ダウンダウンの『絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時!』において、浜ちゃんが『ビバリーヒルズ・コップ』のエディ・マーフィーをマネさせられた際に、顔を黒く塗った姿が批判されている。
インターネットを中心としたメディアでは、往年のラッツ&スターや、ミンストレル・ショウ(白人が顔を黒く塗って黒人を演じたショウ)が引き合いに出されて、制作スタッフの人種差別的表現への鈍感さや、日本人の国際感覚の欠如が指摘された。
まず確かに言えるのは、「人の人種に基づいた特徴を誇張する笑いはアウト」ということだろう(実際は世界的には「個人の身体的特徴を揶揄する」こともアウトなのだが、日本ではまかり通っていることを日本のテレビ関係者はもっと知ってほしい)。
立場を逆転してみればわかる。アメリカ人が目をつり上げて日本人のマネだと称したら、日本人の僕たちは腹が立つだろう。
2017年シーズンのMLBワールドシリーズ第3戦で、ドジャースのダルヴィッシュ投手からホームランを打ったアストロズのグリエル選手が、ベンチに帰還後、両手で目をつり上げるしぐさを行なった事案を覚えている方も多いだろう。
ダルヴィッシュ投手の反応は実に模範的なものだった。
「誰もパーフェクトな人はいません。(中略)これによって世界の人がまたひとつ習って、また全世界の人間として、また一歩前に進めたら、結果的にはいいことになるんじゃないかなと思います」(2017年10月31日のNumber Webより引用)
これを聞いて、「世界をよくするため」という目的を視野に考えてみた場合、「黒人のマネは一切ダメ」というのも、これが世界をよくする行為なのかどうかは疑わしい。
笑いにしたからダメだったという側面もあろう。日本には黒人やその音楽に憧れて、黒人がするファッションをそのまんまコピーしているような人はたくさんいる。しかし、それは差別的だとは言われない。
黒人からしたら、それは滑稽だと思っているかもしれないけど、おそらく尊敬をもってマネていることは理解してもらえると想像できる。
『ガキの使い』制作スタッフは笑いをつくるのが仕事だから、非常に微妙なかじ取りが要求される。
黒人をマネたいから顔を黒くしたわけではなく、『ビバリーヒルズ・コップ』のマネをしたかったからエディ・マーフィーに寄せる必要があったのだろう。しかし、「出オチ」として、姿を笑う意図だったから決定的に不適切だった。
代わりに他の作品だったらどうだったろう。
『ダーティー・ハリー』のクリント・イーストウッドなら? おもしろくはならないだろう。
後ろ髪だけが長い「マレット」ヘアのヅラをかぶって、メル・ギブソンの『リーサル・ウェポン』なら? そこそこおもしろいけど、マレットがアメリカでは田舎者の白人がする髪型としてバカにされているという認識が日本人にはないから、ちょっと弱い。隣りにやはり黒人のダニー・グローバーがいないとわからない。
血だらけのタンクトップにマシンガンを持って『ダイハード』なら? かなり笑える気はするけど、テロリストと戦うあのブルース・ウィリスにはもはやアメリカンポリス感が薄い。
やはり元々コメディー映画である『ビバリーヒルズ・コップ』がいい選択だと思う。が、肌を黒く塗ったのが間違いだった。それはせずにアフロのヅラだけなら看過されたかと言うと、それでも問題視されただろう。
黒人俳優が主役の映画をパロディーする際の、正解が見つからない。しかし、お笑いで他人種を描くのは一切NGということが、「世界をよくする」こととも思えない。世界を融和させるよりも、むしろ分断することにつながるかもしれない。
お互いを腫れ物のように扱う世界よりは、たとえ人種をネタにしてもナニ人でもみんなで大笑いできる世界に住みたいと僕は思う。暴論は承知だが。
浜ちゃんの相方である松っちゃんの方は、かつて「Mr.ベター」という白人キャラクターを大きな付け鼻で演じ、同じように人種差別的だと批判を受けた過去がある。
