「日本では、どうしても記憶しなければならないことが4つはあると思います。終戦記念日、広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日です」
1981年8月、こう語ったのは当時皇太子だった天皇陛下だった。
天皇、皇后両陛下には、沖縄に対する特別な思い入れがある。
太平洋戦争において、沖縄での組織的戦闘が終わったとされる1945年6月23日。お二人は、この日を終戦記念日、広島・長崎の原爆忌とともに「忘れてはならない日」として、毎年黙祷を捧げてきた。
きょう、沖縄は73回目の、そして平成最後の「慰霊の日」を迎えた。2019年4月末に退位される両陛下が、長年向き合った沖縄への思いをひもとく。
■初訪問時には火炎瓶...沖縄と向き合う覚悟
天皇陛下が沖縄の地を初めて訪れたのは、皇太子時代の1975年7月だった。皇后さまとともに「海洋博」の開会式に出席するためだったが、沖縄本島南部の戦跡での慰霊を望んだという。
沖縄には、皇室に対する複雑な県民感情があるとされる。かつて独立国「琉球王国」だった沖縄。明治政府は「琉球処分」で琉球藩を廃し沖縄県とした。一方で「皇民化教育」を推し進めた。住民が巻き込まれた沖縄戦では日米両国で約20万人が死亡、県民の4人に1人が犠牲になった。
こうした背景から皇太子ご夫妻の身を案じる声もあったが、「石をぶつけられても...」と固い決意だったという。お二人は、戦後初めて沖縄の地を踏んだ皇族となった。
「ひめゆりの塔」を訪れた際、事件は起こった。地下壕に潜んでいた過激派が、火炎瓶を投げつけた。
火炎瓶は献花台に直撃して炎上したが、お二人に大きな怪我はなかった。その後も予定を変更せず、慰霊は続けられた。沖縄に心を寄せ続けていくという意志に、変わりはなかった。
火炎瓶を投げつけられた日の夜、天皇陛下は那覇市の宿舎で、沖縄県民に寄せる特別談話を発表した。
過去に多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、先の大戦で、我が国では唯一の、住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い、今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。
私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います。
払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人びとが長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。
(1975年7月17日夜、ハーバー・ビュー・ホテルで侍従を通じ発表)
異例の特別談話だったが、悲しみの歴史から目をそらさず、向き合う覚悟を示したものだったのかもしれない。
■「沖縄の記述、教科書に少ない」 と、踏み込んだ発言も
皇太子時代から長きにわたり、天皇・皇后両陛下は沖縄に特別な思いを寄せてきた。ときには、踏み込んだ発言もあった。
沖縄を初訪問した1975年、天皇陛下は本土の学校の教科書に沖縄の記述が少ないことを指摘した。
沖縄が教科書にどの程度出ているのか、この春調べてもらったが、非常に少ない。(沖縄の歌謡集の)『おもろそうし』など文学として取り入れたら、と文相に話したこともあります。
(1975年12月、記者会見)
1981年には「沖縄慰霊の日」の式典がテレビで生中継されないことに違和感を唱えた。
1989年に即位してからも、沖縄への思いは変わらなかった。即位にあたっての会見では、沖縄訪問の希望を明かした。
機会があれば、是非、沖縄を訪問し、沖縄の人々の心を、気持ちを、戦争で亡くなった人々、また,多くの苦しんだ人々のことを考え、沖縄を訪問したいと思っております。
戦後、全国を精力的に巡幸した父・昭和天皇が唯一訪れることができなかった沖縄。終戦直後、昭和天皇が米軍による沖縄占領の継続を望んだという「沖縄メッセージ」も、県民感情に影を落としていた。
昭和史関連の著作で知られる作家・半藤一利さんによると、昭和天皇は最晩年に病床で「沖縄だけは行かなきゃいけなかった」と述べたという。
父が果たせなかった思いを遂げるかのように、1993年4月には歴代天皇で初となる沖縄訪問を実現した。
時には、アメリカ相手の踏み込んだ発言もあった。1996年4月、来日した当時のクリントン大統領との会見で、自ら口火を切って沖縄に言及。「沖縄の人たちの気持ちに配慮しつつ、両国政府の間で十分協力し、解決に向かっていくことを願っています」などと述べた。
■政府主催の「主権回復の日」で歴史的事実を指摘 「沖縄はまだ...」
戦前、戦中のみならず、「戦後の沖縄」についても、天皇陛下が思いを寄せていることを伺わせるエピソードがある。
2013年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効から61年を受けて、政府(第二次安倍内閣)が「主権回復の日」を制定し、式典を催した時のことだ。
式典への出席を求める政府側の事前説明に、天皇陛下は「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と、真っ先に歴史的事実を指摘したという。
沖縄の本土復帰は1972年。サンフランシスコ講和条約の発効当時は、未だ米国の占領下にあった。沖縄では、本土から切り離された日として、4月28日は「屈辱の日」とされる。
天皇陛下は過去に複数回、沖縄の本土復帰当時を回顧し、こう述べている。
今年は、沖縄が日本に復帰して30周年に当たります。30年前の5月15日、深夜、米国旗が降ろされ、日の丸の旗が揚がっていく光景は、私の心に深く残っております。
先の大戦で大きな犠牲を払い、長い時を経て、念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています。そして沖縄の人々が幸せになっていくことを念じています。
結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と昭和47年の沖縄県の復帰が挙げられます。
両地域とも先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。
■「戦ないらぬ世よ 肝に願て」 琉歌に込められた、平和への思い
退位が決まった両陛下は、残り少ない在位中の訪問先に沖縄を選んだ。「もう一度、訪れておきたい」という、強いお気持ちから実現した沖縄訪問だった(2018年3月27~29日)。
18万人以上の遺骨が眠る国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)。両陛下は白菊の花を手向け、深々と拝礼した。墓苑建立後の1983年に訪れて以降、沖縄訪問時には欠かさず訪れた、思い入れのある場所だ。
天皇陛下は、お子さま方が幼少時から平和を考える機会も提供した。「ひめゆり学徒隊」に関する書籍を読ませたり、毎年夏には沖縄から本土を訪れた小・中学生の「豆記者」を軽井沢の静養先に招いて交流したりした。
戦争を経験した世代の天皇、皇后として、両陛下は各地を訪れ、戦争経験者や遺族の声に耳を傾け、苦難の歴史と向き合ってきた。
天皇陛下は1975年の沖縄初訪問時に立ち寄った慰霊碑「魂魄之塔(こんぱくのとう)」を題に、平和を願う「琉歌」を詠んでいる。
花よおしやげゆん 人知らぬ魂
(花を捧げるのです。誰にも知られず、戦場で亡くなった無名の人々の魂に)
戦ないらぬ世よ 肝に願て
(戦争のない世を、心に願いながら)
戦後73年。戦争を経験した世代は、表舞台から去りつつある。
来年5月に新天皇として即位される皇太子さまは、戦後70年を迎えた2015年にこう述べている。
私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています。
天皇陛下は戦後、沖縄訪問を重ね、数々の言葉を残した。
昭和から平成、そして次の時代へ。戦争経験の風化と、どう向き合うか。私たちは、歴史に試されているのかもしれない。