健やかに生きたいと思う。でも、健やかってどういうことだろうと考える。
身体が丈夫ってこと? 気持ちが強いってこと? たぶん、自然にいられることだと思う。
それなら自然ってどういうことだろう。
そう考えているときに思い出す本があって、その本の名前は『文化のなかの野性 芸術人類学講義』という。
2000年に発行されたこの本の著者は、美術作品の実作やアフリカや中国などのさまざまな少数民族との生活のなかで、シャーマニズムと美術に共通する部分を見出していく。そしてそれらの経験から得た知を、美術専攻の大学生たちに向けて話したのが、本書の内容となっている。
この本のいちばん最後に、「本物の素人」という言葉が出てくる。
「言ってみれば、私が皆さんに伝えたいのは、常に『本物の素人』で在り続けてもらいたいということだけなのです」
「素人」ならわかる気がするけれど、「本物の」とついた途端、自信がなくなる。
読んでみると、「本物の素人」とは「過ち」を犯しやすい「中途半端な専門家」や「中途半端な素人」ではないもの、ということらしい。ここでの「過ち」というのはつまり「悟る」ことだと著者は言う。
くわしく書くと、「自身に次なるステージが胎動し続けていることを教えてくれる」ものの「歩みを妨げるような言葉の固定力」で「悟る」ことだ。
もう少し、文章をさかのぼる。
「私は、意図的な『作品』制作をやめることで、人間の内なる自然(野性)から生じる『リアル』を受け入れる作法として、不可避に〈絶対性〉や〈忘却〉や〈陶酔〉に心身を委ねることになった経緯や、その効果についてあれこれと述べて参りました」
つまり、この本に書かれていることは、「人間の内なる自然(野性)から生じる『リアル』を受け入れる作法」と「その効果」であり、その作法を実行できる存在こそが「本物の素人」ということになるだろう。
「本物の素人」とは、言葉や意味という外的なものによるとらわれとしての「悟り」から距離を置いて、自身の内なる自然から生じる生々しさを受け入れることにより、自分自身に「次なるステージが胎動し続けている」ことを知る存在。
自然とはつねに変化し続けるものだ。内部にそれを宿す人間もまた変わり続け、自然により教えられ続ける。
わたしがぼんやりと思う「自然にいられること」としての「健やかさ」とは、つまり規定された自分自身からあえていくらか離れ、内なる自然を受け入れるなかで生まれる、行き来の感覚のことなのかもしれない。
どちらとも決めないでいる両方の感覚。
と、かんたんそうに言っても、それってものすごくむずかしい。どちらがいいとか悪いとか決めたくなる日もある。
そしてすぐ「ふつう」や「当たり前」について悩み、考えこんではこんなふうに悩み相談を持ちかける。
送信済みメール :
「気づくと『本当でないこと』を書いてしまう。(中略)日記を書いていても、箇条書きをこえたあたりから『本当でないこと』が出現します」
返信 :
「(書くといいのは)小説として仕上げない、あえて断ち切られるように終わるような、オチなしの小説です。そのさきがどうなっていくのか、わからないけれど、でも可能的なものがしっかり書かれていれば、そこから現実的なものが、読者のなかで生み出されていく」
これは、去年の夏に送ったメールと、その返信のそれぞれ一部分の抜き書きしたものだ。
返信をくださったのはこの本の著者の中島智先生である。大学時代にお世話になって以来、実は、しばしば相談をさせてもらっている。
そのたびにお忙しいなか、ていねいなお返事をいただく。
わたしは文章を書くのが好きだ。論理から離れたり、また近づいたりしながら書くと、新たな渦のなかに入っていくような気がする。
そういうとき、文章はわたし自身の意図をこえて、意識していなかった言葉のつらなりを生み出すことがあるので、びっくりする。それがこの本でいうところの「内なる自然」によるものなのかもしれない。
わたしが本屋をやっているのもそれが自然だから。そう考えると、書くことも本屋も、わたしにとっては健康法なのだろう。
*
さて、本の内容にすこしだけ戻ってみる。 この本ではいろいろな民族のことが話されているけれど、そのなかでも中国少数民族である納西(ナシ)族についての話にはどきっとした。