トランプ大統領を揶揄する意図を持って、あの独特の金髪とふてぶてしい態度をマネする人は多いけど、白人をバカにしているとは言われない。権威なら笑ってもある程度は許容されてしまう。
マネされた当人であるエディ・マーフィーは、80年代にコメディー番組『サタデー・ナイト・ライブ』において、「黒人の自分が顔を白く塗って、白人として街に出てみた」というお笑い映像を披露している。
その中で、マーフィー演ずるミスター・ホワイトは、黒人がいないところで白人同士がいかに楽しくやっているかを皮肉たっぷりに描いた。世紀が変わった今でも、SNLのユーチューブ公式チャンネルにアーカイブされている。
つまり笑いの構造として、「下から上への風刺」は許されるが、「上から下」だと差別だと言われる。そういう構図(認識)があること自体が問題なのだが、差別と支配の歴史を経て、現実世界は階級意識消滅のまだ途中段階にある。
番組スタッフや、我々日本人に「上」の意識が果たしてあるのだろうか。
僕個人の意見では、あくまでもアメリカ人を笑いのネタに用いた今回、人種を問わず見下すような意識はなかったのだと思う。ただし、「外」の意識はあるのではないか。我々が、厳然とタブーが規定されるデリケートな社会の外にいるような。
その無知さ加減が、無神経さにつながったのが今回の一件だと推察するが、日本人の読者はどのように受け取り、それぞれに考えるだろうか。
脇道にそれるが、僕には「人種を身体的特徴で描く」ことに関して、いつも気になることがある。
アメリカに行くと、たとえばお菓子のパッケージ、学校のパンフなどに、白人、黒人、アジア系、ヒスパニック系など、多人種の人たちの姿が「お約束」として描かれている。特定の人種を優遇することはタブーなので、様々な「カラー」の人を言い訳のように掲載しておくのだ。
先日『キングスマン ゴールデン・サークル』という映画を観た。表向きはスーツ屋の英国の私立諜報機関が、アメリカのウィスキー蒸留所の裏の顔として存在する同じく諜報機関と手を組んで、世界を滅ぼそうとする麻薬組織と戦う、という荒唐無稽で大迫力のエンタメ作品だ。
これなども見方を変えれば「英国と米国の、結局は白人が世界を救い、今後も世界を牛耳ってハッピーエンド」という曲解が可能だ。そこを知っている製作陣は、最後のシーンで、ホログラムの幻影として見える、その他の諜報員には黒人もアジア人も陳列していた。
その際、そこにいるアジア人の女性は、アリバイ作りのように「アジア人とわからせることが役割」なので、「コテコテのアジア人の顔」をしているのだ。
お菓子の箱もそう、学校のパンフもそう。アジア人の中でも特にわかりやすく目のつり上がった特徴を持つアジア系モデルをそこに配置する。アメリカで活躍するアジア系俳優やモデルは、好むと好まざるにかかわらず、これまたそのニーズを知っているから、あえて人種に基づいた特徴を売り物にし、つり上がった目を強調するメイクをして仕事を得る(専売特許みたいなものだから他者による便乗は許されない)。
そうやってステレオタイプは強化されていく。
世界ないし多人種社会では、人種に特有の(ステレオティピカルな)身体的特徴から逃れることはできないのだ。
一般的な表現においては、何系かわからない人に与えられる役柄はないのである。
笑いの表現の場合は、歴史的経緯や被差別意識や時代性が、実に深遠な影響をもって人の知覚を左右する。だからこそ、それをつくる側には、高度な知性が求められる。
黒人以外が顔を黒く塗って黒人を演じてはいけない。アジア人以外が目をつり上げてアジア人を演じてはいけない。インド人以外がターバンしてカレーを食ってはいけない。
この共通認識が逆行する潮流は今後もありえないと思うのだが、我々は(毒を含んだ)笑いを失うことなく、「よりよい世界」の実現にどのように進んでいくべきなのか。
「私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。
しかし、私の笑いが誰かの苦痛のきっかけになることだけは、絶対にあってはならない」
チャップリンの言葉の中に、その答えがある。
苦痛は目に見えないだけに簡単ではないが、と自戒を込めて思う。