フィリピンのウェブニュースサイト「ラップラー」の記者が2月20日、大統領府での記者会見への出席を拒否された。同サイトの運営会社が同国憲法の定める外資規制に違反しているとして証券取引委員会から1月に認可を取り消されたことを受けた措置と政権側は説明しているが、取り消し処分の停止を求める裁判が続いており、これまでは取材が許されていた。一方、大統領側近が軍艦購入に介入したとの疑惑を報じたラップラーに対し、この側近が前日19日の上院公聴会で「フェイクニュース」と批判、大統領が取材拒否を直接指示したとされている。
ラップラーの認可取り消し問題について、地元の邦字紙マニラ新聞の石山永一郎編集長がコラム「フィリピンを視る」(2018年2月5日付)で「比における報道の自由をめぐる最大の問題は、少なくともラップラーではない」として、各地で繰り返されている「記者殺害こそが最優先課題だ」と論じていた(注)。記者殺害は確かにフィリピンの社会に巣くう最悪の病巣のひとつである。それでも、ラップラーを含む体制に批判的なメディアに対して政権が露骨な圧力を加え、社会の分断を深めている状況こそ、報道の自由にかかわる今日的かつ最大の問題ではないかと私は考える。
◆記者殺害王国
米国の植民地だった影響もあり、他のアジア諸国に比べて、フィリピンには「報道、表現の自由」を尊重する気風や建前が根付いている。国民もそれを誇りとしてきたといえる。石山氏が言うように、外国人にとっては取材しやすい環境にある。そうした社会でありながら、国際新聞編集者協会(IPI)が発表する報告書で、殺害された記者の数が毎年世界の上位にランクされる。シリア、イラクといった紛争国ではない国では突出した数字であり、過去30年で100人を超す犠牲者が出ているという異常な状況だ。
とはいえ、これは1946年の主権回復後、一貫して続いてきた病理である。マルコス独裁体制下では、政権がかかわる殺害も数多く指摘された。1986年のピープルパワー(エドサ)革命で、マルコス政権が倒れて以降も記者殺害は続いている。主には、地方の政治家や黒幕が批判的なジャーナリストを殺し、司法がきちんと対応できていない。軽んじてよい問題であるわけはないが、近年浮上してきたことではなく、中央政権が記者を殺害したと露骨に疑われる例はエドサ後、あまり聞かれない。
権力、なかでも政治権力を監視することがメディアの最大の役割であるか、権力との関係においても是々非々であるべきか。日本でも近年議論が分かれ、大手紙の論調も真っ二つに分かれた感がある。権力監視を重視する世界中のメディアは、時の政権と緊張関係にある。フィリピンでも、政権獲得にメディアの力が大きく寄与したコラソン・アキノ政権でさえ蜜月は続かず、後半になればメディアとの関係は相当ぎくしゃくしていた。しかしエドサ後の歴代政権は、批判的メディアとの摩擦を抱えながらも、露骨な強権的介入は避けてきたようにみえる。ところがドゥテルテ政権をその姿勢を明らかに転換しようとしている。
◆高支持率を背に批判者攻撃
ことがラップラーだけであれば、外資規制の問題、あるいは米国寄り(大統領によれば「米中央情報局(CIA)の手先」)か、愛国的メディアかといった仕分けも可能かもしれない。
しかし、ドゥテルテ大統領は昨年、大手放送局の「ABS―CBN」の免許更新は必要ないと脅した。さらに有力日刊紙「フィリピン・デイリー・インクワイアラ―」の株主一族が運営するビルを、家賃未払いを理由に政府が突然封鎖した。いずれもドゥテルテ氏に批判的な論調を展開していたメディアである。ビル閉鎖にしろ、認可取り消しにしろ、大統領が直接指示したかどうかは不明だ。政府機関の権力者への忖度は日本だって負けていない。いずれにしろ、政権全体としてこれほど露骨にメディアを脅す例は、マルコス政権崩壊後なかったのではないか。
大統領選挙から一貫してドゥテルテ氏を賛美してきたブロガーのモカ・ウソン氏を次官待遇で政府に招いたことにも驚かされた。「フェイクニュースを垂れ流している」とたびたび批判されてきたセクシー女優である。米国のトランプ政権が、大統領選の広報戦略を仕切った保守系メディアのドン、スティーブン・バノン氏を政府の首席戦略官に起用した例に匹敵する仰天人事である。
人権派弁護士として名を売った後、下院議員から大統領報道官に転身したハリー・ロケ氏は「既存メディアは真実を伝えてこなかった。だからドゥテルテ政権を支持するソーシャルメディアがこれほど大きな存在になった」と話す。政権の主張を一方的に伝え、賛美するソーシャルメディアを尊重する姿勢は明らかだ。
ネットに真偽入り交じる情報が乱れ飛び、社会の分断が深まるポスト・トゥルース(脱・真実)の時代。世界の多くの国で見られる今日的な現象だが、政府が分断の増幅に積極的に加担している点で、ドゥテルテ政権はトランプ政権と肩を並べる。
「暴言大統領」としてトランプ氏に先行したドゥテルテ氏は、旧宗主国同様、これまで貴んできた報道、表現の自由という価値観を自ら打ち捨てようとしているようにみえる。
トランプ氏の支持率は3割台だが、ドゥテルテは8割に近い。高い支持に支えられながら、批判への寛容を示さず分断を推し進めれば、深刻な少数派排除につながるのではないかと危惧する。
