「ミャンマー国内の焼け残った村に行くと、ある女の子は全裸で見つかり話すことさえできず、名前も、何が起きたのかも分からないということでした。男の子たちは暗い表情で『いとこが燃え盛る家に投げ込まれるのを見た。怖い』などと口々に訴えました」
ミャンマー北部、ラカイン州に住むロヒンギャの人々が昨年8月下旬、暴力の激化によってバングラデシュに逃れてから、1年を迎えます。避難したロヒンギャの人々がバングラデシュの難民キャンプで不自由な生活を強いられる一方、国内にとどまった人々もまた、厳しい生活に直面しています。人道危機のさ中、ラカイン州北部に留まった数少ない外国人の1人である国連WFP職員、古田到さんに、ミャンマーにいるロヒンギャの現状を聞きました。
古田さんは2016年3月、ミャンマー、ラカイン州北部のマウンドウにある地域事務所に所長として赴任。母子家庭の親子や高齢者ら、弱い立場に置かれた人々へ食料を配給するほか、5歳以下の子どもたちに栄養強化食品を配るなどの支援を続け、今年7月に離任しました。
昨年8月、ラカイン州北部では30カ所以上の警察署が襲撃され、それをきっかけにロヒンギャの人々への暴力が激化。古田さんは一連の経過を現地で体験しました。
焼かれる村、泣きながら逃れる人々
「自宅は警察署の目の前にありました。8月25日の午前2時から3時ごろ、突然銃声が聞こえました」古田さんはこう"あの日"を振り返ります。
翌日から、武装集団の捜索という名目のもとに、多くの村が焼かれていきました。古田さんは職場で、村々から立ちのぼる煙を眺める日々だったといいます。
ある日、国連WFPの現地事務所に勤めるロヒンギャの男性から、古田さんの携帯電話に何度も泣きながら連絡が入りました。「自分の村が焼かれた、隣村に逃げたらそこも焼かれた、逃げても逃げても村が焼かれて、どうしようもない」そしてとうとう「もうバングラデシュへ行くしかない」と話し、雨の降りしきる深夜、船で国境を越えました。
逃げた人の中には、国連WFPの支援食料の袋に全財産まで入れて運んでいた人もいたといいます。「手持ちの袋で一番丈夫だったのでしょう。しかし食料を入れる袋がそんな風に使われる事態に、悲しくなりました」
「いとこが火の中に...」恐怖抱え続ける子どもたち
昨年8月以降、ミャンマー国内にいたロヒンギャ族のうち約70万人が国外に逃れ、国内に残っているのは2割程度とみられます。
食料支援をしていた村の多くは、焼き討ちによって更地になり、国際NGOが運営していたクリニックも焼かれてしまいました。残った人々は、焼け残った村に身を寄せるようにして暮らしています。
古田さんらがそんな村のひとつを訪れた時の事です。30人ほどが暮らしていましたが、村人の1人が小さな家を指して言いました。「あそこに女性が数週間、閉じこもっている。夫と子どもを殺され、自分も流産し、絶望のあまり食事もせず死を待っている」
ある女の子は全裸で見つかり、話すことさえできない状態で、名前も、何が起きたのかも分かりませんでした。男の子たちは暗い表情で「いとこが燃え盛る家の中に投げ込まれるのを見た。怖い」などと口々に訴えました。
古田さんはこうした村々で、食料配給のかたわら事情を聞きました。「住民の表情が明るくなった、食料事情が良くなってきた、など変化を読み取れるのが、定期的に実施する食料支援の最大の強みです。また住民が『WFPが支援活動をするのは安全になってきた証だ』と安心していると聞き、なおさら『行かなければ』という使命感が強まりました」
続く移動制限、農作業も通院もできず
仏教徒が多数を占めるミャンマーで、イスラム教徒であるロヒンギャの人々は昔から激しい差別にさらされてきました。それが暴動後、さらに深刻化しています。
自宅から近くの村への移動も制限され、川へ魚を取りにいく、少し離れた畑に農作業に行く、病院へ通うといったことすら難しくなっています。古田さんは言います。
「何より悲しいのは、ロヒンギャ自身がこうした差別を当たり前のことだと諦めきっていることです。以前からロヒンギャの人々が警察署の前を通る時、自転車を降りて歩かないと不敬だとして殴られたり、最悪の場合、逮捕されたりしていました。銀行でお金をおろしたら、それなりに高額だったのに全部小銭でよこされた人もいます。でもそれらは昔から日常的に起きている。生活が差別とともにあるからです」
ロヒンギャの人は公務員や警察官、医者、弁護士などの職に就くことができません。仕事は店の経営、リキシャの運転手、日雇い労働者、農業などに限られます。
共同作業通じ、ロヒンギャと仏教徒を橋渡し
ただ、仏教徒のラカイン族の人々の中で「ロヒンギャがいなくなることを心から望む人は、さほど多くはないという印象を受けました」と古田さんは言います。
ラカイン州で、小作民として仏教徒の農地を耕作し、川で漁をし、山から薪を取っていたのは主にロヒンギャの人々でした。器用な彼らは家や家具の修理も一手に担うなど、既にいなくては困る存在になっていたのです。ロヒンギャがいなくなったことで、買い手が減って需給バランスが崩れ、牛肉の市場価格も下落したといいます。
国連WFPは支援を通じて、ロヒンギャ族とラカイン族に協働を促しています。乾期の農作業に備えて貯水池を建設した時は、計画から工事まで一貫して双方に参画してもらい、対価として食料を買うための現金を配布しました。「両者の主張が対立するたびに、国連WFPの職員が仲裁するなどして、なんとか完成しました」と古田さん。
「ものの売買や農業といった生活の基盤となる営みは、宗教や人種の違いを超える。ここにこそロヒンギャとラカイン、双方の未来はあると思います。今までもこれからも、国連WFPはその橋渡し役を担います」古田さんはそう話しました。
「外国人は安心材料」現地に留まることを決意
昨年8月に暴力が激化した時、多くの人道支援団体が、自主判断で現地から一時退避しました。「国連で働く外国人で残ったのは私と、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員数人だけ。2カ月間、職場に引きこもって過ごしました」
当時、地元には国連機関の外国人職員を快く思わない人もいたので、外に出ることは控えたという古田さん。それでも現地にとどまり続けたのは「外国人職員の存在が、ロヒンギャの人にとって最大の安心だから」といいます。
「ロヒンギャの現地職員がトラブルに遭遇した時、外国人の私が働きかければ解決できる可能性があると考えていました。だからできるだけ、現地に留まろうと思ったのです」
一時退避した人道支援組織は、いまだに現地に戻ることができていません。しかし国連WFPは昨年11月、ミャンマー政府の承認によりいち早く支援活動を再開。貧困と差別に苦しむロヒンギャの人々へ、命をつなぐ食料を届け続けています。
国連WFPのウェブサイトでは、ロヒンギャへの寄付を受け付けている。
古田到(ふるた・いたる)
前国連WFPマウンドウ事務所長。子どもの頃から海外で働きたいと思い、漠然と国連勤務を志す。大学時代は約30カ国を旅し「思わぬハプニングが起こる」(古田さん)、途上国の楽しさを知る。
民間企業に2年勤務した後、青年海外協力隊に参加しネパールで村おこしに携わる。その後国連ボランティア、外務省が派遣するJPOを経て国連WFPに入職。セネガル、カメルーン、南スーダンなどに赴任し、2016年3月からマウンドウ事務所長。2018年8月から、内戦によって人口の6割が飢餓に苦しむイエメンに着任。