私はベルリンの難民キャンプで食糧配膳係をしています。前回に引き続き、その経験を通して感じた事をお伝え致します。

私はベルリンの難民キャンプで食糧配膳係をしています。前回に引き続き、その経験を通して感じた事をお伝え致します。

11/23(昼)

昼ご飯の時間帯にキャンプに行って来ました。どんよりとした曇り空のもと、大きなドームの隣・屋外でサッカーをする小さな子どもたちの姿がありました。私は、冬のヨーロッパの短い昼によって憂鬱な気分に誘い込まれてしまう事があります。そんな事は彼らにとって当たり前なのか、体に比して少し大きめなボールの行方に夢中になっている様子でした。

昼食のメニューは薄切りのパン・鶏肉ハンバーグ・一口サイズのチキンナゲット・ゆでたまご・赤ラディッシュとキュウリのカットでした。数回の配膳係を経て記憶に残ったのは、虹色のニット帽を被っている女性です。キャンプ内でお化粧に気を遣う人は殆どいない中、くっきりとしたアイラインと色彩鮮やかな洋服が印象的です。その華やかな身なりとは裏腹に、彼女は終始悲壮な表情を浮かべ、俯いて食器を運んで行きます。彼女の気鬱と形姿のアンバランスさに、私は掛ける言葉を見失っていました。

配膳後に少しコモンスペースを歩いてみます。今回も大人に話を伺おうと思いました。英語が話せる人を探して右往左往。すぐに整髪料でピッシャリと髪を立たせ、職人風の短髪で爽やかな男性が電話で誰かを呼んでくれる事になりました。5分前にあった食堂の空気のうねり・どよめきを忘れさせる、閑散とした机で待っていると、先ほど俯いていた女性がゆっくりと5歳位の少年の手を引き、私の目の前に現れました。こちらの事情を説明して席につくと、ニッコリと暖かな笑顔を見せられて不意を突かれてしまいました。今となっては、パワーが有り余る少年を連れた肝っ玉お母さんに見えます。2人で話を始めようとするも、少年はどうもなにやら駄々をこねる様子。お忙しいようならまた話しましょう、と喉元まで出そうになった時、

「この子、映画館に行きたがっているの。あなたは行かせたほうがいいと思うかしら。支援のおかげで、無料で映画を観ることが出来るんだけど、保護者が署名をしないといけないからちょっと5分だけ待ってもらえるかしら。」

とのこと。3分もしないうちに彼女は戻ってきてくれました。シリア・ダマスカスからやってきた彼女の話を伺いました。彼女は夫と子ども2人を含めた4人家族で生活をしています。

── シリアからはどのようにして来られましたか。

トルコ・ギリシャ・マケドニア・ハンガリー・オーストリア・を経てベルリンに辿り着きました。トルコではタフな山超えを経験し、 私達のグループに居た母子(母1人・子2人)を見捨てざるを得ませんでした。お母さんは亡くなったので、きっと子どもたちも無事ではなかったでしょう。トルコからギリシャに渡る際は、ボートが転覆しました。私の赤ちゃんは真っ先に漁師さんに救助され、私はギリシャ政府に救助されました。難民の多くはこういう経験をするので、シリアではこの旅の事を "Dying Trip" と呼んでいます。1ヶ月ほどの旅でした。

── それは本当に大変だったと思います。やはり密輸業者へは多額のお金を払ったのですか。

はい。家族一人あたり$1,300を払いました。彼らはボートを私達に渡すと、一目散に去って行きました。

── では、ボートは誰が操縦したのでしょう。

難民の内の一人です。上陸場所への方角は知らされましたが、操縦する人に一定の資質が無いと無事にギリシャへは辿りつけません。私達の船には30人乗りのボートに57人が搭乗したので、転覆したのはオーバーウェイトが原因でした。

── 渡欧後の移動について。

セルビアでは電車につめ込まれ、車両内の状況は最悪でした。ハンガリーは移民への案内が乏しく、最短距離を歩けない代わりに、泥水の上を歩かされたこともありました。水も受け取ることが出来ませんでした。オーストリア・ドイツでは総じてとても暖かく歓迎してくれました。

