福島「老舗魚店」に降りかかる「トリチウム水」海洋放出の難題(上)--寺島英弥

新たな風評を生みかねない政府の海洋放出案に、「復興」の行方を懸念する。

 福島県いわき市の浜々は豊かな海の幸で知られる。その1つ四倉町に、1950年創業の老舗「大川魚店」がある。

 35キロ北にある東京電力福島第1原子力発電所の事故以来、汚染水による風評にあらがい、「いわきの地魚文化を復活させたい」と、魚介を商品棚に並べ続けてきた。贈答品の注文が途絶えた首都圏にも自ら出向き、地魚の加工商品を物産展などで売り込んでいる。「東京では風評を感じなくなった。7年半でやっとここまできた」と、手応えをつかんだという。

 しかし、新たな難題が地元に垂れ込めている。原発構内のトリチウム水約92万トンの処分問題だ。新たな風評を生みかねない政府の海洋放出案に、「復興」の行方を懸念する。

5年前とすっかり変わっていた風景

 今年9月8日に訪ねた四倉町の浜は、初めて取材で訪れた5年前の風景とすっかり変わっていた。津波で流れてきた漁船が積み上げられ、復旧工事が行われていた四倉漁港は今、高さ7メートルの防潮堤の向こうにある。町の側からはどこに港があるのかも分からない。

 町の商店街にかまえる大川魚店の主人、大川勝正さん(44)は、書き綴っているブログに昨年10月、地元の複雑な思いをこう記した。<「四倉港のコンクリートの壁が出来てきました。これで、港と、町が「分断」されました。左側が町、右側が海(港)です。昨日、台風が来ましたが、海の荒れ具合がわからず、ちょっと不安に思いました。色々思うことがありますが、実際に壁を見ると「分断」されたなぁ、と感じます。もう出来てしまったので、この壁とうまく付き合っていくしかありません>

 漁港と隣り合う四倉海水浴場の手前にも高さ8メートルの「防災緑地」が延々と築かれた。記録破りの猛暑だった今年の夏は、市内の薄磯、勿来(なこそ)の海水浴場とともに計10万人近い客で連日にぎわい、首都圏からも家族連れや若者らが訪れた。

 東日本大震災で宮城県以北の海岸が地盤沈下し、砂浜が半ば消えた地域も多いが、四倉町では逆に砂浜が広がり、監視塔を海寄りに建て直したそうだ。震災、原発事故から3年目の2013年7月に海水浴場が再開した。

 今年の海開きでは市内の県立湯本高校、県立平商業高校の女子生徒が華やかにフラダンスを披露し、多くの人が当たり前の夏の到来を実感したという。「復興というのは、自分たちのライフスタイルが戻ってくること」と、余暇に四倉浜でサーフィンを楽しむという大川さんは話す。

震災後4カ月で店を再開

「山傘に小」(やまこ)の屋号が記されたえんじ色ののれん。古い商店街にある大川魚店は、新鮮な地魚と「うに貝焼き」や干物などの加工品で知られる老舗だ。

 3代目の大川さんは大学を卒業後、「流通の最先端の現場で学びたい」と大手スーパーに就職し、サラリーマン生活の後、2001年に帰郷した。「家業を継いですぐ、東京の百貨店から全国の名産品を集めた催しの企画に参加しないか、と県観光物産協会を通じて誘われ、挑戦してきた」。そして、いわき市や四倉町の出身者やゆかりの人とのつながりやネットワークを生かして首都圏に得意客を開拓。もともと加工品作りから発展した店だけに、「ないものは、仕入れるのでなく、自前で作る」家風を受け継ぎ、地魚を生かす商品開発にも取り組んだ。原発事故まで、店は順調だったという。

 震災が起きた2011年3月11日、津波は四倉町にも押し寄せ、大川さんの店は商品棚にまで浸水した。続く原発事故を受け、家族は横浜に避難。店を再開できたのは同年7月で、店の加工場を復旧させて商品を作った。

