これは、私が先日経験した出来事です。
参加者のほとんどが男性の会議に出席して、自分の意見を強く主張し、何人かの意見に反論して、偏見を指摘しました。
会議が終わる頃には、無敵の気持ちになり、他の出席者と情報交換するために席を立ったのですが、その時に座っていた白い椅子に、生理のシミがあることに気付いたのです。
それまでの勝ち誇った気分はあっという間に吹っ飛び、身体中を恥ずかしさが駆け巡りました。
しっかり対策してたのに、どうして――。こっそり隠そうとしましたが、手遅れ。全員が気付いていました。
私は司会者に謝罪し、すぐに部屋を出ましたが、悔しく恥ずかしくて涙がでてきました。
その後数日は、記憶が蘇るたびに恥ずかしさが込み上げてきました。
私はあまり人目を気にする方ではないのに、なぜこの出来事がショックだったのだろう――。自分なりに分析した結果、この恥ずかしさとこれまでずっと闘ってきたのだと気付きました。
ネガティブだった生理の始まりの記憶
私は9歳でナイジェリアからイギリスに移住してきました。そして4歳の時以来初めて、母と一緒に暮らすようになりました。
その後思春期を迎えたのですが、そういったことをオープンに話す家庭ではなかったので、いざ自分がその時期に差し掛かった時に心の準備ができていませんでした。
胸が大きくなった時には、同級生の女の子たちから「詰め物をしているのだろう」と噂されて、すごく嫌だった。
上着を脱いで「好むと好まざるとにかかわらず、胸は本物なんだ」と言って見せてやろうかとも思いましたけれど、もちろんそんなことはしませんでした。
アフリカからきた新人として、私は自分だけが場違いで、大人のような胸を持っていると感じました。胸のせいでからかいや噂の的にされ、ますます孤立していました。
私が生理に抱く気持ちは、この感情の延長線上にあるのだと思います。
初潮の経験は、思い出すのもつらい。朝起きてシャワーを浴びようとした時に、下着に茶色い物がついていることに気付き、体の中で何かが崩れ去っていくかのようでした。
それまで何度も、生理について聞いたことがあったけれど、全然心の準備ができていませんでした。
母は私にとって他者のような存在だったし、父には恥ずかしくて言えなかったので、自分でなんとかするしかありませんでした。
学校は休めなかったので(両親が絶対に許してくれなかった)、下着にティッシュを詰め込んで何とかしのいだけれど、ベタついて気持ち悪いし、不快でした。
学校に入る時、隣を歩いていた女の子が母親を見上げて「ママ、この子におう」と言ったのを覚えています。ものすごく恥ずかしかったけれど、家に帰るわけにもいかず、その日はとにかく目立たないように過ごしました。
結局、数日後に母が洗濯物の中から血のついた下着を見つけて、秘密がバレました。
母が「大丈夫、心配しなくていい」と言って抱きしめてくれるんじゃないかと内心密かに期待していたのですが「なぜ言わなかったのか」と厳しく問い詰められました。この時の経験は、痛みと恥ずかしさとして私の中に焼き付けられました。
母は私にナプキンを渡して使い方を教えてくれましたが、その頃には何もかもが嫌になっていました。
19歳で起きた、人生最大の事件
そのうち生理にうまく対処できるようになりました。生理痛はほとんどなかったので、生理の日もほとんど気にせずに過ごすことができました。
とはいえ、生理は嫌という気持ちは変わらず、友人と「フローおばさん」などのスラングで呼んでいました。自分でも気づかないうちに「生理はタブー」という周りの文化や大人たちのメッセージを受け入れていたのです。
生理用品のテレビ広告では、血液に使われているのは青いジェル。
性教育の授業では男子と女子で別々で、まるで男の子は女性の体について知る必要はないと言われているよう。
「彼女、生理中なんじゃない?」というネガティブな言葉…。
そういったことを見聞きして「生理は良くないものなんだ」という考えが強まり、それが私の考えや行動に反映されるようになりました。
まるで密輸品のように生理用品を袖に隠してトイレに行き、生理用品を買う時には、有人レジではなく長蛇のセルフレジを選びました。社会のネガティブな扱いを内面化して「生理は恥ずかしいもの」という考えにとらわれていました。
パートナーができ、セックスをするようになると、生理についての会話は避けられなくなりましたが、気兼ねなく話せるようになるまでに、だいぶ時間がかかりました。
徐々に気楽に話せるようになるにつれ、生理について学びたいと思っている男性もいるのだと知りました。全く知る気がない男性もいましたけれど。
それでも、この話題について話せるようになった自分を誇りに感じました。それが、「生理は恥ずかしい」という考えを変えてくれたと思います。
