日本文学研究者のロバート キャンベルさんといえば、近世・近代日本文学が専門で、テレビ番組「スッキリ」のコメンテーターとしておなじみだ。研究でも、テレビでも、いつも「ちょっと違った視点」を私たちに与えてくれる。
ハフポスト日本版は先日、キャンベルさんをお招きして、ある「実験」をしてみた。東京・新宿区の早稲田大学に読者200人近くを集め、賛否両論の「過激な」アート作品を見ることにしたのだ。
ところで、アートといえば、2019年の後半は日本にとってあまり良くないニュースが起きたばかりだ。あいちトリエンナーレの展示作品をめぐって「過激だ」「反日的だ」という批判が起き、一時中止や文化庁の補助金ストップにつながった。
アートによって、政治的な対立が浮かび上がることは必要なことだと私は思うが、それもそのあとに、「議論が深まってこそ」である。あいちトリエンナーレでは、「右派」と「左派」のお互いの敵意が激しくなっただけだ。
不快に思える作品を「二度見」する
どうしたら良いのだろうか。メディアとしてこの問題にどう取り組んだらいいのだろう。
自分たちで考えるだけでなく、憲法学者からアート関係者まで、ありとあらゆる人に会って考えてみた。
そこで、あるキーワードが浮かび上がってきた。「二度見」である。
自分にとって不快に思える作品でも、少しだけ時間を置いて、一回だけでなく二回見ることによって、印象は変わるのではないか。そして一回目と二回目のあいだに、同じ作品を鑑賞した他の人の声を聞くことで、自分とは違う考えの人のことも分かるのではないか。
今回の実験では、この「過激なアート作品」をキャンベルさんと200人近くの読者と一緒に、「二度見」をすることにした。日本のみならず世界各国で深まる「分断」と「対立」。やってみて分かったのは「二度見」が持っている、不思議な魔力についてだ。
広島の「ピカッ」を読者200人と観た
この実験は12月7日の土曜日の午後2時、早稲田大学のホールでおこなった。皆でいっしょに見た作品は、現代アーティスト集団「Chim↑Pom」のものだ(「ヒロシマの空をピカッとさせる」)。
彼らが2008年、広島原爆ドームの上空に「ピカッ」という文字を飛行機雲で描いた様子を描いたビデオ動画を観賞した。
動画は、青々とした空を映し出すシーンから始まる。キレイだ。夏のように思える。その下に、私たちの心に深く刻まれている「原爆ドーム」のショット。おそろいの赤い帽子をかぶった子供たちの姿も映り込む。
じっと見ていると、ゆっくりと飛行機雲が描かれ始める。「ピ」という文字。次に、「カ」という文字。小さい「ッ」も最後に。途中、黒っぽい鳥が空を横切る。
被爆国である日本に住む私たちはすぐ分かる。
これは「ピカッ」という文字だ、と。
1945年8月。広島と長崎に落ちた原爆は、その閃光をあらわす「ピカ」、爆音をあらわす「ドン」から「ピカドン」とも呼ばれる。広島の空に「ピカッ」という文字が現れれば、それは原爆のことである。
「被爆者の感情を傷つけた」という批判がおきた
Chim↑Pomが当時、自らチャーターした飛行機で、この文字が空に描いたときは賛否両論がうずまいた。「原爆の悲劇を強く思い出させる」「被爆者の感情を傷つけた」という批判が起き、Chim↑Pomは被爆者らに謝罪をした。
今回の実験で司会をつとめたハフポスト編集部の南麻理江は、広島出身だ。落語が好きで、現代アートなど「深読みを求められるエンタテインメント」には寛容な方だ。それでも、この作品には、違和感をおぼえたという。
作品は5分36秒の長さ。最初に見終わった後、少し沈黙が流れる。キャンベルさんと私はマイクを手に会場を歩き回る。参加者に話を聞くためだ。
ここである「仕掛け」をする。今回の実験に企画段階から関わってくれた、ミュージアムエデュケーターの会田大也さんからアドバイスをもらったのが、参加者に「意見」を聞かなかったのである。それよりシンプルに「何が見えましたか?」とだけ聞いた。
すると、次のような言葉が出てきた。
——鳥の群れが見えた。
——「ピカ」という文字を見て、「ピカソ」と描かれるのかな?と思った。
——飛行機雲が描かれたけど、飛行機は見えなかった気がした。
——空の下の人は飛行機雲に気づいたのかな。
——飛行機を飛ばしていたが、その行為が環境によくない。
——子供たちの声が聞こえました。
——青い空が綺麗だった。白い雲とのコントラストを感じた。
短いコメントが続く。「あれ、そんなものが映ってたかな」。「子供達の声には癒やされた」。参加者から小声でそんなリアクションが漏れる。
朝日新聞は「賛否の声」と報じたけれど…
ちなみにこの作品を「分析」した、10年前の2009年7月4日の朝日新聞の記事には「表現・手順に賛否の声 原爆ドーム上空に『ピカッ』の映像作品、イベントや本で議論」というタイトルが付いている。
しかしながら、私は思う。
そんなに、私たちはいつもいつも「賛否」の意見を持っているのだろうか。この広島の「ピカッ」のような、もやもや感を与える作品を見たときに、そんなにいつもいつも「賛成だ」「反対だ」とすぐ感じるのだろうか。そして、そんなにいつもいつも「イベントや本で議論」をしているのだろうか。
「Chim↑Pom」が「ピカッ」を発表した当時、私は作品を観ておらず、朝日新聞を始めとしたメディアの報道を目にしていただけだった。「被爆者を傷つけた」「いや、現代アートだ」。報道を通して見聞きする、そんな手垢がついた感想より、今回の実験で参加者が口にした言葉の方が私にとってはリアルだと思った。
