仕事観を勝手に分類してみた

私が以前ボーっとしながら勝手に考えた仕事観の分類と考察をご紹介しようと思います。皆さんのお仕事上の円満なコミュニケーション実現や就活生の皆さんの自己分析のためのきっかけにでもなれば幸いです。
Image shot in Tokyo, Japan.
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EschCollection via Getty Images

この3月から就職活動が解禁になったそうですね。

私も最近就活生の子の話を聞く機会があったのですけれど、やっぱりとても大変そうです。

色々書いて、あっち行ってこっち行って、緊張とプレッシャーで押しつぶされそうな面接を多々受ける。

ほんとしんどいイベントです。

内定をとるために四苦八苦していると、疲労のあまり「そもそも何で人は働くんだっけ」「仕事って何だろう」とちょっとした哲学的な疑問も湧いてくることもあるでしょう(下手すると面接で聞かれるかもしれません)。

でも、多くの新卒の方たちはバイト程度以外は今まで働いたことが無いわけですから、「仕事って何?」という疑問に明確な解答を見つけることは難しいんですよねー。

自己分析なんかで、こういう仕事に関して考えるステップがありますが、やっぱり仕事という存在の実感がないので、なかなかピンと来ることは少ないのではないでしょうか。

私なんかは結局よくその辺を分かんないまま(というよりあまり考えないまま)就職してみて、実際に働く中でようやく「何で人は働くんだっけ」ということを考えられるようになりました。

それで感じたことは、当たり前といえば当たり前なのですが、人によって働く理由は様々ってことなんですよね。

食べていくためと割り切っている人もいれば、自己実現の一部と思っている人もいます。

その仕事観(仕事の価値観)は本当に多彩です。

仕事観が多彩なこと自体は非常に自然なことと思うのですけれど、「なぜ働いているのか」「仕事とどう向き合ってるのか」人によって仕事観が違うせいですれ違いが起きることも少なくありません。

意識せず自分の仕事観のものさしで他人の仕事振りを評価してしまうと、その人の仕事観からすると不当な評価ということで揉めちゃうわけです。

なので、自分の仕事観はどうなのか、あの人の仕事観は違うかもしれない、などということを意識すると、仕事上での無用なトラブルは減るかもしれないなーと思います。

そこで・・・というほど大層なものでもないのですが、今回は私が以前ボーっとしながら勝手に考えた仕事観の分類と考察をご紹介しようと思います。

皆さんのお仕事上の円満なコミュニケーション実現や就活生の皆さんの自己分析のためのきっかけにでもなれば幸いです。

(1) 好きなことを仕事にする

まず最初の仕事観は「好きなことを仕事にする」です。

「やりたいことを仕事にする」とも言い換えてもよいでしょう。

絵を描くのが好きでイラストレーターになるとか、子どもが好きなので幼稚園の先生になるとか、そういった仕事観です。

「好きなことを仕事にする」というのは一つの働き方の理想として挙げられることが少なくありません。好きなことを仕事にしている分、楽しく仕事が出来て幸せだろうということでしょう。

しかし、それだけ理想として言われるということは、「好きなことを仕事にできる人」は数少ないという厳しい現実を反映しているとも言えます。

また、「好きなことを仕事にする」という仕事観にはいくつかの問題点もあります。

まず一つには、好きなことを仕事にすると、好きなことが好きじゃなくなる可能性があることです。

アマチュアとして好きなことをやる時というのは、自由にやることができます。まさに自分の好きなことを好きなようにやるわけで、要は自己満足なわけです。

しかし、仕事として、プロとしてそれをやるとなると、顧客を満足させなくてはならなくなります。当然、自分と顧客の好みが違う場合は少なくありません。

好きなことを自分の好きなようにすることは出来なくなるので、そこにストレスがかかります。すると、好きなことが変質してしまったように感じて、好きだったはずなのによく楽しめなくなってしまうことがあります。

これを乗り越えて、顧客の好みも踏まえて仕事を仕上げることも好きになることができれば良いのですが、結局のところ自分は自分の好きなことを自分の好きなようにやりたいだけだったとなれば「好きなことを仕事にする」という仕事観が満たされない悲劇になりかねません。