 とは言え、当時は地元の放射線量が0.3(マイクロシーベルト/時)ほどあったため、消費者の信頼を得るために茨城県の分析・測定会社などで検査を重ねた。しかも、原発事故後間もない4月に東京電力が原発の約1万2500トンの汚染水を海に放出し、福島県浜通りの漁は自粛されていた。そのため、それに代わる材料を懸命に仕入れながら商品を復活させた。 

風評払拭を振り出しに戻した「汚染水流出」

 大川さんを初めて訪ねたのは2013年8月。原発の高濃度汚染水が海に流出した疑いがあるという原子力規制委員会の指摘を否定していた東電が、一転して認めた直後だった。

 漁自粛からの再起を目指し、同じ浜通りの相馬双葉漁業協同組合が前年6月、先行して試験操業(安全が確認された魚種だけを限定的に扱う)を始めてから、まだ1年余り。軌道に乗りかけていた矢先に問題が発覚し、出荷した魚が風評で値崩れ。追随する予定だったいわき市漁業協同組合も延期を強いられた。その夏、3年ぶりの海開きをしたばかりだった四倉海水浴場も風評で閑散となり、海から遠い同県内陸部の桃の売り上げも前年の7割減に。「風評払拭が振り出しに戻った」と言われたほどの苦境だった。

 大川さんは店のウェブサイトに「自主検査の取り組み」を知らせるページを設け、すべての商品の情報を公開した。「材料の原産地も『外国産』という抽象的な表示でなく、地図を入れた」と当時、彼は語った。個々の商品にも、ただの説明文だけでなく、その商品が生まれた背景にある地元の歴史や暮らし、なぜ復活させて世に出したいのかといった記述も添えた。「いわきの浜の地魚の文化を、原発事故で途絶えさせたくない」という強い思いを込めたそうだ。

 その年の10月、いわき沖の試験操業で新鮮な魚が揚がるようになっても、しばらくは店で買う客がいなかったという。

 2014年に筆者が再訪した折の大川さんは、大きな活字と写真を使ったPOPを商品棚に取り付け、「福島の地魚」を客にアピールしていた。それも、試験操業を分かりやすく紹介する図解付きで。

<「検査しているからと言って、本当に大丈夫なのか?」と遠目に見られるよりも、毎週仕入れる地魚専用の売り場をつくり、店から客に発信しようと考えた。いつもそこにあって目に触れ、手に取って見定められ、だんだんと日常の暮らしの風景に戻っていくのが一番自然。前に進むしかないし、やるのだったら客にきちんと伝えなくてはと思った>

 当時、大川さんはそう話し、懸命の努力を重ねていった。

地魚の顔ぶれがほぼ揃った

 大川さんのブログは今年も、新鮮な地魚の入荷を消費者にリアルタイムで紹介している。

<昨日、うに貝焼を仕入れたのですが、5/1はいわき産あわびも解禁。早速、地物いわき産活あわびを仕入れました。先ほど、お客様が買われたあわびを刺身にしたのですが、肉厚で大変おいしそうでした>

<相馬産 つぶ貝......お店で釜ゆでしました!そのままお召し上がりいただけます。いわき産 穴子開き......そのまま焼いて白焼きに!わさび醤油でどうぞ>

<6/1 震災から7年ぶり、いわき産スズキが水揚げされました!いわきの主要な魚種がやっと揃いました。本日の水揚げは2尾のみ。その内、1尾を仕入れることができました! いわき産のスズキは癖がなく非常に美味しい白身です。とりあえず1尾だけですが取り扱えて感無量です>

「解禁」とは、出荷制限がかかり試験操業の対象外だった魚介が、福島県のモニタリング調査で継続、安定して自主基準の50ベクレル/キロ(食品衛生法の基準より2倍厳しい) を下回った場合、監督機関の県地域漁業復興協議会、県漁協組合長会議などが検討の上、解除することをいう。

 試験操業は、相馬双葉漁協が2012年6月にミズダコ、ヤナギダコ、シライトマキバイ(ツブ貝)の3種を水揚げ、出荷したのが最初。ブログにあるスズキなど3種が今年6月に新たに加わり、これまでに解禁された魚介は約100種に広がった。まだ出荷先が限られ、水揚げの総量も往時の1割強だが、「震災、原発事故前に浜通りで水揚げされていた地魚の顔ぶれがほぼ復活した」と、大川さんは喜ぶ。