気骨あるフィリピン人ジャーナリストは受難の日々だろう。記者殺害という伝統的抑圧に加え、ポストトゥースのなかでフェイクニュースと闘いながら筆を進めなければならないからだ。
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(注)以下の原稿は、マニラ新聞(2月20日付)に寄稿した「座評軸 報道の自由、軽視の政権 脱・真実で深まる社会分断」に一部加筆したものです。
以下、石山氏の論文を許可を得て転載します。
■報道の自由 優先課題は記者殺害/ラップラー問題を考える(2月5日、マニラ新聞)
ネットニュース「ラップラー」の運営会社に対する許認可停止命令を機に、言論の自由に対する危機感を表明する声がフィリピンでは盛んに上がっている。
ラップラーがドゥテルテ政権の麻薬撲滅政策などに批判的な報道を続けてきたゆえ、「露骨な言論弾圧」だという訴えは理解する。見逃せば次なる言論弾圧への道を開くという危機感もかなりの部分は共有する。
その上で、あえて書くが、ラップラーへの許認可停止は、比における外国人のメディア経営を禁じた憲法を根拠としており、言論の自由をめぐる問題の中では、特殊な問題という印象もある。
ラップラーが米商業サイト「イー・ベイ」など米資本と「一定の関わり」を持つニュースサイトであることは否定しにくいように思える。
また、超法規的殺人などの人権問題批判だけでなく、米国の伝統的な対アジア外交に沿った視点で、ドゥテルテ政権の外交を評してきたメディアであることも事実だ。
◆親米反中路線
3日のラップラーのニュースでは、比を訪れた米保守派シンクタンク米戦略研究所(CSIS)のグレゴリー・ポリング研究員にインタビューし、南シナ海の領有権問題をめぐる比の対中外交について「狙いは分かるが(中国に対して)ナイーブだ」と親中路線の無防備さを懸念する見解を伝えている。
ポリング氏のコメント自体は一つの見識ではあるが、彼が所属するCSISは米国務省、国防総省と「回転ドアでつながっている」といわれるほど深い人的交流があるシンクタンクだ。
CSISは米国の対アジア戦略を研究するにとどまらず、長年にわたり、米戦略の「宣伝役」も担ってきた。
南シナ海の南沙諸島で中国が岩礁を埋め立てて軍事化を進めている様子を衛星写真分析としてCSISは重ねて発表してきている。ポリング研究員はCSISにおける南シナ海部門のトップだ。
昨年11月の比での東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会合の際にもラップラーはポリング氏の南シナ海問題についてのコメントを紹介している。
ポリング氏はラップラーに対し、一連の会合の中で、ASEANが南シナ海問題において中国に法的拘束力を持つ行動規範を策定させることができなかったことを失敗だったと指摘。比が議長国というせっかくのチャンスを逸したと述べていた。
ラップラーの外交報道は中国、ロシアには厳しい。ゆえに中国と友好関係を結んだドゥテルテ外交にも批判的だった。
それをどう評価をするかは別として、ラップラーの報道姿勢を端的に言えば、親米反中路線であり、アキノ前大統領とロブレド副大統領に近い。
◆外国メディアの取材は自由
米CNNテレビは比に拠点を持ち、スタッフを抱え、比各地を取材している。CNNフィリピンという放送まであって比で視聴できるが、本社は米アトランタにある。
ラップラー側も既に検討していると思うが、比に本社がありながら実態は外国人経営のメディアだと疑われたのであれば、便宜的にでも本社を国外に移し、比の拠点を出先とすることで、そのまま取材とニュース発信を続けることはできるはずだと思うが、どうだろうか。「疑う権力の側が悪い」としても、権力とはそういうものだという前提でたえず警戒を怠らないことが、メディアの基本戦略でもある。
東南アジア諸国の中で、外国メディアにとっての取材の自由度だけを比較すれば、ありがたいことに比は、ほぼトップの自由度がある。日本メディアを含む外国メディアが支局、支社などを開設することに対する特別な許認可制度はない。比に本社を置くメディアのみが許認可の対象になる。
比にはベトナムなどにおけるように独裁党批判のタブーや、タイにおけるような王室タブーもなく、宗教タブーもさほど強くはない。比では外国の新聞や雑誌を自由に輸入し、どこでも販売できるが、東南アジア諸国においてはかなり例外的なことだ。
その一方で、主に地方都市でのジャーナリスト殺害が目立って多い。取材環境は非常にいいのだが、権力者、特に地方権力者と生身で直接対決すると報復も大きいのだ。
比における報道の自由をめぐる最大の問題は、少なくともラップラーではない。過去のすべての事件に遡り、ジャーナリスト殺害を一切許さない全メディア挙げての徹底追及であるはずだ。これだけは、外国メディアも含め、すべてのジャーナリストが団結して戦わなければならない問題だが、首都圏のメディアと地方のメディアの団結が弱いのか、いま一つ最優先課題になっていないように見えるのがもどかしい。 (石山永一郎)