの仕事が社会に及ぼす影響の大きさをもっと考え、よりよい世界を作っていくための報道姿勢や番組・映画・ドラマ作りというものを、もっと考えてくれたらと思うのです。

画一的に何もかもだれもかもを一くくりにして差別を行う社会では、やがて差別や偏見の対象を増やしていき、さらに多くの人々に対して残虐な行為を行う恐れがあります。ナチスはユダヤ人を迫害したばかりではなく、精神病患者や身体の不自由な人々などの子供、約30万人を殺害したそうです。

アメリカの新大統領はまた極端な例ですが、人の心の中には残念ながら、知らぬうちに自らの国や文化至上主義のようなものが住みついていて、そういう心が、不安や恐怖を煽られると、他国の人々や弱者への迫害につながる恐れがあります。

昨日だったか、イタリアの知識人で、偏りが少ないと信じていたあるテレビ番組の司会者が、イタリアの絵画を指して、「この美が絶対的・普遍的であることは、でも間違いがないでしょう」と、そうではないと反論する招待客にかなり食い下がっていて驚きました。

何を美しいと思うかは文化によって違うのであって、たとえばアフリカのどこかの民族が美とする女性像を想像できれば、この絵画に描かれた美は、ある国におけるある歴史的一時期における美なのだということが分かるでしょうという招待客の説明に、ようやく司会者も、自らが西欧文明至上主義的態度であったことに初めて気づいて、納得していました。

閑話休題。そんなことを最近いろいろ考えていたこともあって、冒頭のMikaの言葉が心に響いたのです。多様性がもっと尊重される時代に、人々が自らの文化や習慣・見方を一方的に押しつけようとすることなく、損得ばかりを短絡的に考えることのない世の中になっていきますように。

宇宙船地球号、われがわれがではなく、わたしたちの地球、同じ星に住む大切な仲間として対話をすることが今ほど大切なときはないのに、世の中が逆の方向に向かっていることを危惧しつつ、サンレモに登場するさまざまな思いがけない招待客やその言葉に、ああ、こういう人たちもいて、視聴率の高い番組でこういう問題をきちんと取り上げているのだと、希望を持ちました。

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