ボルドーワインの産地として名高いフランス南西部の小さな村、サン=テミリオン。5000ヘクタール超のブドウ畑にワイナリーがひしめき合い、この地ならではの土壌と気候がもたらす口当たりなめらかな「赤」を主に送り出している。
その中に日本でも馴染みの人物のワイナリーがあることはご存じだろうか。
2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会で日本代表の監督を務め、ベスト16に導いたフィリップ・トルシエ氏(63)である。日本サッカー界から離れた後もフランスや中国のクラブチームなどで監督に就き、現在はベトナムの民間アカデミーのテクニカル・ディレクターを務めている。その傍ら、2014年に1.1ヘクタールの小さなブドウ畑を購入し、「ソルベニ」という赤ワインを手がけているのだ。
そんなトルシエ氏と一緒に「ソルベニ」とボルドー料理を味わうイベントが12月13日、東京・神宮前のフレンチレストラン「KEISUKE MATSUSHIMA」で開かれた。
オーナーシェフの松嶋啓介氏(41)は、20歳で渡仏して修業を積み、25歳の時にニースで独立。地元の食材を生かした独創的な料理が評判を呼び、28歳の時に外国人として最年少でミシュランの1ツ星を獲得した。現在はニースで3店舗、東京で1店舗を経営しながら、食を軸に幅広い活動を行っている。
今回は数年来の友人であるトルシエ氏のために企画。自らトルシエ氏のワイナリーを訪れ、体験したボルドーの文化や歴史を料理に込めたという。
ほっこりするボルドー料理
40名弱の常連客とワイン好きがメインダイニングに集まる中、トルシエ氏の「カンパイ!」でディナーが始まった。
サン=テミリオンのスパークリングワインを口に含み、べっ甲飴のような後味をかみしめていたら、さっそく1皿目の「アミューズ」が運ばれてきた。
白い器のココットにスプーンを入れると、赤ワインを煮詰めたソースの奥からホカホカの半熟卵が現れる。「フレンチ」と聞くと思わず肩肘を張ってしまうが、ボルドー料理はいわば南西フランスの家庭料理。気取らない、ほっこりするお味である。
「隣はフォアグラとアーティチョークのチップスです」
と、松嶋シェフがマイクを持つ。
「ボルドー地方ではアーティチョークを食べる習慣があり、フォアグラの生産地としても非常に有名です。それからボルドー地方はすぐ隣が海で、たくさんのムール貝がとれるので、もう1品はムール貝のボルドー風にしました。ソースにパセリとニンニク、さらに細かく刻んだアーモンドを入れることで、ボルドー風にしています」
次の前菜は「ガルビュール」という食べるスープ。こちらも優しい家庭の味で、合わせてボルドーの白ワインが供された。
再び松嶋シェフが言う。
「南西フランスに白インゲン豆が有名な山村があります。寒い冬になると、キャベツと白インゲン豆をベースとした具沢山のスープを食べるのですが、先ほどもお話しした南西フランスでよくとれるフォアグラ、要するにカモの脂を味付けに使います。今日はベーコンも入れているので、豚とカモの脂で味付けしています」
「白」にも「赤」にも合うイカ料理
魚料理は、「イカのピバル風」。ピバルはウナギの稚魚のこと。ウナギの養殖が盛んなフランスではメジャーな食材だが、日本では見かけない。
そこで「地産地消」を1つのこだわりにしている松嶋シェフは、ピバルのようにイカを細く切り、同様の炒め方をしたという。コリコリしたイカの食感を、ニンニクと一味唐辛子の香りが引き立てる。
ここで2015年物の「ソルベニ」が登場した。「魚に赤」とは意外な組み合わせだ。
松嶋シェフが説明する。
「料理とワインのマリアージュにもいろいろありますが、時には料理の味付けが濃い、ニンニクが強い、スパイスが強いという味の強弱に、ワインの味の強弱を合わせるのも1つです。魚だから赤ワインではダメでしょう、肉だから白ワインではダメでしょう、ではなく、料理をつくる時の味の付け方でワインに合わせることもできる。このイカ料理は白でも赤でも合うようにしてあります」
グラスに注がれた2015年物の「ソルベニ」は、紫がかった赤ではなく、赤味の強いキイチゴのような色をしている。口に含むと、穏やかなタンニンとともにサン=テミリオン特有のまろやかさが広がった。これがしっかりしたタンニンのフルボディだったら、料理が負けていただろう。
2015年は当たり年
トルシエ氏が「ソルベニ」について語りはじめた。
「サン=テミリオンのワインの特徴は、まず色です。素晴らしい色を楽しんでください。それから香り。私はワインのプロフェッショナルではないので、これがどういう香りかというプロの方のような説明はできないのですが、どうぞ試してみてください。それから、サン=テミリオンの特徴は、口当たりです。口に含む量が少ないと分からないかもしれないので、ある程度たくさん含んで、ゆっくりと小さく口を開けて空気を吸い込むと、テクスチャーを感じていただけるかと思います。ワインを食べるように味わってみてください」