二つ目は、後述の他の仕事観にも関連してきますが、「好きなこと」だからといってその能力が必ずしも高いとは限らないことです。

野球を好きな方というのは日本全国で大変多くいらっしゃると思うのですが、その中でプロになれる方はごく一部です。

野球ほどではないとしても、仕事として「好きなこと」をやろうとすれば、何事もプロとしてのクオリティを求められますから、「好きなだけ」ではダメという現実があります。

この辺りの現実の厳しさが、「好きなことを仕事にする」という仕事観を一つの理想型として掲げる背景にあるんだと思います。

三つ目は、「好きなこと」を仕事にしていると、足元を見られやすいことです。これも他の仕事観に関連してますね。

イラストレーターさんなどのクリエイター系の職業の方に時折あるようなのですが、「あんた好きでやってるんだから、いいじゃん、安くしといてよ。ちゃちゃちゃっと描いてくれたらいいんだし」という具合に「好きなことを仕事にできて幸せなんだろうからお金は要らないだろ」と、何故か報酬を負けられてしまう現象があるんですね。

これは「好きなことを仕事にしている」のはそれだけ楽をしているのだから報酬も下がって然るべきという「仕事は苦労してやるもの」的な仕事観の人との接触で起きてしまうのかなと思います。

他にも、みんながやりたくないけど誰かがやらないといけない仕事はどうするのか、など「好きなことを仕事にする」という仕事観では解決しにくい問題はまだまだありそうです。

(2) 得意なことを仕事にする

次の仕事観は「得意なことを仕事にする」です。

前述の通り、仕事というのは顧客に物やサービスを提供する行為ですから、基本的にはクオリティが高い方が顧客に好まれます。ですから、顧客のことを思えば、仕事は各自が得意なことをやるべきというのは理には適った話です。

経済学で言う比較優位の原理も、個人個人が得意分野を仕事にするように推し進める作用があります。

さて、「得意なことを仕事にする」にも当然問題点があります。

ひとつには、理に適った「得意なことを仕事にする」も情には適わないことがあることです。

例えば前項の逆で「得意なこと」が「好きなこと」とは限らなかったり、次項と逆に「得意なこと」が「社会の役に立ってる」という実感を得られるものでなかったりします。

音楽家の親御さんが子どもにピアノの英才教育を施して、実際にその子もピアノの才能があり、全国でも随一の能力であったとします。当然親御さんはその子はピアニストになるだろうと思っていたら当の本人はピアノは本当は好きではなくて、実は看護師さんになりたかった・・・何とも漫画やドラマ的な話ですが、ここまで極端でないにしろ、得意なことがやりたいことではないということは現実に起こりうる葛藤です。

一度資格なんかを取ってしまうと、そこから脱しにくいというのもこの「得意なこと」の呪縛の一つでしょう。

もうひとつの問題点は、「自分の得意なこと」というのは案外分からないということです。

得意かどうかはやってみないと分からないわけですが、世の多くの仕事は社会人になるまで経験することができません。実際に社会人になってみて薄々自分がこの仕事に向いてるかどうかが分かってきます。しかし、日本のようにまだまだ転職が一般的ではない労働社会では他の仕事を容易に試すことができません。これでは「自分の得意なこと」を見定めようにも比べようが無いのですからどうにもなりません。

かといって、「自分な得意なこと」を探して言わば「自分探し」を続けるのも考えものです。「得意なこと」というのは才能だけで決まるのではなく、努力の量も影響してきますから、いつまでも「自分の才能探し」だけしていては「才能」を「得意なこと」に育てる熟成期間がいつまでたっても始まりません。結果としてこれでは「得意なこと」が得られなくなってしまいます。

程よく色んな自分の能力を試せて、程よいところで自分の何らかの能力を伸ばすステージに上手く移行できるような労働社会のシステム作りが、私たちの今後の労働社会を見る上での一つの課題と言えるかもしれません。

(3) 社会の役に立つことを仕事にする

続いての仕事観は「社会の役に立つことを仕事にする」です。

言わば「利他の精神」とも言うべきこの仕事観ですが、聞こえが良い仕事観であるだけに(本心で思ってるかどうかにかかわらず)様々なところで多用されます。

企業の理念などを見るとどこかしらに「社会に貢献する」という類のフレーズが入っていますし、面接で就活生が使うことも少なくなさそうな気がします。

公務員の方々なんかはまさに「社会の役に立つこと」を求められていますよね。

また、「社会に貢献できる仕事でやりがいがあります」などと、いわゆる「仕事のやりがい」の理由に挙げられやすい仕事観の一つでもあります。

さて、「社会の役に立つこと」それ自体はとても素晴らしいことなのですが、この仕事観にも問題点があるように感じます。

ひとつは、これの掲げる「利他の精神」があまりにも主流の道徳的に優位であるがゆえに、仕事観をこじらせやすいことです(これはちょっと私見が強いところですが)。

利他的な行為(社会のためになること)に利己的な側面(自分の利益になること)が付属していていけないことはないはずなのですが、「利他」を重視するあまり「利己は許さない」となってしまう方が少なくない印象があります。