カツオの仕入れは震災前の10分の1

 今年9月8日に訪ねた大川魚店では、広い売り場いっぱいに、ブログの写真に負けないにぎやかさで魚が並んでいた。

 前々日に起きた北海道胆振東部地震の直後だったので、「がんばろう!北海道」の文字が添えられたサンマ、宮城県産のカツオやイナダ、青森県産の天然ホヤ、茨城産のノドグロや、試験操業の地魚として相馬産のマガレイ(赤次まこがれい)、いわき産のホッキ貝があった。浜通り名物のホッキ貝は手のひら大に育ち、塩水の水槽に山積みになっていた。天ぷら、「ほっき飯」は最高にうまい。相馬出身の筆者も土産に買うと、大川さんが「身を食べるには半分の大きさがちょうどいいよ」と、その場で包丁を入れてくれた。

「もともと港直送の地魚で勝負してきた店なので、試験操業で揚がる魚種が少なかった時は、品揃えに店の個性を出しにくくて困った」と大川さん。

 現在、いわき市内では小名浜、勿来、四倉町近郊の沼ノ内の3漁港に水揚げされ、出漁日も異なるので、週に4回は競りがあるという。

 魚種が増え、お客たちは地魚を心待ちにしているが、「水揚げ量が少ないので、懸命に仕入れても、その日で売って終わりになる」。ブログの「(スズキの)本日の水揚げは2尾のみ。その内、1尾を仕入れることができました!」のくだりも、そのあたりの苦心を物語っている。

「震災前、カツオなどは1度に何百本も仕入れていたが、今は10分の1くらい。それでも同業者の取り合いになる。お互い様なので、高値で買い占めるやり方には暗黙の遠慮がある」と大川さん。ただ、そんな地元の機微が大手スーパーには通じないのが悩みだという。

自ら固めてしまっている「内なる風評」

 原発事故後の苦境にあっても、大川さんは2016年3月、同市南部の小名浜漁港に近い泉地区に新しく「泉店」を出した。「売り上げを震災前に戻すのが本店だけでは難しく、新規開拓しようとの決断だった。風評の影響もあるが、かつては得意客の3割以上を占めた北の富岡町など双葉郡の商圏を、原発事故後に失ったのが大きい」

 双葉郡の大半が避難区域に指定されたためだが、たまたまこの泉地区は、いわき市に避難した双葉郡の住民の多くが新たな住宅を求め、公示地価の上昇率が全国で上位に入ったこともあるエリアだった。お客の入りはまだまだというが、「地元に根差す店になるには時間が掛かる。何より地魚をもっともっと食べてもらいたいんだ」

 2018年6月には、中通りの郡山市のデパートに「大川魚店うすい郡山店」を開いた。地下食品売り場の広いテナントで、「鮮魚業者が撤退したので、代わりにどうか」と誘われた。「出足はよかったが、今は苦戦中」と笑う。浜通りと中通りの消費者の嗜好が違うという。「浜の人が『骨ばかり多い』と食べないニシンが、中通りの人は大好きだ。浜の人は魚の切り身が大きいほど喜ぶが、中通りの人は驚いて引いてしまう。魚があくまでサイドディッシュなんです。食文化の違う土地で店の個性をどう出していくか」と、模索を続けている。

 大川さんがいわき市のみならず、地縁の薄かった中通りにも出店をした理由には、原発事故の風評を巡る複雑な事情がある。

 3代目店主になって以来、力を入れて開拓してきた贈答品などの通信販売の売り上げが、「データを集計したら、震災・原発事故前の6割くらいにしかまだ回復していない」。被災地には震災前の8~9割まで回復したり、あるいはそれを上回ったりしている地域が出ているが、「福島の客を見るとまだ半分しか戻っていない」のが現実。「本人は地元の魚を好きで食べるが、遠方の縁者に贈答するには抵抗がある、という人が多い」と大川さんは分析する。東北人らしい、贈られる相手の反応を考えてしまう余りの気遣いが、かえって自らの「内なる風評」を固めているように思えるという。(つづく)

寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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(2018年10月5日
より転載)

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