── キャンプでの生活の問題点があれば教えて下さい。

このバルーン (テントの構造上、彼らの間でこう呼ばれます) は衛生状態が悪く、子どもたちの間ではシラミが蔓延しています。私の息子は喘息持ちでアレルギー症状 (不自由な呼吸) で苦しんでいます。性別によって部屋を分けられるので、家族も別れて寝なければなりません。到着から27日間が経ちましたが、プライバシーなど無く、安らぎを感じたことがないですね。個人の住居申請・他のキャンプへの移動申請のためには、社会課で平均して11時間ほど並ばないといけないし。今は申請過多で、先日は18時間並んでも申請用紙を受け取ることが出来ませんでした。2ヶ月間、私はお祈りをしていません。礼拝室は清潔に保たれて、独りになる事が出来ない限り、お祈りは出来ないでしょう。

── 内戦が収束すれば故郷に戻りますか。

今は子どもに教育を受けさせ、ベルリンで個人の住居を手に入れて新しく生活を始めることが優先事項です。私もドイツ語は(教室で) 座って学びたいし、夫と一緒に仕事を見つけないと。シリアに戻りたいかどうかはまだ分かりません。子どもがドイツで長期にわたって教育を受けるなら、残るでしょう。Uバーン・Sバーンは素晴らしいし、自然も多く、この街は大好きです。大統領については何も思い出したくない。私たちは彼の名前をニックネームで呼んでいるの。

── ヨーロッパまでたどり着けるシリア難民は非常に限られている (6%) というデータ(UNHCRより)を目にしました。欧州まで移動できる難民は予算的観点から限られているという意見もあります。

そうですね。実際、私はすごく裕福でした。装飾品は今でも沢山身に付けるのが好きです。シリアに居た時は腕一帯に金の腕輪を嵌めていました。家も4つ所有していました。でも、紛争で私はそれらすべてを喪いました。一方で家族を喪った人も居るし、悲しみは比べられない。ベルリンに来たのは、息子が1ヶ月先に来ていたからです。

このインタビューの後、彼女とは会うたびに近況を報告しあい、キャンプの中では最も親しい仲になりました。英語が喋れる彼女は、赤ちゃんを抱えるお母さんの通訳になって粉ミルクのためのお湯を職員の人に頼むなど、活発に動き回っている様子でした。彼女はよく笑う人で、あらゆる人に頼りにされている事を知りました。

11/26 (夜)

幸いにも配膳は人員過多気味になったので、本日はじっくり時間を取ってお話を聞くことが出来ました。今夜のメニューはトマトソースのパスタ・洋梨・パンでした。どうしてもパスタの頻度が高く、麺の配膳を拒む人が目立ちます。今回はギターケースを背負い、16歳のA君(ダマスカス出身)と流行りのヘアカット(?)でスリムな風貌の19歳のB君(アレッポ出身)が気軽な雰囲気で質問に応じてくれました。紛争で学校教育を中断せざるを得なかった彼らの想いとは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 ──  ベルリンまで辿り着いた経緯を簡単に教えて貰ってもいいかな。

A. バスでの移動と徒歩を交えて7日間程でベルリンに到着したよ。

B. Aとほぼ同じだね。でも僕の友達は1ヶ月間イスタンブールに留まって働き、充分な資金を蓄えてから欧州を目指していたよ。

── キャンプ移住に至るまでのシリアでの生活の変化はどうだったの。

A. ダマスカスでは4年程前から状況が悪化した。ある日、僕が住んでいた地域は自由軍 (反アサド派) に包囲され、地域外に出るときは逐一彼らにチェックされるようになった。多くの若者が反乱軍に徴兵されていった。最初は皆怖気づいたけど、徐々にその状況に何も感じなくなっていくんだ。突然、周囲20m〜100mの範囲に爆弾が落ちるような状況にね。でも僕はついに爆撃の恐怖に耐え切れなくなった。学生の僕と兄は、両親より一足早くシリアを去れる事になった。

B. アレッポでは、観光名所の城(アレッポ城・文化遺産) が戦場になっているのが悲しいよ。

── 政治的対立・宗教対立が顕著だったとすれば、それはどのようなものだったのかな。

A. 僕の住んでいた地域ではスンニ派とアラウィー派の争いが激しかった。バックにアサド大統領が居るので、少数派ながら (軍・政治において) アラウィー派が主要な権力を握っているね。彼は毎週金曜日にお祈りをしていると伝えられている。僕はどっちのサイドにもつかないけれど、他派に抑圧を加えているのはどちらかというとスンニ派の方だと思うんだ。現アサド大統領 (バッシャール・アサド) はその父 (故・ハッフィーズ・アサド前大統領) から政権を引き継いだ後、通信を筆頭に積極的にインフラ整備を進めた。父の社会主義的な政策とは正反対のイメージもあってか、政権支持率は本当に高いんだよ。彼が去ったらかえって国内は不安定になると思う。