本来は、「利他」を素直に持ち上げれば良い話なのですが、相対する「利己」の方をけなし価値を下げることで相対的に「利他」を持ち上げるやり方を取ってしまうわけですね。敬語で言う尊敬語と謙譲語の違いのようなイメージと言うと分かりやすいでしょうか。

具体的には、「仕事で社会に貢献する」という利他的な仕事観に、「利己」を下げるために先ほども少し出てきた「仕事は苦労するもの」という観点が加わる場合があります。結果として「あんた好きでやってるからええやん」というように報酬を値引きしたり、善い仕事ほど薄給となったりします。

長くなるのでここではこれ以上は深堀りしませんが、資本主義経済は各々が「利己」を追求することで結果的に全体の経済がよくなるという「利己」を通じた「利他」の実現を狙ってるシステムという側面がありますし、「利己」と「利他」は社会の両輪ではあってもお互いに排他的になるべきものではないと私は考えています。

もうひとつの問題点は、「社会」と「仕事の顧客」は必ずしも一致していないことです。

公務員であれば「社会」が「仕事の顧客」であるので大丈夫(?)なのですが、私企業に勤める場合、直接のお客さんは「社会全体」ではなく、あくまで「社会の一部の方」です。

もちろん「社会の一部の方」に物やサービスを提供することでその方々がさらに他の人に物やサービスを提供できて・・・という連鎖反応で結果として社会全体 にちゃんと貢献できていることは多いと思います。というより、おそらく社会に全く貢献しない仕事というのはよっぽどの悪行を除いて無いのではないでしょう か。

ですが、「社会に貢献したい」という仕事観が強い場合、仕事の顧客が狭い分野のローカルな人たちであったりして「直接的に社会に貢献できている」「大きく社会に貢献できている」という実感が得られないとその仕事観が満たされない可能性があります。

この仕事観が普段の仕事内容で満たされない結果、無理やり組織の中で社会慈善的な活動への舵取りを推進して、後述の個人重視や組織重視の仕事観の方と対立してしまうことも時折生じてしまいます。

ですので、社会貢献の仕事観を持った上で私企業等に勤めようとする場合は、限られた顧客を対象とする中でどのような形で社会に貢献したいのかまで具体的にイメージ出来ている方が良いかなと思います。

(4) 割のいいことを仕事にする

4つ目の仕事観は「割のいいことを仕事にする」です。

高給であったり、休みが多かったりといった待遇が良いなど、少ない労力で大きな利益を生む自分個人にとっての利益効率が良い仕事をするという価値観です。

失職するリスクの少ない安定した仕事を求めることも含みます。

就活が上手く行ってなかったり、失業したり、仕事が無いと困るのでとにかく何でもいいから自分を雇ってくれるところを探す、といったケースもこの仕事観が優位な場面でしょう(無収入でなくて少しでも給料がプラスの方が割が良いということで)。

「この仕事で飯を食っている」と言うように、人は生活していくために仕事をしている面は否定できませんし、このような労働の対価や自己の利益を基準に仕事をするという仕事観は労働の非常に本質的な要素を含んでると言えます。

ただ、言わずもがなですが、この仕事観にも問題点があります。

先ほどの社会貢献の仕事観等と逆に、「利他」的な活動や「組織」を軽視し「利己」にこだわりすぎる場合があることです。

「生活(プライベート)のための仕事」と割り切っているので、仕事がプライベートの活動を妨げることやタダ働きをひどく嫌がります。

業務外時間での研修は「だってオフなんだし」と参加しなかったり、社内の親睦を深めるために企画された飲み会に対し「これって参加義務ですか?ちゃんと残業代出るんですか?」などと何とも情の無い反応を示したりします。

仕事上で「社会のためになることをしよう」と社会奉仕的な色合いが濃い提案がなされると、「何かタダ働き的な割の合わない業務が降ってくるんじゃないか」と抵抗を覚えます。

「仕事のやりがい」といった言葉を嫌い、「ワークライフバランス」という言葉が好きなタイプとも言えるでしょう。

このように「利己」を重視する結果、仕事に主体的に取り組まない傾向が強いために、同僚や経営者からはすこぶる評判が悪くなります。就活の面接などで「楽で高給だから御社を志望しました」と言える人はなかなかいませんよね。

