ポーランドのドキュメンタリー映画、『祝福〜オラとニコデムの家〜』が6月23日より公開される。
自閉症の弟ニコデムと酒の問題を抱える父マレクと暮らす14歳の少女、オラ。母親のマグダレナは別居中で別の男性と暮らしている。家のことを仕切るのはもっぱらオラ。家事も弟の面倒もオラが行う。厳しい現実の中でたくましく生きる彼女は、家族が再びひとつになれることを夢見ている。弟の初聖体式をきっかけに家族が集まれば、またきっと一緒にみんなで暮らせるようになると。
監督は、本作がデビュー作となるアンナ・ザメツカ。試練を迎えた一つの家族の、ごくパーソナルな問題を、身近なところからカメラに収めてヨーロッパ映画賞や山形国際ドキュメンタリー映画祭などで高く評価された。
本作は、少女と家族の葛藤を赤裸々に映し出している。監督の優しい視線を感じる一方、当人たちにとってはもしかしたら撮られたくないのでは、と思えるセンシティブなシーンもある。彼らのプライベートをまるで家族の一員のような立場で捉えているのだ。
カメラの前の彼らだけでなく、それはもしかしたら映画を観る観客にとっても観たくないものかもしれない。弟の面倒を見る14歳の少女のけなげさと対照的なアルコールの問題を抱える父。子どもをそんな父親の元に残して別の男性と暮らす母親。親として立派であるとは言い難いだろう。しかし、そんな両親にさえもザメツカ監督は批判の目を向けていないように見える。
本作はいかにして生まれたのか。監督のドキュメンタリーに対する姿勢、対象との関係はどうあるべきか、そして現場で行ったことやカメラの持つ怖さなどについて話を聞いた。映像に限らず、メディア全般に対して非常に示唆のある発言が多く見られた。
家族が聖体拝領の提案を受け入れてくれたから映画にできた
――この映画は、ひとつの家族のごくプライベートな姿を追ったドキュメンタリーです。彼らを映画にしようと思ったのはなぜでしょうか。
アンナ・ザメツカ(以下ザメツカ):撮影する数年前にこの家族と知り合いました。子ども達の顔がとても美しくて、映画にしたらとても良いものになるんじゃないかと感じたんです。でも彼らがそのまま映画になるとは思っていませんでした。現実というのは混沌としたものですから、何かしら物語が必要だと思いました。
この家族は父のマレク、長女のオラとその弟ニコデムの3人暮らしですが、ある日オラにお母さんはどうしているのか聞いたんです。彼女は、お母さんは別のところに住んでいる、お父さんがお風呂場の修理を終えたら戻ってくると言うんです。その時、オラの母に対する愛情を感じました。
この映画の原題にもなっている「聖体拝領」は、ポーランドでは家族がひとつにまとまるための儀式でもあるんです。なので、これを中心にして物語を作れるのではないかと考えました。たとえ母親が別居中であっても、ニコデムが聖体拝領を受けるのならば、その時家族は再会できるに違いない、そうなれば映画になるのではないかと。
――ではニコデムが聖体拝領の儀式に参加したいということを発見した時に、これは映画にできると確信を持ったということですか。
ザメツカ:ポーランドでは聖体拝領は8歳ごろに受けるのが一般的です。私がこの家族に会った時、ニコデムはすでに11歳でした。元々は受けるつもりもなかったんです。
ある日、ニコデムに学校の宗教の授業のノートを見せてもらいました。その中にはニコデムが書いたオリジナルの十戒のようなものが書いてありました。彼にも宗教的な側面があるということがわかったし、詩的センスも感じられました。長女のオラにとっては、聖体拝領は家族の再会のチャンス、ニコデムにも社会に認められたいという気持ちもありました。この2つの要素があれば映画になると思いました。
そこで、私は映画監督としてこのアイデアを家族に提案しました。ニコデムにもう一度聖体拝領の試験を受けさせてはどうかと。
――聖体拝領のアイデアは家族から出たのではなく、監督の提案だったのですね。
ザメツカ:そうです。
――その提案をした時、家族の反応はどのようなものだったんですか。