「ソルベニ」はサン=テミリオンの多くの赤ワインと同様、メルローとカべルネ・フランの2種のブドウをブレンドしている。収穫後、18~21カ月熟成するので、いまのところ2014年~2016年物の3つが世に出ている。
「いまお出ししているのは2015年のものですが、この年はボルドーの天候が非常によく、当たり年と言われています。過去10年の間で最もいい年の1つです。私は2014年にサン=テミリオンのワイナリーのオーナーになり、ラッキーなことに2015、2016年と非常にいい年でした。2015年のワインは時間が経つとさらによくなると言われています。あと1、2、3、4、5、6年くらい経つともっとよくなりますが、いまの時期のワインも楽しんでいただければと思います」
キャップシールは「サムライブルー」
参加者から、「ソルベニ」の名前の由来について質問があがった。
「『ソルベニ』はフランス語で『祝福された土地』を意味します。これは私が30年前、アフリカのコートジボワールで働いていた時に、トレーニングセンターのグラウンドにつけたあだ名です。何と呼ぼうか考えた時に、その土地から将来的にすごい選手が出てくるようにということで、『ソルベニ』にした。そして自分のワイナリーの土地を買った時に、自分の歴史を表すような名前のワインにしたいなと思ったのです」
ボトルのデザインも、トルシエ氏そのものを体現している。
「ラベルに『3 4 3』という数字とサッカーのゴールが描いてありますが、これは日本で『フラット3』と呼ばれている私のサッカー戦略を示しています。またキャップシールの青は、日本代表のユニフォームのサムライブルーです。私のサッカーの仕事において一番成功したのが日本だと思っているので、サムライブルーにしました。つまり、このワインは私自身でもある。私と同じで年を取るほどよくなります。アリガトウ!」
「よく考えているんです、あの人は」
メイン1皿目の鳩のパイ包み焼きがテーブルに置かれた。フォアグラのように濃厚でクリーミーな鳩肉が、2015年物「ソルベニ」とよく合う。
続いて2014年物の「ソルベニ」もグラスに注がれた。2015年物と並べると、色が薄いのが分かる。味わってみると、2015年物に比べてうんと軽い。
再びトルシエ氏がマイクを取る。
「いまお出ししている2014年の『ソルベニ』は、私が手掛けた最初の年のものです。すべてのワインはユニークで、どれも個性がある。ブドウの育ち方が気候に左右されるので、開花や結実の時期が毎年変わります。乾燥しているか湿気が多いか、気温はどうか、それから雨がどれだけ降るかによっても変わります。2015年は非常に太陽に恵まれました。2014年の『ソルベニ』はリリースから1年経っているので、それだけ熟成が進んでいますが、一般的には最初にお出しした2015年の方がいいと言われています」
メイン2皿目の牛胸肉の炭焼きが運ばれてきた。先ほどの鳩と真逆で、こちらはとても淡泊なお味。2014年物の「ソルベニ」に「味の強弱」を合わせたのだろうか。
テーブルを回って参加者と談笑していた松嶋シェフに、メインのポイントを聞いた。
「ワインに合い、美味しいでしょ? という感じのボルドー料理であったらいいかなと。それ以上は考えていないです。最初のメインは、より濃厚な2015年のソルベニに合うよう鳩のパイ包みに、次の牛肉は2014年のソルベニが美味しく感じられるよう、味の主張がない炭焼きにしました。こういうワインディナーでは、自分の料理が美味しくなるようにつくるよりも、ワインが美味しく感じられるようにつくってあげることが仕事なので、今日は僕の負けです!」
ソルベニの変化についてはこう話す。
「1年目は難しいところがありましたが、2~3年目はワインの濃さが全然違う。ここの土地独特の土の香りも、すごく洗練されはじめています。気候も大事ですが、いい醸造責任者のもとでしっかり投資をして、樽や熟成の仕方を変えることでよくなっている面もある。よく考えているんです、あの人は(笑)」
親子ほどに年の離れたトルシエ氏を「あの人」と呼ぶ松嶋シェフ。2人の関係をひも解くには、その運命的な出会いまで遡る必要がありそうだ。
"名付け親"との出会い
2002年12月。日本がワールドカップの余韻に浸っていたまさにその頃、松嶋シェフはニースに自分の店「Kei's Passion」を開いた。実は、その"名付け親"がトルシエ氏なのだという。
