(この記事はYahoo!ニュース内のページ「史論家練習帳」に8月31日付で掲載された記事の転載です)
新刊『日本の起源』(東島誠氏との共著)の序文公開にあわせて、昨秋、『こころ』9号(2012年10月)に寄せたエッセイ「近代への郷愁?」を再掲します。当時はまだ民主党政権(野田佳彦内閣)で、夏にピークを迎えた原発再稼働反対デモの記憶も、新しい時期でした。
1年ほど前、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)という本を書いた。おかげで直面したもろもろの毀誉褒貶を振り返るにつけ、考えさせられるのは、拙著を「中国化を礼賛している」と受けとった読者の多さである。
同書は、日本社会は「近代化」も「西洋化」も本質的な意味ではしてこなかったという理解のもとに、それらの概念に替えて「中国化」ということばで日本史を書き直したもので、そのようなプロセスを特に高く価値づけているわけではないし、むしろ将来への懸念を提示する内容となっている。それでもかような誤読がおきるゆえんについて頭をめぐらすうちに、まさしく従来用いられてきた「近代化」や「西洋化」のアナロジーから、多くの日本人は「変化といえばよい方向にしか起きない」という信憑に、いまだにとりつかれているのかもしれないと思い至った。
中国が最も進んだ国だ、とする記述を「中国を賛美するものだ」という含意に解してしまうのは、その人のなかに人類は常に「よい方向」にだけ進んでいるという前提があるからである。2011年の福島第一原発事故で、表層的にはあれほど「科学技術文明の限界」「進歩や発展という神話の終焉」が叫ばれながら、この国にはどこか、人間が没落に向けてこそ「進んでいる」という感性を受け入れがたいところがあるように思う。
言うまでもないが、人類全体が日々より優れた状態へ移行しているなどというのは、近代の西洋に特殊な、かなり偏った思想である。前近代までの宗教的世界観では、人間はむしろ初発の楽園を喪って退化してゆくのがふつうだし、いわゆる土着的な信仰も、直線的には流れずリズムのように四季を循環する時間感覚に満たされているのが通例だろう。
してみると日本人は、発祥の地であるヨーロッパですら放棄されつつある進歩という幻想(本来、エコロジーとはそのような含意を持つ思想のはずだ)の実在を、奇妙にも最後まで信じ込んでいるのだろうか?――否、おそらくは喪われたことを知りつつ、それに縋りつかずにはいられない人びとなのかもしれない。
そういえばここ数年来、戦後復興から高度成長にかけての「進歩」を実体として想定しえた時代が、ノスタルジアとして日々消費されている。経済発展を主軸におく過去の美化には批判的な識者も、官邸・国会前への脱原発デモには安保や全共闘を重ね見て共鳴するらしい。決して十全な意味での「近代」を経験しなかった国であっても、いやだからこそ、近代が生んだ進歩という物語に魅せられて、「もう存在しないのかもしれないが、それでもなお!」と求めるのだろうか。
日本人論の代表とされる土居健郎の『「甘え」の構造』は、その最後の学生運動の季節だった1971年の刊行だが、実はパリ五月革命から文化大革命までの「1968年」にも言及して、当時まさしく喪われつつある存在だったからこそ、仇敵ないし規範としてド・ゴールや毛沢東のような「強い父親」がシンボライズされたとする解釈を提示していた。そしてこの国ではいまも、打倒の対象としての「父」の実在を逆説的に必要とする人びとが、シュプレッヒコールを叫んでいるように見える。原子力を営んできたのも、それを再稼働せざるを得なかったのも、父なる他者ではなく私たち自身の社会なのに――。
翌72年に著された丸山眞男の「歴史意識の『古層』」は、日本が近代化を達成しえなかったがゆえに周回遅れでポストモダンに達したことを示唆する、不気味な幕切れで波紋を呼んだ。しかし私たちの歴史意識は、いまなお立ちふさがる封建的な父親さえ倒せば、よりよい方向への変化が始まると信じられた近代への郷愁こそを、さまよっているのかもしれない。まさしく丸山が指摘したとおりの、「つぎつぎになりゆくいきほひ」のオプティミズムに支えられて。
願わくばそれが、進歩と誤解された反動を、ふたたび呼びこまぬことを。
その後の1年のあいだに、政権は原発の再稼働に(また、なぜか当時しばしばセットで反対されていたTPP交渉参加に)より積極的とされる自民党へと戻りました。理屈で考えれば、いまこそ抗議行動がもっと盛り上がることになるはずですが、現実にはむしろ尻すぼみになっているように思われるのは、民主党政権が一見、甘えが通りそうな「父親」に映っていたということなのでしょうか。一方で経済成長(アベノミクス)やオリンピック誘致など、歴史が進歩だと信じられた時代の「日本を、取り戻す。」という欲求自体は、形を変えて一貫しているようにも見えるいまだからこそ、もう一度、書いておこうと思います。
願わくばそれが、進歩と誤解された反動を、ふたたび呼びこまぬことを。