二回目を観る前に、制作者の「狙い」を聞く
一回目の作品を見終わったあと、ハフポストの記者が事前に取材していた、「Chim↑Pom」のリーダー、卯城竜太さんのインタビュービデオを見る。次のようなことが分かった。
・この映像が「悪ふざけ」ではないこと。
・日本に住む私たちにとっては避けて通れない「原爆」を現代の空に描くことによって、平和の意味を問い直すものであったこと。
・「ピカッ」という擬態語は、日本社会の特徴でもある「マンガ文化」からインスピレーションを受けていること。
さらに、この映像は「8月に撮影された」と思っていたが、実は2008年10月21日にビデオにおさめられていたものだった。私は勝手に、それが「原爆が投下された同じ月の8月の映像」だと思い込んでいたのである。
「賛否的な脳みそ」を取っ払う
ビデオの解説などを聞いたあと、二回目を見る。
がらっと印象が変わる。一回目、私はメディアの人間ということもあって、どうしても「ヒロシマ」のことを考えてしまっていた。アメリカで育ったので、あの原爆が「戦争を終わらせた、仕方が無いもの」と考える人がいることも知っている。先ほどの朝日新聞の記事ではないが、「賛否的な脳みそ」になっていた。
それを取っ払い、今回は参加者の感想を聞いて「空」に注目することにした。
空をこんなにじっと見たのは久しぶりだな、と思った。地上にいる私たちと空の境目が消えていくようで、吸い込まれそうな感覚をおぼえる。黒い鳥が横切る。一回目と違い、私はゆっくりと鳥の動きを追った。
そういえば、原爆が広島に投下された1945年8月6日の記録を読むと、その日は「気温が26.7度。アメリカの観測機が『天気も良好で爆撃可能』と爆撃機エノラ・ゲイ号に伝えた」とある。
晴れた空に、原爆が「ピカッ」と投下された。「広島」「原爆」「平和」という誰かの借り物の言葉ではなく、日常を破壊して多くの犠牲者を出す原爆のリアルを私は初めて感じた気がした。それは一回目にあまり注目してなかった「空の青さ」が私に与えてくれた感情だ。
キャンベルさんが言った。
「作品を二度見するということは、保守やリベラルを超えて議論や折り合いをつける時のキーコンセプトにもなる。同じ作品を二度見て、変化や気になったことを考え、語り合う推進力として働けばいい」
混沌とした社会で、賛否を問う前に大切なこと
私は社会においては、自分の思想的立場をハッキリとさせ、「敵」と「味方」に分かれて闘うこともある、と思っている。自分と他者の論点を戦わせてこそ、良い社会が生まれる。その本質から逃げてはいけない。
しかしながら、こういうことも思う。私たちは、「賛否」を問う前の段階のことも大切にしないといけない、のではないか。
冷戦が終わって、これまでのような「資本主義陣営」vs「社会主義陣営」というシンプルな構図では世界を見られなくなった。アメリカや旧ソ連的な価値観だけでなく、世界では、中国的な価値観もあれば、イスラム的な価値観も存在感を持つ。唯一のスーパーパワー的な国家などなく、混沌とした世界だ。
私たちの社会も、ジェンダーや性に関する多様な意見が急速に広まった。今後は人工知能が生活に入り込んできて、自分たちの倫理観をゼロから問い直す必要があるだろう。転職や起業が一般的になりつつあり、働き方やライフスタイルも、「たくさんの正解」であふれている。
こうした「混沌とした多極化」が進む現代においては、「賛成だ」「反対だ」という思考の前に、まずは自分が「見えたもの」を安心して口にできる空間があった方が良いのではないか。
賛否の前にまずは観る。そしてもう一度、観る
イベントが終わった後、楽屋でキャンベルさんと、ミュージアムエデュケーターの会田さんと会話をした。
「作品が変わっていないのに、二回目は印象が変わる。それは作品ではなく、自分自身が変わったからだ」
「二度見だけでなく、三度見も、四度見も。こういうイベントはこれから何度もやった方がいい」
まとめると、そんな意見が出てきた。
※参加者のツイート。今回の記事のタイトルにも使わせてもらった
何より今回のイベントで、キャンベルさんは自分の「意見」をあまり言わず、控え目にしていた。テレビなどメディアで観るような「わかりやすさ」を敢えて封印しているようだった。
キャンベルさんのような著名人が意見を言ってしまうと、それが「正解」になってしまう。その代わり、キャンベルさんは、マイクを片手に、「なるほど、なるほど」と参加者の声にうなずきながらゆっくりと歩いてまわった。
私たちを取り巻く社会問題に対するスタンスも、同僚や上司への意見も、そして映画・アート・ニュース記事のようなコンテンツへの感想も、そして、送信ボタンを押す前の140文字のツイートも。
そこには、どこか「賛否」を強制されているような雰囲気がある。自分のスタンスをハッキリとさせ、「実りある」意見ばかりが求められている印象もある。それが今の社会だ。
でも、その前にまずは、安心して思ったことを口にできる空間が必要なのではないか。
自分の言葉を聞いてもらえる。自分も、みんなの声に耳を傾ける。そして、お互いがそれらを、まずは受け止めたうえで、もう一度、観てみる。
「ピカッ」を二度見したように、私たちは社会の現象と向き合うという、ある程度ゆっくりとしたプロセスが必要なのだと思う。そこには「賛否」のような分かりやすい対立はない。あるのはみんなの何気ない「見えたもの」だけだ。
「青い空が見えた」。
まずはその言葉を口にすることから、しか始まらない。