そんな時、人生最大のトラウマとなる事件が起きたのです。
19歳の夏、私はチャリティー団体の募金活動の仕事を始めました。その仕事で家を訪問している時に、突然生理が始まったのです。かなりの出血量でした。
周りに何もない状況で、一番近くにある公衆トイレは、学校。一緒に募金活動をしていた女の子に見てもらうと、洋服に血液の染みができていました。さらに、誰も生理用品を持っておらず、悪夢以外の何ものでもありませんでした。私はまたも、生理の対処方法がない状況に置かれたのです。
学校に行って、恥ずかしさを我慢して男性の警備員に状況を説明しましたが、トイレを使わせてはくれませんでした。私はパニックになって「トイレまでついてきてもいいから」とお願いしたのですが、答えはノーでした。自分の中で何かが崩れました。
私は過呼吸になりながら、チームリーダーに電話をして苦境を伝えました。ありがたいことに、彼女は私を車で近くのパブに連れていってくれました。しかし残念ながら、そこに生理用品はありませんでした。
私はできる限りの対策をして、パーカーでシミを隠しました。
このチャリティー活動は私の最初の仕事の一つで、私はなんとか目標を達成したいと思っていました。だから家に帰るのではなく、仕事を続けたのですが、これが裏目に出ました。
私たちの仕事は、家を訪問して慈善活動について伝えることでした。
突然の生理というハプニングにもかかわらず、募金活動はうまくいっていました。ある夫婦が私たちを、真っ白なリビングルームに招き入れてくれるまでは。
夫婦は私に椅子を勧めてくれてました。私は断りましたが、それでも座るように勧められ、気まずい雰囲気になったので私は床に座りました。
話が終わって立ち上がった時に確信しました。座っていた場所にシミを残してしまった――。
この苦しい状況を誰かに、しかも初対面の人に説明するほどの余裕はありませんでした。私は振り返らずに家を出ました。その後、夫婦がカーペットにシミを見つける場面を何度も何度も想像し、苦しみました。
まるで映画のようですが、現実に起きた出来事です。他にも似たような経験をした人たちが大勢いるのではないかと思います。
でも、こういった出来事は多々起きていたとしても、生理のスティグマのせいで、みんな恥ずかしくて黙り込んでしまうのです。この沈黙は、さらに状況を悪化させます。教わる機会が奪われるからです。
もっと生理についてオープンに話せる社会だったら、私は大人になるまでトラウマに苦しまずにすんだかもしれません。私たち一人ひとりが、この沈黙の文化に加担しているのだと考えるようになりました。
仕事で起きたあの出来事をようやく誰かに話せたのは去年。これを書くことも居心地が悪く、改めて「生理は恥ずかしい」という考えが、自分の中に根深く残っていると感じます。
どれだけ年齢を重ねても、冒頭で触れた会議での出来事を振り返ると「今でも自分は生理をネガティブに感じることがあるんだ」と思い知らされます。
しかしこういった出来事では「生理は恥」という考えを、自分自身の中だけではなく社会からも根絶してやろうというモチベーションにもなります。
今、私はこれまでないほど、生理をオープンに語ることに熱心に取り組んでいます。
そのために、こうやって自分の生理の失敗について書いたり、生理用品を隠すのをやめたり、スティグマを助長する習慣や行動を疑ってかかったりして、「生理は恥」という考えを壊していきたい。
本やテレビ番組では、女性には生理があるということがいまだにほとんど触れられず、学校などの公的施設や会社などで生理用品を提供する仕組みも整っていません。
それでも、生理が見えないものにされている現実に気付き挑戦することで、物事は変わります。
ありがたいことに、物事は少しずつ変化しますし、SNSはそれを加速させます。@theperioddoctor のように生理について発信する人たちが増えているおかげで、生理について学ぶことができています。
私たちは、半数近くの人が生理を経験する社会に生きています。生理を当たり前のことにし、スティグマをなくすことは、生理がある人だけではなく全員の責任です。
Ronke Jane Adelakun マンチェスター在住のフリーライターで詩人。さまざまなライフスタイル系の記事を執筆。マンチェスターインターナショナルフェスティバル、ブラックバラード、ハフポストなどに寄稿している。社会で黒人女性を起用することを求める活動家で、アフリカにインスパイアされたファッションブランドCulturevilleの設立者。
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。