「彼の著書『情熱――Passion』を読み、情熱があれば何でも乗り越えられるという言葉に感銘を受けたんです。彼は本の中で、日本人や日本のサッカーに対する分析を非常に情熱深く書いていました。なぜ日本人は建設的にコミュニケーションをしないのか、と。白黒をつけすぎるというか、人を嫌ったらそこで終了みたいなところがありすぎて、もったいない、と。この本のおかげで、フランス人の考え方というのが非常に理解でき、フランス人たちと一緒にフランス人と同じ目線で仕事をするクセをつけられた。そこにフランスで成功した理由があると思っています」
先述の通り「Kei's Passion」は「ミシュラン」で1ツ星に輝いたわけだが、その当時、トルシエ氏は自分が新進気鋭の若き日本人シェフに多大な影響を与えていたとは露知らず、フランス1部リーグの「オリンピック・マルセイユ」で監督をしていた。
だが、思わぬ形で2人の線が交わった。
「僕の高校の先輩に日本代表(当時)の久保竜彦選手がいて、ある日、彼から電話が来たんです。同じく日本代表の中田浩二選手がオリンピック・マルセイユに移籍することになったので、面倒を見るように、と。それで中田選手とちょくちょく会うようになり、フィリップとも顔見知りになった。ミシュランの1ツ星をいただいた時は、『君のおかげで僕の店は星を獲ることができたから、うちのお店に招待するよ』と電話をした。いきさつを聞いた彼は『君、面白い奴だね』と(笑)」
六本木「ミッドタウン」でばったり
結局、招待の話はトルシエ氏がオリンピック・マルセイユを去ったことで立ち消えとなったが、2010年に思わぬ形で再会することに。
「ワールドカップ南アフリカ大会が終わってすぐ、六本木の東京ミッドタウンをフランス代表のサッカー選手と歩いていたら、ばったりフィリップと出くわしたんです。僕が一緒にいた選手とフィリップは旧知の仲だったので、しばらく2人で話をしていました。するとフィリップが僕に、『君は何をやっている人?』と言う。『ニースでシェフをしているのだけど、僕のこと覚えてない?』と聞いたら、『あの時の!』と。ポケットから携帯電話を取り出し、『これ君か?』と見せられた画面に、僕の番号が表示されていました」
翌日、神宮前の店に招待し、意気投合。いつしか2~3カ月に1度は世界のどこかで会い、料理やワインやサッカーについて語り合う間柄になった。いまやかつての"名付け親"は、かたやフランス、かたやベトナムという海外で挑戦する盟友であり、時にワインづくりの助言を求められる料理界の後輩でもあるようだ。
松嶋シェフはいま、2019年春にトルシエ氏のワイナリーを訪れるJTBのツアーを企画しているという。
ボルドー地方のチーズを挟んでデザートのフォンダンショコラとアイスクリーム、カヌレでディナーが締めくくられた後も、なかなか参加者は席を立たなかった。松嶋シェフやトルシエ氏と、ワイン片手にいろいろな談議を楽しんでいる。ワインとは本来、こうしたコミュニケーションツールなのだろう。
アイデンティティのあるワイン
最後にトルシエ氏にワインづくりについて聞いた。
「私がワイナリーのオーナーになろうと思ったのは、4年前にたまたまサン=テミリオンの畑を持つ機会を得たからなのです。狭いながらも非常にいい土地で、普通なら手に入らないようなところが相続の関係で売りに出された。神の啓示ではないですが、2人の養女を迎えた時と同様、運命的なものを感じました。私はこうした出会いをとても大事にしています。人生は常に新たな出会いによって変わり得るので、その機会を逃さないことが大事。それで躊躇なく、ワインづくりをはじめようと決めました」
ワインづくりと監督業に通じるところはあるのだろうか。
「仕事にも夢は必要ですが、それよりも現実を優先させなければならない時が来る。そういう意味で全く同じではありませんが、もちろん通じるところはあります。サッカーでもワインづくりでも、選手やブドウのベストなバランスを探します。忍耐が求められ、どんな結果が出るかは分からない。今日、サッカーの試合で勝っても明日も勝つとは限りませんし、今年のワインがよくても来年はどうなるか分からない。ワインとサッカーのマネジメントは似ています」
トルシエ氏がつくりたいのは、アイデンティティのあるワインだという。
「サン=テミリオンの土地に根差し、サン=テミリオンのアイデンティティを有した、エレガントでフェミニンなワインをつくりたい。また『ソルベニ』は私自身のアイデンティティを表すものでもあります。ボトルのデザインもそうですし、歳を取れば取るほどよくなる中身もそう。このワインそのものが『トルシエさん』なのです」
そこには「ソルベニ」さながら、何だかまろやかになった監督がいた。
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