参院選の結果を受けての、東浩紀のこの発言。
共産党は日本の癌だ。共産党の主張が悪いというのではない。絶対に為政者にはならないという安心感のもとに、為政者への不満だけを吸い上げる党という存在がある、その事実が日本の政治をひどく損ねている。共産党の批判は決してぶれないから、そこに不満が流れ込む。でもそれはなにも変えないのだ。
この人が、どうして政治的な迷路にハマリ込んでいってしまったのかがわかる。前から言ってるけど、東は自分なりに何か切実な問題(保育園をふやして、とか、生活保護を切り下げないで、とか)をかかえて政治にかかわってみれば、「『共産党はなんでも反対だから』みたいな居酒屋談義をちょい言い換えただけ」的言説はできないと思うんだが。
第一に、シングル・イシューで、政党が与野党超えてつながったり離れたりするのは、共産党に限らず、よくある話である。共産党的語彙でいえば「一点共闘」というやつだ。みんなの党の渡辺も、選挙後に国会への臨み方として、しゃべっていたが、まあ、フツーのことだ。
認可保育園をふやして、みたいな請願署名を国会にもっていって、紹介議員になってくれる会派を探して歩けば、一瞬でわかる。共産党は紹介議員になった、維新はならなかった、公明党はなった、とかそういうやつだ。
他にも議連ができて議員法案が出されるとか、もう無数にバリエーションがある。
政権の枠組みやそのための選挙協力をしていないということと、個別の政治課題を実現させるための協力が、別のものだという初歩的な理解がない。生活とつながった政治への関与をしていないので、マスコミで借りてきたみたいな杜撰な認識のまま、レベルの低い発言をしてしまうのである。
第二に、「ヤバいことをスクープして追及する機能」は「癌」なのかということ。仮に東の言うように、政策の実現プロセスにまったく関与しない政党があったとしても、その政党がスゴいネタを国会で暴き出して追及したら、そういう仕事「だけ」する政党は存在価値が「癌」と形容されるほどマイナスなのか、ということ。共産党はそういうのを「お家芸」にしている政党であり、そこにチェック役としての期待「だけ」をかけて「一家に1台、一院に50議席、共産党」だと思っている人はいっぱいいるだろう。
九電の「やらせメール」暴露が最近では記憶に新しい。あれをきっかけにして、ほとんどの原発の再稼働は止まった。
福岡市で、最近、市の施設に入居していた認可保育園を移転させるさいに、風俗街かつ災害・交通安全上危険な地域に移転させるな、という保育園保護者の運動がもりあがっている。どうしてそんな危険な土地に移転を急ぐのか、と不思議にだれもが思ったが「土地ころがしがあったのではないか」という疑惑が急浮上した。それを市議会で追及したのが共産党だった。不自然きわまる土地の転がり方が実にリアル。
東は、国政なんかに抽象的にかかわらず、地方議会で切実な運動の一つでもやってみるといい。何かを実現させるために、それを実現させない現実の政治を「暴露」し、その障害を住民の前に引きずり出すという機能がいかに大事かが、すぐわかる。
「リベラルな改憲案~♪」みたいな地に足のついていない寝言を並べて売るんじゃなくて、現実にたいする生々しい「批判」そのものが、現実のイデオロギー性を暴露するのである。東のナイーブなツイートには「(自分の売ってる本や発言は)イデオロギーじゃありません」みたいなものがいっぱいあるんだけども、現存するもの、すなわち現実というもののイデオロギー性について、少しは考えた方がいい。もう少し東にもわかりやすく言おうか。現実の為政者はタテマエでモノを言ってるんだよってこと。わかるかな?
第三に、これは共産党固有の話だけど、共産党は連立政権や閣外協力で政権に入ることがフツーにあるということ。単独過半数で政権をとる、っていうイメージだけだと、「絶対に為政者にはならないという安心感」みたいな変な言説になってしまうんだろう。
日本の共産党も、地方政府レベルなら、与党をいっぱい経験している。
参院選の投票日にも鹿児島で共産党員市長が誕生しているし、そのレベルの共闘はくさるほどある。
ここでも東は「何かを実現するために、地方の首長を市民運動とともに誕生させたい」という運動にどこかで加わってみるといいかもね。
以上三点は、ストレートな批判。
以下はもっと根本の話。
東のもっている問題意識をもう少し健全に言い換えると「原理原則でこりかたまった勢力ではなく、さまざまな政策課題の実現のために柔軟に対応して政治・政権に関与してほしい」ということになるだろう。
これは、先のぼくのエントリでもとりあげたけど、たとえば民主党議員を応援した市民運動の人たちなんかの思考方法でもある。
湯浅誠が、反貧困という個別問題に深くかかわり、その体験の中で民主党議員を応援してしまう、というのは、その一つ。民主党は、消費税増税に手を貸しただけでなく、湯浅自身が懸命にとりくんできた生活保護についても根本的に改悪させてしまう法案を衆院通過させ、参院でも部分修正で推進させてきた。
東と正反対に、運動に深くかかわってきたがゆえに、部分にとらわれて、根本的な大義を見失ってしまったのが湯浅のこの間の行動だろう。
ただ、湯浅のハマりこみようは、同意できないけども、理解はできる。そうなっちゃうのも仕方がないよね、とは思える程度には健全だ。「じっさい、参院では生活保護の改悪法は廃案になったじゃん」という言い分もあろう。
ところは、東の方は、間違い方がひどい。
「リベラルな~」を標榜して、古くさい改憲案をつくってみたり、石原慎太郎や猪瀬某を応援してみたり、橋下を擁護してみたりしている。
東チックな物言いを借りれば、そういう「右」の人々を支える言動をしているから悪いというのではない。
東自身が何を実現したいのかが、何も見えないことである。
動物化したりポストモダンだったりすりゃあ、そりゃそうだわな、と妙に納得されてしまうだけだ。
東が擁護した勢力や東がまとめた改憲案だけをみれば、「現実政治を追認していれば現実的なリベラルっぽくてそれで(東的には)OKなんじゃね?」と言いたくなるのである。
「共産党の主張が悪いというのではない」という物言いには、政策・政治の中身へのこだわりがゼロであることが透けている。どうにでも変化できるという柔軟性は美しいように見えて、現実追認の言い訳にしかならないことの、いい証明材料になってくれている。
東の言説は、スーザン・ソンタグの、びっくりするくらいの実例になっていることも最後に付け加えておく。
ある現象を癌と名付けるのは、暴力の行使を誘うにも等しい。政治の議論に癌を持ちだすのは宿命論を助長し、「強硬」手段の採択を促すようなものである。......癌の隠喩など殊におおまかなものである。それは複雑なものを単純化する傾向を必ず助長し、狂信的な態度はともかく、自分は絶対に正しいとする思い込みを誘いだしてしまうものである。(ソンタグ『隠喩としての病』)
【※】この記事は2013年7月23日の「紙屋研究所」から転載しました。