卵巣がん(ステージ3)からの復帰、そして起業

「ここからが私の人生。やりたいことは我慢しないぞ」

こんにちは。

がん患者さんの社会復帰を支援するNPO法人"5years"の大久保淳一です。

私は5yearsの他に「ミリオンズライフ」というウェブメディアも運営しています。

日本各地のがん経験者の方を取材して、がん闘病から社会復帰までの感動的な実話を紹介するサイトです。

これまで27名の方(2017年11月時点)の体験談を公開しております。

今回は、大塚美絵子さん(卵巣がん、漿液性、ステージ3)をご紹介いたします。

本編は第8話まである長編ですが、ここでは要約した短い内容にさせて頂きます。

詳しくは「ミリオンズライフ」をご確認ください。

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大久保淳一

「残念ながら、来年(という時間)は無いかもしれません...」

前の病院の内科医がそう言っていたと知らされた。

「大丈夫。でも、(私は)きっと大丈夫」

根拠のない自信だけはあった。

  • 妊婦のようなお腹

埼玉県さいたま市に住む大塚美絵子さん(56歳、2012年当時51歳)は、5年前の2012年、お腹の周りが徐々に太り出した。

洋服は7号から9号にサイズアップ。

しかも、何とも言えぬ倦怠感があり体調も良くない。

夜中に寝ていると大量の汗をかく。

「きっと更年期が始まったんだろう」

そんな程度にとらえ心配はしていなかった。

しかし6月に入り、様子が明らかにおかしくなる。

胴囲が毎日、毎日、確実に大きくなっていくのだ。

そろそろ病院に行って診てもらおうかと考えだしたころだった。

たまたま実家に帰ると大塚さんのお腹を見て驚いた母親が言う。

「今すぐ(近所の)クリニックに行って診てもらってきなさい!」

まるで妊婦のようなお腹になってきていた。

ただ、何か痛みが伴うわけでもない。

だから、まさか命にかかわるような病気が進行しているとは思いもしなかった。

クリニックの診察室に入ると医師の顔色が変わった。

その瞬間、ぞっとしてあることを思い出した。

「がんかもしれない...。そうだ私は被ばく2世だった」

大久保淳一
  • 神妙な面持ちの医師

クリニックから実家に戻ると大急ぎで東京港区にある東京大学医科学研究所付属病院に連絡する。

2年前に蕁麻疹(ジンマシン)を発症したとき診てもらい、その後は大塚さんのかかりつけ病院のようになっていた。

久しぶりに会った内科医は大塚さんのお腹を見るなり表情が一変する。

「この先生も私のお腹を見たとたんに急に怖い顔になった...」

ことの重大さがわかり始めた。

この日、いろんな検査が行われたが、1週間後に検査結果が知らされることになり一旦帰宅する。

しかし体調は日に日に悪くなり、ついにお腹がパンパンに膨れ上がり歩くのもやっとの状態になってきた。身体は常にだるい。

ちょっとした坂道を歩いてもまるで急こう配の山道を登っているかのように息が切れる。

7月9日、予定通り検査結果を聞くために再び病院を訪れた。

いつも温和な表情の内科医が神妙な面持ちで切り出す。

転院先の相談になり、国際医療福祉大学三田病院を紹介された。

これで3つ目の病院になった。

  • がんの告知

東大病院での検査データをCDに落とし込んでもらい早速三田病院に行った。

三田病院の担当医師は診察室で自己紹介をするや否や、こう言う。

「これは卵巣がんに間違いないと思います。ただ腫瘍(=がん)が大きすぎるので直ぐには手術が行えません。だから、まず抗がん剤治療から始めて腫瘍が小さくなったら手術して取りましょう」

まず「ヘパリン」(抗凝固剤)と言う薬を点滴で落とし、血管内凝固のリスクを下げる処置が行われた。

点滴を開始して5日後、血液データを見てみると肝機能のマーカーが高い異常値を示した。

医師たちに動揺が走り、それまでの自信に満ちていた先生たちの表情が曇る。

これでは、予定通りに抗がん剤治療を行えない。

この瞬間、治療スケジュールは一旦見送りになる。

「がんが進行しているのに私は何も治療を受けられない」

あまりにものショックで、ベッドの中に埋もれるように横たわった。

  • エンディングノート(人生の終わりに向けて)

患者にとって治療が行われないことほどつらいものはない。

刻一刻とがんが進行しているのに指をくわえて見ているようなものだ。

治療ができないという事実の重さに気力を失いだす。

大塚さんは好転しない状況に自分の死の予兆を感じ始めていた。

「これからどうなるのだろう...、いま自分にできる事は何かないだろうか?」

そんな思いからエンディング・ノート(残される人たちに自分の思いを書き留めた文章・手紙)を綴り始めた。

涙を浮かべながら一人一人にメッセージを書き上げてゆく。

家族、友人、恩師、会社の人たち、医師...