ザメツカ:とても喜んでくれました。ただ彼らの教区の神父がなぜ彼の聖体式を認めなかったかというと、表向きの理由は彼の宗教心がまだ熟していないからというものでしたが、実際にはニコデムが予想できない行動を取るかもしれないという不安だったのです。
でもオラと父親のマレクは、他の子ども達と同じようにニコデムを育てたい、他の子どもと同じように社会的に機能できるんだということを知ってもらうことを願っていましたから、私の提案を歓迎してくれました。
――神父が自閉症のニコデムを懸念して聖体拝領を受けられなかったということなんですね。監督も撮影のために教会へアプローチしていると思いますが、その時教会側はどんな反応だったんでしょうか。
ザメツカ:そうですね、私も撮影のために交渉しました。聖体拝領の撮影は、彼らの教区の教会ではなく、セロツクという場所で行ったんですが、それでも1回の交渉では許可が下りず、2,3回と交渉して、好意的な神父が受け入れくれました。この聖体拝領の儀式自体はもちろん実際に行われ、その事実を撮っていますので私の演出はありません。
――もし監督がこの家族に関わらなければ、ニコデムが聖体拝領を受けることもなかったと考えていいのでしょうか。
ザメツカ:そうですね。なかったと思います。これはニコデムにとっても大変重要なことだったんです。彼は自分の口でははっきりとは言わないのですが、周囲の子どもたちから阻害されていると感じています。なので儀式を受けることで、みんなと対等になれると思っていました。自閉症の子どもは、多かれ少なかれ社会から阻害されているという意識を持っています。ニコデムの場合は、聖体拝領によって社会の一員になれると感じていたのです。
カメラの暴力的な力は度々感じる
――今回、こうして監督がカメラを持ってこの家族に接することで、ポジティブな変化がもたらされたのは大変素晴らしいことだと思います。ただ一方、カメラはとても暴力的な側面もあると思います。カメラを持って彼らのプライベートな領域に踏み込むことで、彼らの関係を壊してしまうかもしれないと考えたことはありましたか。
ザメツカ:カメラの暴力的な力というのは、私も度々感じることがあります。実際に今回は大変デリケートな撮影でした。私は自分なりに境界線を定めて、それを超えないようにしていましたが、果たして本当に超えていないのか、もしかしたら気が付かないうちに超えてしまっているんじゃないかとわからなくなる時もありました。
特にニコデムの場合、彼と言葉でコミュニケーションすることは困難ですから、彼の気持ちを理解するのは本当に難しかったです。それからオラは撮影当時14歳の女の子でした。私は境界線を超えていないつもりだったのですが、オラは私に対して反抗的な態度を取る時もありました。私も思春期の子どもを持っているわけではないので、彼女とどう接すればいいかわからなくなる時もありました。
これは一般的なこととして言いますが、カメラがその場にあるだけで、その場の人達の感情の温度を高めてしまいます。カメラがなければもう少しおだやかであるはずの時も、カメラがあるせいで感情を爆発させてしまうことがあります。そういう時は、シーンとしては面白いものになるかもしれませんが、撮影される対象者にとっては不愉快なものでしょう。私が思うにこれはドキュメンタリーを作る人間にとっては常に向き合わねばならないリスクです。
――踏み込むべき境界線を引いたという話がありましたが、それは対象となる人物ごとにも異なってくるものだと思います。そのあたり、オラのお父さんやお母さんはどうだったのでしょうか。
ザメツカ:一般論としてお答えします。まず私が決めたことは、映画の中で人々を裁くことは絶対にしないということです。これは子どもを捨てる親の話ですから、その行動を受け入れることはできません。でも、それを観る観客が、彼らの気持ちに入り込んでいけるような映画にすることが目標でした。私が果たして上手くやれたかどうか自信はありませんが、しかしその責任は全て私が負わねばなりません。とにかく絶対に彼らを非難することだけはやりたくありませんでした。そんな権利は私にはありませんから。
