2017年を締めくくる逗子こども哲学教室の12月の哲学対話は小学生クラスが「ルールについて」、未就学児クラスが「光と影」だった。
未就学児クラスは、遊ぶこと、つくることに向かっている。今クラスを担っているインターンのお二人の流れを来春から私も引き継いでいきたいと思う。
小学生クラスは、「そもそも哲学対話のルールってなんのためにあるの?」というインターン生の素朴なギモンにこどもが応えた。
ルールについて話している人が、ルールを守らない
小学生クラスでは相手の話を最後まで聞くこと、人が考えているときは待つこと、他人とちがう意見でも自分の思ったことを話すこと。などいくつかのルールがある。
でもそのルールってそもそも必要?なんであるの?というのがオトナからのギモンとして子どもたちに提示された。
そしてそのこどもたちの間でのやりとりがうまく噛み合わなかった。噛み合わなかったというよりも、お互いに、お互いの話を最後まで聞けない。
これが関係性の醍醐味だと私は思う。一回性のイベントなどでは、こども同士が遠慮しあい、このようなコンフリクトは生まれない。
ルールについて話している人が、ルールを守らないという、おとなの社会問題が、子どもたちの間にも出てくるくらいにはクラスとして関係が構築できていると私は捉えた。
本来、困難があって対話があるべきではないだろうか。衝突を避けて論理的思考力や倫理的一般論を語り合うことはなんの実践哲学でもないだろう。
遊ぶことも哲学であるとナゼいえるのか
未就学児クラスは、4歳から6歳までセロファンや懐中電灯を使って、白い壁に影絵を作って遊ぶことに夢中になった。
途中からハサミやテープも出現し、完全に造形活動に子どもたちが没入。おとなも丸くなって対話する時間はつくらない判断をした。
これを「遊んでいる」ととるか「哲学している」ととるか。未就学児の活動では、おとな側の解釈がそれを左右する。
教育学的に見れば、遊びであり、ものとの出会いだ。他の子の作っているキャクターを描いた作品を見て、真似し合うコミュニケーションも生まれていた。
一方で哲学的に見れば、哲学であり探究だ。最初はソクラテス的探究だったものが、関係性の中でプラトン的ミメーシスへと移行したと解釈できる。
哲学で子育てはもっと楽しくなる
哲学をするためには、「一切の哲学的知識は無くてもかまわない」だろう。それは小さなこどもを見ても明らかなことだ。
同時に、それをどう哲学たらしめるかにおいては、やはり大人やファシリテーター哲学的知識がより多いほど、大人自身あるいはファシリテーター自身にとって楽しい活動になる。
ずいぶん前のことになるが私自身、3歳の娘が絵を描いているときに「何を描いているのか」と質問してしまう自分に気づいた。
娘は何かを描いているのではなく、描くことそのもの、描き味そのものを楽しんでいるだけなのかもしれないのに。
私に質問された娘は「何か」を描くこと、「似ている」こと、「上手」だという評価の対象となることを察知してしまうだろう。
哲学があることで子育ての楽しみ方、見え方が変わるんだということを、2018年は発信していけたらと思っている。