祖国から国民として認められない「無国籍」の状態で、縁もゆかりもない日本で肩を寄せ合って暮らす難民の一家がいます。日本にやってきて、「見た目」による差別や、宗教や文化を理解してもらう難しさにも直面してきたという家族。「『あなたは難民』『あなたは外国人』というのではなく『私たちの社会の一員』として受け入れてくれたら嬉しい」その言葉に込められた母の思いとは。
ミャンマーで少数派のイスラム教徒「ロヒンギャ」出身であるカディザ・ベゴムさん(34)は14年前、同じくロヒンギャで日本で難民認定を受けた夫ムシャラフ・フセインさん(45)に連れられて、来日した。
生まれ育ったバングラデシュでは、ロヒンギャという身分を隠して生活していたベゴムさん。日本にやってきて最初に感じた「自由」を今も鮮明に思い出す。
「日本に来て初めて『私はロヒンギャだ』と言うことができた。もう嘘をつかなくていいんだって、それが本当に嬉しかった」
来日後、2人の子どもを出産。一方で、日本語をゼロから勉強し、奨学金の支援を受けながら青山学院大学を卒業した。現在は、夫婦揃って、難民を積極雇用する「ユニクロ」で働いている。
「臭い!」ロヒンギャの味を嫌う息子を見た、母の胸の内
休日の夕方に一家の自宅を訪れると、ベゴムさんが故郷の味「ロヒンギャ料理」で出迎えてくれた。
インゲン豆やじゃがいもにスパイスを混ぜ込んだロヒンギャ風のポテトサラダと、スージーという粗挽き小麦粉に牛乳と砂糖をたっぷりと加えて煮込んだデザート。ベゴムさんが幼い頃から食べてきた母の味だという。バングラデシュやインドより香辛料や味付けがマイルドだというロヒンギャ料理。どちらも優しい味わいで、ついつい手が止まらなくなる。
一方で、そんな「おやつ」を尻目に、長男アヤンくん(10)はゲームに夢中だ。
聞けば、アヤンくんはロヒンギャ料理があまり好きではないのだと言う。「保育園で給食を食べて大きくなってきたから、“日本人の舌” になってしまって」とベゴムさん。最近では「醤油味がいい、カレー味は嫌だ」と注文をつけるほどだという。
「シュアナマッサロン(魚の干物カレー)」は独特の匂いがクセになるロヒンギャの伝統料理だ。長女ヌラインちゃん(7)は匂いがすると「お腹空いてきた。早く食べたい」とウキウキ。一方で、アヤンくんは「臭い!」と言って部屋に閉じこもってしまう。
「(将来)アヤンくんの家庭では、シュアナマッサロンは食卓に上がらないでしょう。だから彼の子どもたちは、その味を知らなくなるんだろうなって思うんです。ロヒンギャの文化がそこで途切れてしまう」
切ない表情を浮かべるベゴムさん。胸をよぎるのは、ベゴムさんが生まれ育ったバングラデシュで、ロヒンギャのアイデンティティを必死に守ろうとした両親のことだ。
「いつか必ず家族でミャンマーに帰りましょう」両親が我が子に伝え続けたロヒンギャとしての誇り
ロヒンギャが多く住むのは、ミャンマーの西部海岸沿いにあるラカイン州。
ベゴムさんの父も、ミャンマーで政府に抗議するデモに参加したことで身に危険が及ぶようになり、1970年代にバングラデシュに避難。ベゴムさんは避難先で、10人兄弟の6番目に生まれた。
本来、ロヒンギャがバングラデシュに渡った場合、難民として難民キャンプに収容される。しかし、そうなれば移動の自由が制限され、まともな教育や医療を受けることができなくなる。父が選んだのはバングラデシュ人になりすまして暮らすという選択だった。
「ロヒンギャであることは最大の秘密だった」。しかし、外見やアクセントの違いから「本当にバングラデシュ人なの?」と周囲から怪しまれることは日常茶飯事。警察に見つかりそうになり、一家で夜逃げをしたことは数え切れない。
しかし、そんな不安定な日々でも、両親はロヒンギャとしての誇りを決して失うまいとした。医師であった父は、病院での仕事とは別に、難民キャンプのロヒンギャを自宅に連れ帰って治療をした。母はいつもロヒンギャの伝統衣装を身にまとい、故郷の味を食卓に並べた。
「人間は生まれ故郷の土で作られた」と信じるロヒンギャの文化。「いつか必ず家族でミャンマーに帰りましょう」。両親は口癖のようにそう繰り返した。
しかし、ロヒンギャをめぐる状況は悪化するばかりだ。
2017年、ロヒンギャの武装勢力の襲撃に対してミャンマー政府が掃討作戦を開始。集団虐殺が行われ、70万人以上のロヒンギャが国外に避難。国際社会の一部からは、ロヒンギャへの「ジェノサイド(集団殺害)」の疑いも指摘されている。難民は不安から帰還できないままで、「ロヒンギャという民族を認め、ミャンマーの国籍を」という民族の願いは、さらに遠のいてしまった。
