「デキちゃった結婚」で、あーだこーだと騒ぎ立てるのはやめませんか

もう、人の「デキちゃった結婚」で、あーだこーだと騒ぎ立てるのはやめませんか。子の親となるべき人たちを、ただただ労わってあげませんか。

元・人気アイドルグループ△△のメンバーで、現在はモデルとして活躍している○○さん(30)が今月24日、東京都在住の一般男性(35)と結婚したと、所属事務所を通じて発表した。同日に婚姻届を提出した。なお、○○さんは妊娠はしておらず、今後も活動を続ける。

連日のように有名人の結婚ニュースが舞い込んでくる昨今だが、上であげたような報道のされ方に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。引っかかるのは「なお、○○さんは妊娠はしておらず......」の部分だ。当人が結婚後もいままで通り芸能活動を続けるということを伝えたいからだとしても、わざわざ妊娠しているかどうかまで報じる必要はあるのだろうか。「今後も活動を続ける」だけじゃだめなのだろうか。なぜ「妊娠の有無」という、あまりにも個人的な情報が周知されなくてはならないのか。

上に書いたようなことは、少し前にとある深夜番組でも話題になっていた。そして、番組内では「デキちゃった婚じゃないことを事務所側がアピールしたいからじゃない?」というような結論が出ていた。しかし、じゃあどうしてそれをアピールしなくてはならないのか、という話になる。言うまでもなく、いまの日本が、まだまだ「デキちゃった婚」を「良くないもの」とする風潮にあるからだろう。結婚前に子を宿した人たちは、どうしたって偏見や陰口の対象になってしまいがちだ。いや、私だって、子は、親側の体制ができる限り整ってから迎えられた方が良いだろうとは思う。親となる人たち......とくに女性側にとっての心身の負担も、一般的な結婚よりもずっと大きくなるだろうし、その意味でちょっと大変だろうな、とも思う。しかし、現にいのちは宿ったのだ。ひとりの人間が、じき、この世に生まれ出ようとしているのだ。その圧倒的な現実を前に、外野がどうこう言ったところでどうにもならないし、むしろ双方にいやな気分を残すだけで、誰一人として、ひとかけらだって得なんかしないと思うのだが。

それだというのに、なにゆえに「どうこう言う」人々が後を絶たないのか。私は、ここに、いまという時代を生きる人々の、「いのち」というものに対しての傲慢さが透けて見えるように思うのだ。人の「生」や「死」が、自分たちの意志一つで操れるものなのだと、意識するにしろしないにしろ、どこかでそんな風に思っているからこそ、「どうこう言」えてしまうのではないだろうか。

どんなに避妊に気を遣っていても、子はやってくるときはやってくるものだ。そんな話は山と聞く。一方で、どんなに血のにじむような努力を重ねたところで、どうしたって子を授かれないカップルだって、本当に、数えきれないほどに存在するのだ。それはもはや人智を超えた大いなる自然のルールの上にあり、人間にできることなんて、自分に与えられた状況を甘んじて受けいれて生きていくことだけなのだが、現代に生きる我々は、どうしてもそのことを忘れてしまいがちだ。科学技術の発達が、その理由のひとつとして挙げられるかもしれない。たとえば不妊治療や延命治療によって、人々の切なる願いが以前よりずっと叶えられやすくなったことは本当に喜ばしいことだとは思うが、それによって私たちは、自然というものに対する傲慢さを、知らず知らずのうちに身につけてしまった......そんな側面も、また、確実にあると思うのだ。

「人の生き死には、自分たちのコントロールの外にある」......そんなことを、昔の人は、骨身に沁みて理解していたように思う。その理解は、「信仰」とともにあった。

私は以前、二度ほど、いまも息づく、「いのち」そのものに対する「信仰」を実際に目にして、言い知れぬ衝撃を覚えたことがある。一度目は三重県のとある寺院でのこと。そのお寺の本堂の天井には、その年に亡くなった方々の着物が数えきれないほどに吊り下げられていた。それを毎年八月の地蔵盆の日に一気に燃やし、その炎の勢いを借りて、死者の魂をあの世に往生させる......そんな儀式を行うお寺だった。私が訪れたのは、ちょうどその年の地蔵盆の直前で、お寺の境内に一歩足を踏み入れてすぐに、幾人もの僧侶による重厚な読経が聴こえてきた。死者の着物がズラリ......だなんて、おどろおどろしいイメージを失礼ながら持っていたのだが、実際に訪れてみるとまったくそんなことはなく、むしろ淡々として、奇妙に明るい雰囲気すら感じられるお寺だった。死者がいて、それを供養する生者がいて、僧侶がいて、それを一緒に祈らせていただく私がいて、そして檀上にはその空間全体を見守る地蔵菩薩の姿があって......ただ、それだけだった。それだけなのに、涙が出てくるのだった。それだけだからこそ、涙は止まらないのだった。人が産まれ、生きて、死ぬということ。それはあまりにも当たり前のことなのだと思った。すべては大きな流れの中にあるのだ......。そんなことを思いながら、ひたすらに涙を流し続けた。

