9月25日、快晴の空の下、岩手県釜石市の釜石鵜住居(うのすまい)復興スタジアムに色とりどりの大漁旗が舞った。
ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会のフィジー対ウルグアイ戦は、ウルグアイの歴史的勝利で終わった。
朝日新聞によると、約1万4千人が応援に声をからしたという。
ところで開催する釜石市が「ラグビーのまち」と呼ばれることを、どれだけの人が知っているだろうか。
県庁所在地の盛岡市から釜石市まで、車で2時間超。
試合が行われた鵜住居地区までは、釜石市街地からさらに7キロも離れている。
そしてラグビーワールドカップの開催地に決定するまで、大規模なスタジアムも無かった。
なぜ、この場所にスタジアムがわざわざ新設され、ラグビーの世界大会が行われたのだろうか。
「北の鉄人」の時代
釜石市でのラグビーの歴史は、1959年、富士製鉄(現在の日鉄)釜石製鉄所で、ラグビー同好会(後に部へ昇格)が発足した時から始まる。
釜石市は、1856年に盛岡藩士の大島高任(たかとう)が洋式高炉を建設。翌年、日本で初めて製鉄に成功し、近代製鉄の幕開けを飾って以降、製鉄業が盛んな「鉄のまち」として知られた。
新日本製鉄(1970年に富士製鉄と八幡製鉄が合併。現在の日本製鉄)釜石製鉄所の高炉で赤く燃え上がる炎は、まちのシンボルだった。
ラグビー同好会発足当初は鉄鋼業が勢いづいていた頃で、人口も右肩上がりに増え、まちは活気で満ちていた。
鉄鋼業関係者が、短い昼休みで食べられるようにと、早ゆでが可能な極細の縮れ麺が特徴の名物「釜石ラーメン」が生まれた。
だが70年代の石油ショック、80年代の円高による不況から、「鉄冷え」と呼ばれる鉄鋼業不振の時代に突入。
釜石でも人口減が続き、すっかり意気消沈していた。
そんな時、新日鉄釜石ラグビー部の活躍が、まちを温めた。
センター(CTB)森重隆選手や、スタンドオフ(SO)松尾雄治選手などの名プレーヤーが加入し、めきめきと力をつけてた。
1977年日本選手権で初優勝。
1979年からは、前人未到の日本選手権7連覇を成し遂げた。
ちょうど高校ラグビーを題材にした1984年のテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」(TBS系列)が大ヒットし、日本中がラグビーブームに沸いた時期と重なった。
快進撃を続ける新日鉄釜石ラグビー部は、「北の鉄人」と呼ばれ、日本のラグビー史に一時代を築いた。
街のシンボルが消えた日
だが日本選手権7連覇後、チームは停滞した。
そして新日鉄の経営も悪化。
釜石のシンボルだった高炉は次々と休止していった。
1989年、平成の始まりとともに最後の1つが廃炉となり、釜石のまちから火が消えた。
そしてラグビー部も、1992年を最後に全国社会人ラグビー大会(この大会の上位チームが日本選手権への出場権を得る)への出場もついに途切れることになる。
2000年、新日鉄本社が社内運動部の単独運営をやめる経営方針を打ち出した。
朝日新聞によると、ラグビー部は「新日鉄」の看板を下ろし、地元企業の資金援助によって運営する共同運営方式(クラブチーム化)に移行することになった。
しかし当時、ラグビーの社会人リーグへは、単一企業のチームしか参加資格がないため、チームが存続したとしてもリーグへの出場が叶わない。
新日鉄釜石ラグビー部を応援し続けてきた釜石市民たちは諦めなかった。
部の私設応援団が全国で署名集めに奔走し、クラブチームでも社会人大会出場の道を閉ざさないよう、規約の変更を日本ラグビー協会へ嘆願した。
協会の動きは素早く、署名提出の約3週間後には規約を改正し、企業チームだけでなくクラブチームにも社会人大会の門戸を開くことを決めた。
2001年、新日鉄釜石ラグビー部は、クラブチーム「釜石シーウェイブスRFC」として新たに発足。
2003年に発足したラグビーのトップリーグ入りを目指し、奮闘を続けている。
そして震災が起きた
2011年3月11日、東日本大震災によって、沿岸部に位置する釜石も津波に襲われた。
市内でも特に被害が大きかったのが鵜住居だ。
岩手県によると、釜石市の犠牲者・行方不明者1040人(関連死除く)のうち、半数を超える580人が鵜住居に集中した。
特に多くの市民らが避難した鵜住居地区防災センター(跡地には現在釜石祈りのパークが整備)は津波に飲み込まれ、推定160人以上が犠牲になったとされる。
釜石鵜住居復興スタジアムも、津波に襲われた場所に建つ。