ヘパリン(抗凝固剤)をやめて肝機能を回復させる治療に移って3日目、血液データが改善した。

そして7月24日からの抗がん剤治療(パクリタキセル+カルボプラチン)の開始が決定。

ついに始まった全身化学療法。

抗がん剤の効果は劇的だった。

8月の中旬には腹水がなくなり、腫れていたお腹は普通の状態まで戻っていた。

大久保淳一
  • 何のために生きているのか

抗がん剤治療3クールの終わりころに担当の医師からこう言われる。

「抗がん剤はこれまでとして手術に移りましょう。今月一旦退院して自宅でリフレッシュして体力をつけてください。手術は再来月の11月13日の予定です」

薬の副作用で体力を失っていた大塚さんは自宅に戻り、徐々に元気になり出した。

しかし一人でいる時、無性に心が沈むときがあった。

「私は何のために生きているのか?がん治療のために生きているなんて嫌だ。治療が終わっても、その後どうしたらいいのかわからない...」

がんという病が終わってからの自分の人生のビジョンが描けず苦しんでいた。

手術は無事に終わり1ヵ月ほどで退院する。

ただショックなことも伝えられた。

年が明けたら予防的治療として抗がん剤(パクリタキセル+カルボプラチン)治療を3ヵ月間行うというのだ。

抗がん剤の効果は実感していたが、ようやく手術が終わり一区切りつけたにもかかわらず再び治療が始まることにうんざりした。

しかし気を取り直して2回目の抗がん剤治療を受ける。

なぜなら、父が治療していた頃は時代の背景もあり手術後の抗がん剤治療が無かったため、父を含め再発した人たちがいたことを知っていたからだ。

2013年3月、2度目3ヶ月間の抗がん剤治療をやり遂げた彼女には形容しがたい安ど感と解放感があった。

  • がんから2年を目指して

卵巣がん発覚から、抗がん剤治療、手術と大塚さんにとっては試練ともいえる大変な年だったが、それを乗り越えた。

9ヵ月間に及ぶ治療を終え安堵しているのだが、不安は尽きない。

なぜなら卵巣がん(ステージ3)の場合、2年以内に再発する確率が70%という統計値を見たからだ。

「2年以内に3人に2人が再発する...」

その事実に何とも言えぬ恐ろしさを感じた。

一方、2年間不安を感じながら委縮した様な生活を送るよりは、思いっきり人生を楽しもうとも思い出した。

「ここからが私の人生。やりたいことは我慢しないぞ」開き直った。

4月に治療を終えると、四国の金毘羅歌舞伎の鑑賞の旅行に出かけ、

8月にはオーストリアとドイツを3週間かけて巡る旅行にも行った。

抗がん剤の副作用で手足にしびれが残っている。体力だって、まだまだ回復途上だ。

それでも積極的に外を出歩くことで自らの社会復帰を進めていった。

「楽しんじゃえ!」というキャッチフレーズで送った2年間。

ただ、自分の存在価値を自問し苦しみ出す。

  • 放り出された感じ

「(がんから)生き延びたけれど、これからどうしよう...」

今のままでは経済的にやっていけない。

しかし自分がやりたいこと(仕事)が見つからない。

まるで「放り出された」感じがして、どうしたら良いのか解らなくなっていた。

治療を終えてからの2年間は人生を楽しむために、旅行に行ったり、外に出かけて過ごしてきた。

それはそれで楽しいのだが「(働き盛りにもかかわらず、仕事を通じて)社会に参加できていない」ということに焦りと虚しさを感じ出す。

そんな思いが徐々に大塚さんを苦しめ始めていた。

  • ビジネスへの挑戦

大久保淳一

大塚さんの場合、まだ治療が必要とまでは言われていなかったが、浮腫の前兆のような違和感が脚にあり悩んでいた。

一方、医療用ストッキングについて様々な問題が見えてきた。

高価な品物の割には買う前に試着する機会がなく、履き心地が解らないまま買わざるを得ないこと。また、購入して履いてみると想像と違って満足いかないこともあること。ドイツ製の医療用ストッキングが高品質だと聞いていたが、皆、疎遠でなかなか入手できないでいること。

これらに目を付けた大塚さんは、自らドイツ製の商品を小売り販売することを思いつく。

「これなら自分の得意分野の英語とドイツ語を使えるし、がん患者の経験も活かせる」

2016年、そのビジネスを立ち上げた。

ビジネスを軌道に乗せるのはまだまだこれからだが、この挑戦が楽しい。

お店の名前は「リンパレッツ(http://www.lymphalets.biz/)」

がんから生かされた者として、がんサバイバーの生活を快適にするお手伝いをしたいのだと言う。

2017年、がんから5年、大塚さんは再び活躍の場に戻っている。

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今回の取材を通じて、改めて患者が社会復帰することの難しさを感じました。

がん治療を期に退職などして、社会とのつながりを断ってしまうと、治療後、再び働きだすことは容易でないということです。

一方、「前を向いて、積極的に挑戦すれば、いつだって可能性は無限大なのだ」とも感じました。

大塚美絵子さんの全記事(1~8話)インタビュー記事はこちらです。

また、他の26名のがん経験者の方々のストーリー記事はこちらです。

大久保淳一