ベゴムさんの親兄弟は今、難民として世界中に散らばって暮らしており、互いに簡単には再会すらままならない。
「お母さん、お母さん、この世で会えなくても、あの世でまた一緒に暮らしましょうね」年老いた両親と画面越しに会う度に、兄弟で涙を堪える。
「ガイジン」と呼ばれて
国籍がなく、戻る故郷がない一家。日本で難民認定され「日本人と一緒に学校に行けて、同じ治療を受けられる。それが何より有り難い」とベゴムさんは話す。一方で、ある気がかりも口にする。
2人の子供たちが見た目などを理由に差別的な待遇を受けないか、ということだ。
「ママ、みんな僕のことを“ガイジンだ“って言って、“ハロー” って話しかけてくるんだけど、ガイジンって良いこと?悪いこと?」
小学校に通い始めたアヤンくんが突然そう尋ねてきたことを、ベゴムさんは今も忘れられない。
「日本では少し見た目が違う人がいたら、すぐ外国人となってしまうでしょう?」とベゴムさん。
日本人と一緒に大きくなってきた息子たちにとって、日本は紛れもなく「母国」だが、周囲の目線は違う。
この先、2人の子どもは“ガイジン“と呼ばれ続けるのだろうか。
しかし、“ガイジン“が日本で暮らすのは想像以上の苦労がある。
夫・フセインさんはハラールショップの経営などを手がけていたが、東日本大震災がきっかけで失業。日本語が苦手なフセインさんに代わり、ベゴムさんが働き口を探したが「うちは、外国人はちょっとダメ」と面接にすら辿り着けなかった。唯一見つかったのは、深夜の肉体労働。慣れない仕事にフセインさんは身体を壊してしまった。
「ロヒンギャとして生まれてしまったのは私たちの運命。自分の国がないから、世界のどこに住んでも、ある程度の悔しさや苦しさは仕方ないと思っています」とベゴムさんはそう受け入れる。
しかし愛する我が子には「難民」や「外国人」であることを理由に、自分たちが経験した苦労をして欲しくないと考える。
「難民という運命を乗り越えて、どんなことにも挑戦できる人生を歩んで欲しい。将来もし『あなたは外見が違うから』と差別されたら、子どもたちはすごくショックを受けるでしょう。そんなことが起こらないことを祈ります。だって、彼らは心の底から日本人になっているから」。
誰かが声を上げなければいけない
ベゴムさんは2021年の春、早稲田大学大学院に入学する。研究したいテーマは「館林の在日ロヒンギャ女性のエンパワーメント」だ。
初等教育すらまともに受けていないなど教育レベルが低く、文化・宗教的な背景から働きに出る女性が少ない在日ロヒンギャ女性たち。
ベゴムさんは約250人のロヒンギャが集住する群馬県館林市で、女性たちに日本語教育などの支援を行き渡らせ、さらに経済的な自立を促す方法を探りたいと考えている。
「みなさん日本語が分からなくて、社会にあまり溶け込めていないし、必要な支援を受けるための情報収集もできない。本当はそれぞれに希望を持っているのに、諦めているんです。だから私が、彼女たちと支援を繋げる『ブリッジ』としての役割を果たせればと考えています」
女性たちのエンパワーメントを通じて、ベゴムさんが目指すのは、彼女たちが「声を上げられる」ようになることだ。彼女はこんなエピソードを語る。
アヤンくんが保育園に入った時、豚肉などイスラム教徒が食べられない食材を給食から抜いてもらうよう頼んだことがある。園は「前例がない」と戸惑ったが、最後には理解してくれた。一方で、その保育園には、ロヒンギャを始め、沢山のイスラム教徒の園児が通っていた。しかし、母親たちは「私たちが言っても理解してもらえないと思っていた」とそれまで要望を伝えることすら諦めていたのだという。
「一方的に『日本人は理解してくれない』と言うのではなく、私たちにも伝えないといけないことがあります。自分たちがどういう人であって、何を感じて、守っているか。それを伝えるために『言葉』はすごく重要な手段だと思います。誰かが声を上げていかないと、私たちの子どもたちは辛い思いをし続けてしまうでしょう?」とベゴムさんは話す。
日本人も難民も「お互いの存在を共有をして、一緒に暮らしていける社会」へ。
ベゴムさんが願う未来だ。
「難民が社会で『ここは私の居場所だ、私の国だ』と思えるようになれば、もっと日本に貢献したいと頑張るはず。それは、日本にとってもきっとプラスになるはずです」
(文:Haruka Yoshida 写真:Jun Tsuboike)