(前回の記事:事故処理に政府が責任を持つ体制が必要 ~福島原発視察(1))
視察を終えて福島第一原発の敷地を出ると、すぐに民家が目に飛び込んできました。正門からの距離はわずか400メートル。屋根の瓦は崩れ、庭には雑草が生い茂っていました。この家の住人は今、どんな思いでどこに避難しているのでしょうか。実に胸が痛みます。
福島第一原発が立地する双葉町と大熊町は今も大半が「帰還困難区域」に指定されています。帰還困難区域とは政府が公式資料等で「5年以内にお戻りいただくことが難しい」と定義している地域で、住めないどころか、一時的な立ち入りも厳しく制限されています。そもそも私は、この表現自体が無責任な希望的定義だと考えます。
町に人通りはなく、道を行き交うのは原発に出入りする作業車やパトカーばかり。道端の飲食店やコンビニエンスストアは閉まったままで、私が震災前に行ったことがある鰻屋さんも地震で崩れかかった姿のままでした。田んぼには、実りがなった稲ではなく、ところどころに除染作業で発生した放射性廃棄物の梱包が大量に野積みされています。
政府と東京電力は福島第一原発を30~40年かけて廃炉にすると発表しています。しかし、前回もお伝えした通り、廃炉作業はまだ初期段階。遠隔操作でガレキを除去するのが精いっぱいで、メルトダウンした1~3号機は放射線量が高いため、今も作業員が近づくことができません。
溶けてしまった燃料棒が今、どういう状態にあるかということすら、ほとんどわかっていないのです。人が近づけない原子炉建屋からどのように燃料棒を取り出すか。これから各国の力も借りて研究開発するとしていますが、「廃炉まで30~40年」というのは、「早くて30~40年」かかるという意味であり、恐らくはそれ以上の時間を覚悟しなければなりません。そして廃炉が完了し、除染が終わるまで地域住民の方は安心して帰還することができません。
福島第一原発から20キロメートル離れた広野町でさえ、帰村宣言をしてから1年以上たった今も5200人の町民のうち、1000人ほどしか戻っていないそうです。ほかの町では帰還住民の多くが高齢者だったと聞きました。
子供たちや子育て世代は「放射線量が下がったから安心だ」と言われても、「万が一」のリスクを考えるとなかなか戻るという決断はできません。放射能の影響はすぐにわからないからです。住民全員が帰還するまでは元のようには商売が成り立たないわけですから、「働く場」がないために若者世代が戻れないという実態もあります。
私は4月5日の衆議院予算委員会で、原発周辺を「人の住めないエリア」と決め、除染によって発生する放射性廃棄物の最終処分場にするべきだと安倍晋三首相に進言しました。相当な批判を覚悟しての発言でしたが、NHKで国会中継を見ていた方々から「よく言った」という声をいただきました。その中には、福島県からの避難民の方々からの涙ながらの賛意もありました。住民の多くも「もう戻れない」と分かっているし、「戻らない」という現実の上に今後を考えていきたいのです。
政治の役割は決断することです。「いつか戻れる」という淡い希望をいつまでも抱かせるのではなく、政治判断で「人が住めないエリア」を決め、住民の方には十分な補償をして新たな居住地を見つけてもらう。そしてこの地域は皆が受け入れたがらない放射性廃棄物の最終処分場を建設する。こうした決断こそが必要です。
よりはっきり言うならば、第一原発の至近エリアは、除染を終えても住民を帰還させてはならないと強く訴えたいと思います。「戻れる」「戻れない」ではなく、「戻りたい」「戻りたくない」でもなく「戻ってはならない」のだと、私は考えているということです。なぜならば、何十年もの作業期間の間に再び地震が発生すれば、メルトダウンした燃料棒がいかなる状態に陥るかわからないのであり、その際には再び避難することになります。
また、政府が帰還を許可し再びここで生活をする人が現れれば、このエリアを放射性廃棄物の最終処分地とすることはできなくなるでしょう。だから、私は、避難している方々に衷心から申し訳ないと断りつつ、「帰還困難区域」ではなく「帰還禁止区域」にするべきだと考えるのです。
福島第一原発を視察し、原発周辺を確認してきたことでこの思いは確信に変わりました。私の横浜市長時代にも、全体のためには必要だが一部の人にはとことん嫌われる決断を何度もしました。今回は総理大臣しかできない決断だと思います。今後も国会議論などを通じ、安倍首相に決断を迫り続けていきます。
(この記事は「中田宏のオピニオン」に掲載された9月23日付記事の転載です)