B. そうだね。僕は彼と少し違う考えを持っているけど、心の中に留めておくよ。

── ギターは今でも弾くのかな。音楽は好きなんだね。

A. うん。でも弦が切れてしまって。 将来は will.i.am みたいなラッパーになりたい。

── ドイツで学校教育を再開させた後も長期間滞在するつもりかな。

A.  そうだね。大学に行って歴史・地理を学びたい。けれど、紛争が終わったらシリアへは帰りたいよ。ほんの5年前まで美しい国で、ありふれた普通の生活を送っていたんだ。信じられないかもしれないけど。昔はむしろ、シリアがイラクやレバノン、パレスチナから多くの難民を受け入れていたんだよ。

 ── ココでの生活についてはどう思うかな。

A.朝ごはんは充実しているよ。1番悩ましいのはシラミかな。シャワー室は綺麗だけど、狭くて着替えるスペースがないのが問題。1月あたり€71の補助金は、少し電車に乗って少し外出しただけで消えてしまうから、自転車で自由にベルリンを動き回れるといいな。もっとも、先月の兄弟2人分の給付は兄の携帯電話を購入するために使ったけどね。今はデンマークに避難予定の彼女に会いたい。父親同士が親しいんだ。

B. 携帯電話といえば、キャンプ内に無料インターネットが通っていないから、補助金のうち月に€20近くを通信費に費やさなければならない。一斉に就寝を促されるところも気に入らないね。寝つけない時は外に出て友人と話すんだ。

消灯時間の22時を迎えると巨大なテント内の空気も一斉に就寝モードに切り替わります。照明が消えるやいなや、彼らの年代が中心となってサイレンのような音量のブーイングを起こします。A君・B君はそんな事は気にも留めずに絶えず話し続けてくれました。A君は彼女の話から転じて、ムスリムの結婚事情についても話してくれました。男性が女性に結婚を申し込む際、真っ先に相手のお母さんに伝えに行くのがスタンダードだとか。当然ながら、16歳の彼にとっては遠い先の話になるそうです。B君は最後の質問の前に、手に持っていたコカ・コーラを勧めてくれました。前月の10月8日にシリアと日本のサッカー代表チームが一戦を交えていた(0-3で日本代表が勝利)事もあり、サッカーの話にもなりました。日本について様々な質問をしてくれた彼らですが、共有できる話題を探り当てた喜びからか、和やかな雰囲気になりました。そんな彼らと私も時間を忘れ、合計40分以上にわたって話を続けました。

後日、キャンプ内生活指導担当の女性に現在ムスリムの宗教背景を持つ難民に提供される食事が全てハラールフード (イスラム法において合法なもの, 日本ハラール協会HPより) で賄われていない事を伺いました。彼女はハラール認証の有無は非常に哲学的な問題でもあり、膨大な食糧を厳密な方法で選り分ける時間的余裕もない、とも仰っていました。彼らには承諾を得た上でハラームフード(イスラム法において非合法なもの, 日本ハラール協会HP より)も献立品に並んでいます。配膳時に加熱済の料理を避け、果物とパンだけを慎重に選び取る人が珍しくないのも確かです。同日に、再びA君と話す機会がありました。そこで、彼にハラームフードを口にする事について、どう思っているのかを聞くことが出来ました。

「はっきり言って僕は気にしていない。宗派によっても厳しさが異なるし、他の人がどう考えているのか分からない。とにかく、今は美味しいものを食べたいよ。特に晩ごはんにね。」

深夜前に出口の二重ドアを出てキャンプの外を歩くと、煙草をふかして談笑している男性達の寄り集まりに出会います。そんな時、夕食時の食堂を見渡すと女性が明らかに少なく、男性のみで食事を囲んでいるグループが目立つことを思い出しました。彼らの1人、シリア西側・ヨルダン国境近くのダラア出身の男性と話す機会がありました。彼はベルリンで住居を確保した後に、ヨルダンの難民キャンプに滞在中の家族を呼び寄せるつもりだそうです。見せてくれたのはギリシャ渡航時の彼の写真。救命胴衣だけでは不安だったので、首周りと下半身に浮き輪をしていたようです。周りの男性達も出身地はそれぞれ違いましたが、家族の中で一足先に長い旅を終えた同士でした。例年に比べてまだ暖かいの今年の初冬ですが、夜になると気温はグッと下がります。賑やかにおどけ合う彼らの中に、1人で家族を待つお父さんが少なからず居る事が忘れられません。

キャンプ近くのベルリン中央駅, 夜は構内も厳しく冷え込む

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