もちろん観客が彼らをどのように受け止めるのか、それは私にはコントロールできないことです。私には信じられない反応ですが、オラを嫌いだという人すら実際にいました。
それからもう1つは、映画に登場する彼ら自身がこの映画をどう思うかということです。彼らが生きていくうえでずっとこの映画は存在し続ける、これから何年か経った時に、今はこの映画について彼らはとても好意的でいてくれていますが、何年後かにオラが大人になったときにこの映画をどう思うのか、それについては想像できません。この仕事はそういう意味でもとてもリスクの大きい仕事だと思います。
スクリプトを作って撮影するのは真実の感情を描くため
――撮影を成功させるには家族からの信頼を得ることがとても重要だと思いますが、信頼を得るうえでどんなことに気をつけましたか。
ザメツカ:まず正直であること、私がどんな映画を作りたいのか一切彼らに隠さないこと、そして映画製作のパートナーとしての関係性を持ち続けること、彼らを美化するポートレートではないことをきちんと知らせることです。
例えば父親のマレクはアルコールなどの様々な問題を抱えていますが、こちらはその問題も含めて受け入れていると示すこと、それによって彼も私との撮影でも安心していられるようになります。こうした信頼関係は最初のうちに築けたと思います。
――実際に撮影の日はずっとカメラを向けることになるので、家族もストレスを感じる時もあったのではないかと思います。
ザメツカ:1日中カメラを彼らに向けていたわけではありません。スクリプトを作って、今日はこういったものを撮ると決めてから撮影に臨んでいます。例えば、この日はオラがニコデムに聖体拝領の練習でバナナを食べさせているところを撮ろうとか、聖体拝領のための試験の勉強をやっている場面をだとか。
自閉症の子を撮影するにはきちんと時間を区切って臨む必要があります。それに何かが自然に起きるだろうと期待しながらカメラを回し続けるのは金銭的にも不可能でした。ですからそういう制約の中で、ある程度のスクリプトを作って計画的に撮影していくという方法を採りました。
――そのスクリプトはどの程度詳細なものだったのでしょうか。それとフィクションとドキュメンタリーの違い、あるいは境界線はどこにあると監督は考えていますか。
ザメツカ:さきほど例に挙げたバナナのシーンで私の方法論を説明します。ニコデムは、神父の出した聖餅を上手く口に入れられないんじゃないかと不安に思っていました。失敗して笑われたくないと恐れていたんです。その不安はオラとニコデムが本当に持っていた「真実の感情」です。
その真実の感情を映像で表現しないといけません。私は、野菜を聖餅の形に切って練習をするといいんじゃないかとオラに提案しました。オラも賛成してくれたんですが、ニコデムは野菜が大嫌いで、いざ撮影の段階になると現場から逃げてしまったんです。そこで野菜の代わりに、ニコデムの好物のバナナでいくことにしたら上手くいきました。野菜とバナナで180度違う反応が変わりましたが、野菜の時は姉弟の喧嘩のようなシーンになりましたが、バナナを使うことによって二人の温かい感情が画面に出てくるようになったんですね。
――なるほど。このスクリプトも監督が一人で作ったのではなく、家族と相談しながら作っていったものということですね。
ザメツカ:もちろんドキュメンタリーですから思いがけないことが起こる可能性は常にあります。劇映画でも突然役者がアドリブをやることもありますが、ドキュメンタリーの方がそうしたことに出くわす機会は多いでしょうね。その時にどうするか、作家は現実を捻じ曲げるのか、自分を曲げるのかの選択を迫られます。ドキュメンタリー作家としての私にとっての最も重要なのは、「真実の感情」です。
真実の感情がなければスクリーンの真実もありません。もちろん私は自分のアイデアを実現させるために、ある種の挑発を行うこともあります。ただ絶対にやってはいけないのは、対象となる人物の感情に反した挑発です。彼らの感情は真実のまま残さないと意味がないのです。