震災前は、鵜住居小学校と釜石東中学校が隣接して建っていた。
どちらも津波に襲われたが、その時学校にいた児童・生徒たちは中学生が小学生の手を取り、協力し合って高台へ自主的に避難、全員無事だった。
これは「釜石の出来事」と呼ばれ、全国の防災教育で自主避難の事例に取り上げられている。
鵜住居は、釜石市の中でも特に震災復興において象徴的な地区と言えるだろう。
ワールドカップを釜石に
2015年3月、釜石のまちに歓声が上がった。
2019年開催が決まっていたラグビーワールドカップ日本大会の開催地の一つとして、釜石市が選ばれた。
選ばれた中では唯一、既存のスタジアムがないにも関わらず、だ。
2009年に、日本がワールドカップの招致活動を行った際、釜石市はおろか岩手県も開催地の候補リストには入っていなかった。
だが市民らが、「ワールドカップ開催で復興促進を」と釜石市長らに招致を要望。
被災者の中には招致活動による復興の遅れを不安に思う人もいたが、賛同派の市民らが説得に歩いて回ったという。
釜石開催が決まると、まちは活気づいた。
ほとんど時期を同じくする5月、橋野鉄鉱山・高炉跡が「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録された。
2016年3月には県立釜石高校が21世紀枠で選抜高校野球大会に出場し奮闘。
釜石港でのコンテナ取り扱い数は右肩上がりで記録を更新し、新航路もつながった。
2017年4月、津波で全壊した鵜住居小学校・釜石東中学校が高台移転。震災後は他の学校の教室を借りたり、プレハブ仮設校舎で授業を受けたりしていたため、6年ぶりに「本当の教室」に戻れた生徒もいた。
震災後、ほとんど更地となっていた鵜住居地区に、明かりが少しずつ戻ってきた。
そして2017年4月には、「釜石の出来事」が起きた旧鵜住居小学校・釜石東中学校の跡地に釜石鵜住居復興スタジアムが着工。
鵜住居小学校・釜石東中学校の新校舎からは、スタジアムが建設されていく様子がよく見えた。
現在、小中学校の新校舎と道路を挟んで向かい側には、多数の犠牲者を出した鵜住居地区防災センター跡地に釜石祈りのパークがあり、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑も設置されている。
この頃からワールドカップに向けての準備が加速した。
元ニュージーランド代表(オールブラックス)主将のリッチー・マコウが釜石を訪れ、子どもたちとラグビーを通じて交流。
釜石市は外国からのラグビーファンをおもてなしするために、飲食店経営者らや市民向けに英会話の勉強会を開催した。
2018年8月には、復興スタジアムが完成。
2019年3月には震災後ずっと不通になっていたJR山田線の宮古―釜石間が、NHKの朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道に移管、「リアス線」と名前を変えて運行を再開。鵜住居にも駅が復活した。
内陸部の花巻市から釜石をつなぐ高速道路「釜石自動車道」も全線開通し、ワールドカップを開催する準備が整った。
ワールドカップ開催と復興が一体となって加速していった。
復興はラグビーのように
釜石でワールドカップ初戦が行われた9月25日は「特別な日」として、大会公式ツイッターでも紹介され、スタジアムが湧く様子が次々とアップされた。
だが復興は道半ばだ。
市内では、震災から8年半が過ぎたいまも仮設住宅で暮らし続ける人がいる。
4年前のラグビーワールドカップイングランド大会。日本対スコットランドの試合、釜石で真夜中に行われたパブリックビューイングに駆けつけた往年の釜石ラグビーファンが、こんなことを言っていた。
「タックルされても一歩一歩前進していくラグビーは、我々(釜石)の復興とつながるところがある」
釜石でラグビーワールドカップが行われたことは、市民や、毎日スタジアムを眺めて学ぶ鵜住居の子どもたちにとって一生の糧になるだろう。
釜石は今までも、そしてこれからも、紛れもない「ラグビーのまち」なのだ。
釜石へラグビーを見に行こう!
釜石鵜住居復興スタジアムでは、10月13日(日)にもカナダ対ナミビアの試合が行われる。
チケットは28日午後2時時点では完売しているが、今後リセール(公式転売)で空席状況が変わる可能性もある。
スタジアムへのアクセス方法や飲食ブース、公式ファンゾーンの情報はこちらでまとめられている。
釜石シーウェイブスRFCはサポーターを大募集中だ。