「へえ、クッキー、自分で焼いたんですか」。意外な顔をされた。インドでの新しい職場2日目、日本人の同僚に自分で焼いたクッキーを手渡したら、だ。
あ、私、別人になったんだ。
新聞記者を辞めたのは13年前になる。34歳だった。「おやつを作って、書く人になる」。そう決めてパリに製菓留学し、京都の長屋にアトリエを構えた。
ずっとシングルのような気がしていたのが、40歳で出産した。
母が末期ガンを宣告された直後だった。家族がいなくなることへ抗う本能からのようなタイミングだった。母が逝ってから半年後、インドに渡った。相方の駐在に帯同した。インドでも教室を開き、本を書く。何の疑いもなかったのが1年前、足かけ12年の「おやつ」暮らしを終えた。
ビザの問題もあった。6歳のケイに「オカーサンはゴハンつくる人」と言われたのも理由のひとつだ。性にとらわれず生きてほしくてユニセックスな名前にしたというのに。
新卒以来25年ぶりに履歴書を書き、インドで就活した。経験のあるマスコミとなると求人はなかった。それにダウンサイズして元の職をやるなら、朝日新聞にいればよかったという話になる。
思い込みの壁を取り払うと世界は広がった。が、ストップがかかった。相方の勤務先だった。せっかく内定をもらったのに「海外赴任に帯同した配偶者の就労」は前例がない、とのことだった。ただ「フツーに」働きたいだけなのに。
「駐在妻」をめぐる状況は50年前と変わらない。私なんぞより100倍、高スペックの女性が「ずっとここにいるわけじゃない」「どうせ2,3年...」と就労をあきらめ、意欲をそがれている。
学歴や職歴が色あせた飾りでしかない。もったいない。
内定から雇用ビザを得るまで結局、4ヶ月かかった。待ってくれた内定先には感謝しかない。
自身も夫のインド駐在に帯同し、就労した白井美和子弁護士は、私にこういった。「配偶者の駐在で海外にいても、自分のキャリアや人生のために働くことを制限される理由はないはずです」「本当は働きたいけれど、パートナーの勤務先との関係でちゅうちょしている方々、これから赴任に同行する方に勇気を与えると思います」。グッときた。
それから1年、派遣社員として働いた。大きなビジネスをかいま見て、ニュースを追いかけていたころの高揚感がよみがえった。もっと働きたい。再び就活し、13年ぶりに正社員の職を得た。イマココ、である。
ハフポストの錦光山さんに言われた。「おやつ記者のその後が読みたいです」。インドから折々、つづっていきたい。