納西族は東巴(トンパ)教という宗教を信仰していて、その東巴教には東巴教典と呼ばれる膨大な知の教典が存在する。教典は東巴文字と呼ばれる絵文字で記されていて、「政治、経済、哲学、史学、宗教、文学、地理、医学、芸能、民俗学などの多岐にわたる百科全書的なシャーマンの叡智を記録したもの」なのだという。
「この東巴教典は文字と言っても私たちが普通に思い浮かべるような文章の構造をもつものではありません。というのは、これは万人に読まれるためのものではなく、訓練された司祭によって読経され語られるために記されたものだからです。つまり私たちは先行テキストをオリジナルと考える傾向にあるのに対して、ここではテキストに喚起された司祭の記憶と解釈による発話こそがオリジナルなのです」
東巴教典は「行間の多い備忘録」のようなもので、シャーマンはここから喚起されることによって即興的な語りを行う。
またそれによって聴衆の内なるなにかを喚起することが可能になる。そのような喚起力を持つ語りは、そのものがオリジナルなのである。
著者はシャーマンを「『虚構をもってしか語りえない真実』を文学的に伝える達人なのかもしれません」とする。
もちろん東巴教のシャーマンの語りが、彼らの知識や経験に基づくものだということは前提だ。でも言葉の不安定さ、不確実性ともとらえられる即興的な語りのなかに喚起力があるのだと、この話は示している。
ある情景がある。遠くへだてられた、青白い光の差し込む部屋のなかで、だれかがひたすら、必死になってなんらかの文字情報が更新される様子を見ている。生活は廃れているが、それでも文字を見ることをやめられない。
わたしはここ7、8年持ち続けているこのイメージを、自分の姿のように思うことがある。部屋のなかの人間は言葉にとらわれたまま生き、ただ「私はもう沈黙しよう」と書き残す。それはバッドエンドと呼べるようなものだ。
でも、いま本書を読み返していてふと気づく。この情景には続きがあるかもしれない。そう考えれば、閉じた情景は無限に広がっていく。 いただいた返信メールを読み返す。
「可能的なものがしっかり書かれていれば、そこから現実的なものが、読者のなかで生み出されていく」
「可能的なもの」とは、東巴教典について言うときの「行間の多い備忘録」にも近いものなのだろう。
文章を読み、想起されること。その内容を忘れながら、理解しきれないながらもだれかに懸命に語られること。それらは、またひとつの健全な展開であり、それらすべてがオリジナルとなる。
もし、その連鎖のなかでゆったりとなにかを書くことができるなら、それはとてもすてきなことだと思う。
今年に入って、本書は版元品切れとなり4月に新装版が発売された。きっかけは岐阜の恵那にある本屋「庭文庫」が打ち出した「店主の好きな本1000冊売ろうキャンペーン」だ。
店主の百瀬雄太さんの真摯な思いが、在庫僅少となっていた本を新たな姿で出発させることへとなった。
「ほんやのほ」ではそのような影響力は持ち得ないとしても、だれかの手が本書に伸びて、ページをめくることで、その人のなかにある自然が喚起されることがあればいい。
それはきっと、この世界に健やかさを増やすことだとわたしは信じている。
連載コラム:本屋さんの「推し本」
本屋さんが好き。
便利なネット書店もいいけれど、本がズラリと並ぶ、あの空間が大好き。
そんな人のために、本好きによる、本好きのための、連載をはじめました。
誰よりも本を熟知している本屋さんが、こっそり胸の内に温めている「コレ!」という一冊を紹介してもらう連載です。
あなたも「#推し本」「#推し本を言いたい」でオススメの本を教えてください。
推し本を紹介するコラムもお待ちしています!宛先:book@huffingtonpost.jp
今週紹介した本
中島智『文化のなかの野性 芸術人類学講義』(現代思潮新社)
今週の「本屋さん」
伊川佐保子(いかわ・さほこ)さん/ほんやのほ(東京都中央区)
どんな本屋さん?
2019年2月1日、東京メトロ日比谷線小伝馬町駅より3分のビルの2階にオープンした会員制本屋です。入会資格は「なんだか本が気になること」。中島智『文化のなかの野性 芸術人類学講義』は「ほんやのほ」でも販売中です。
(企画協力:ディスカヴァー・トゥエンティワン 編集:ハフポスト日本版)