二度目はつい最近、縁あって奈良県のとある寺院での安産祈願に参加させていただいたときのこと。私が産むわけではなかったのだが、「女性はこちらにどうぞ」と促され、妊婦さんたちに混じって最前列に座らせていただいた。巨大な地蔵菩薩の木像の前には、全国各地から届いた、子の無事の誕生を祈る人々の願い文や供物などが、山と積まれていた。そしてその中には、残念ながらこの世に産まれてくることの叶わなかった子らを供養するものも混じっていた。厳かな雰囲気の中、「チーン」と鉦の音が響き、僧侶の読経が始まって数十秒、私はどういうわけか、またしても涙を流していた。興奮していたわけではない。悲しかったわけでもない。ただ、一人の人間が産まれてくる、いままでこの地に存在していなかった人間がやってくる、その流れに、そのご縁に、そのとてつもなさに、淡々と感じ入っていたのである。読経の間中感じられて仕方がなかったのは、私が祈る「あの子」の誕生と、隣の家族が祈る「あの子」の誕生、そして、全国各地で望まれている「あの子」たちの誕生と、今日この瞬間にこの世にやってきた「あの子」たちの誕生と、そして、産まれてくることが叶わなかった「あの子」たちと......そこには、本当は、一切の差なんてものはないのだ、ということ。すべてそのようになっているのだ、すべて決められているのだ、人は自然の大きな流れの中でしか産まれてこないのだ、それは人間が外側からどうこうできるようなものではないのだ......そう思ったのだった。人智を超えた「いのち」のダイナミズムを目の当たりにした気がした。涙は儀式が終わるまで止むことはなかった。

その二つの寺院の共通点は、本尊として地蔵菩薩がまつられていることだった。人は「地」に産まれ、「地」に還っていく。「地」蔵菩薩に、人の「生」と「死」とを見守る役割が与えられているのは、なるほど、納得のいく話ではあるのだった。そして、無力な人々が唯一できることとして、地蔵菩薩への「祈り」が、その地では昔から日常的に捧げられてきたであろうことが、ものすごくすんなりと理解できたのであった。人智を超えた大いなる自然の流れに対して、思わず手を合わせてしまうこと......。ご利益の予約なんかじゃない、本当の「信仰」の形を目にした気がしたものだった。本当は、日本各地でこれと同じような「祈り」は、日常的に捧げ続けられていたのであろう。しかし、時代が進むにしたがってこれらは淘汰されてしまった。人々は、いつしか、自然よりも科学の方を自分たちの神や仏としてしまったのだ。

「信仰」なんていうと、アレルギー反応を起こす人も日本には多いとは思うが、やはり、人間、ある程度の信仰心は持っているべきだと思うのだ。(ちなみに私は「信仰」と「宗教」は別物だと考えています。宗教は「自我」から出るもので、信仰は「自我」をそぎ落としていって最後に残るものだと思います。)「自分ではどうにもできないことがある」ことを知ること。そして「だからもう流れに身を任せます」と、「自分」を手放して生きること。いつだって自然というものに対する謙虚さを忘れないこと。そして自分だって本当は自然の一部なのだと、頭だけでなく、体の奥底から理解すること。それこそが「信仰」の本質だ。信仰を生きていけば、「無理」がなくなっていく。「無理」がなくなれば、無駄な争いがなくなっていく。そう考えるのは、少し、短絡的に過ぎるだろうか。

なにも、いますぐに地蔵菩薩に手を合わせろ、なんてことを言いたいわけではない。(これは実際にものすごく有効な「手段」だとは思うが......。)ただ、みんな、もう少し「自分」を手放してみてもいいんじゃないかな、と思うのだ。なんでもかんでも思い通りになるわけじゃない、でもそれでいいのだと、その時々の状況を受けいれて歩んでいく。その方がずっと生きていきやすいと思うのだ。もちろん、あまりにも「これは違うだろう!」というようなことが起きれば積極的に立ち向かっていくべきだし、それは人間として時に絶対に必要な態度だとは思うが。しかし、こと、「いのち」に関しては、どうあっても状況を「受けいれる」ことは大切なことのような気がしている。

私には妊娠・出産の経験はない。現在、特別に、子がやってきてくれることを欲してもいない。「いのち」に対する切実な願いを持つという経験をしたことのない私がこんなことを言うのは、おこがましいことなのかもしれない。わかってない、と罵られても当然かもしれない。それでも、二つの寺院で見たプリミティブな信仰の形と、そこで感じた「いのち」のダイナミズムには、とにかく、圧倒的な説得力があったのだ。自然という大いなる流れの前では、人はまったくの無力なのだ、起きることは起きるし、起きないことは起きないのだ、それでいいのだ、まったく問題などないのだと、そんな風に思ったのだった。その信念は、きっとこれからも揺らぐことはないだろう。

もう、人の「デキちゃった結婚」で、あーだこーだと騒ぎ立てるのはやめませんか。子の親となるべき人たちを、ただただ労わってあげませんか。そして、無事この世に産まれてきた子の成長を、みんなで大切に見守っていきませんか。私たちは、本当は、みな等しく、ただひとつの大いなる自然の流れの中にいるのだから。

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