当然、職場の中でも「社会貢献」や「組織の発展」を重視する仕事観の方々との衝突がしょっちゅうおきています。

とはいえ、この仕事観の人がいわゆる「自己中心的」な人間かというと必ずしもそうでないことに注意が必要です。

「あくまで仕事は生活の手段だから利己的に」と考えているだけで、プライベートで慈善活動をしていたり、気前がよかったりします。つまり、仕事はプライベートで社会に良いことをするためのお金稼ぎだと割り切っていることがあるんです。ボランティア活動を続けるために空いてる時間は時給の良いのバイトを入れるといったような感覚ですね。あるいは、自分のためというより家族のための時間を確保するために仕事は早く切り上げたいという家族思いの親御さんだったということもあるでしょう。

ですから、その仕事の部分だけ切り取ると大変自己中心的に見えるのですが、その人の私的な活動まで含んで見てみると、利己的な人物とは言えないケースもあるわけです。

また、仕事ではあえて自己利益を追求することが社会の利益につながると感じている側面もあります。先程も述べた通り、資本主義経済は基本的には各自が自己利益を追求することで経済活動の効率化・適正化が進むことになっています。ですから、こと現代のような資本主義社会の中にあっては、「利己的であること」が結果として社会の利益になる「利他行為」であるとするのはひとつの考えとして決しておかしいものではありません。

ただ、外部不経済などに代表されるように市場原理がいつもいつも適正な動きをするわけではないですし、職場の方々と飲み会などで仲良くなっておいて組織内コミュニケーションが円滑である方が結果として組織の発展につながり給料が高くなったり休みが取りやすくなったりするわけですから、「短期的で単純な割の良さ」だけにとらわれず「中長期的で潜在的な割の良さ」についても注意を払った方が良いのではないかなと感じます。

(5) 自分が成長するために仕事をする

5つ目は「自分が成長するために仕事をする」です。

仕事を通して、今まで出来なかったことができるようになったり、知識や経験が増えたりすることを大事にする仕事観です。

昇進を目指す気持ちもこの仕事観と言えます。

言わば、上昇志向というところでしょうか。

「自分の成長が実感できてやりがいがあります」などとよく言うように、「社会貢献」とともに「仕事のやりがい」理由の双璧の一つです。

(2)の「得意なことを仕事にする」との違いは、「得意なこと」の方はそれまでに既に出来上がった「既知の得意なこと」を基準にしているのに対し、この「自己成長」の方は「これからこれを得意にしていく」というように「未来の可能性」を基準にしていることです。仕事内容をよく知らなくても未経験でも関係ありません。それはこれから学んでいくからです。

(4)の「割りのいいことを仕事にする」とも、ある意味どちらも「自分のこと」を中心に置いている点では似ています。しかし、これらは仕事と生活の立ち位置が正反対です。「割良し」の方は「生活のために仕事がある」と感じているのに対し、「自己成長」の方は「仕事のために生活がある」と感じています。ですので、「自己成長」の方は残業なども苦にしませんし、むしろプライベート時間も独自に仕事につながる勉強を行っていたりします。

この仕事観の問題点としては、「自己成長」志向が過度になると、ルーチンワークや雑用は好まない傾向になることです。

大きな仕事や難しそうな仕事、新しい仕事にチャレンジするのが喜びなので、もうやったことがある誰でも出来そうな古臭い単調な仕事は嫌がるわけです。残業は全然厭わない反面、つまらない仕事には途端にやる気を無くします。

社会や組織のためには、そのような退屈な仕事も必要ですし、そういった仕事も丁寧に続けていればいくらでも新しい発見があるはずなのですが、直接的に分かりやすい「成長」を求めすぎると、どうしても新しく面白そうな仕事に興味が向かってしまいます。

その意味では、部下にすると扱いに気をつけないといけないタイプかもしれません。

(6) 組織に尽くすために仕事をする

6つめは「組織に尽くすために仕事をする」です。

組織の発展を目指す仕事観と言うと分かりやすいでしょうか。

会社の業績が上がって大きくなるとか、市場のシェアを奪うとか、新規市場を開拓するとか。そういった組織の発展に喜びを感じます。

この意味では私企業人のための仕事観のようですが、公務員でも「省益がどうのこうの」などと言われることがあるので侮れません。

(3)の「社会の役に立つことを仕事にする」とは、自分の利益を目指さないことでは類似していますが、尽くす対象が異なります。「社会貢献」の方では社会全体に普遍的に役に立ちたいと感じているのに対し、「組織貢献」の方ではその組織の役に立ちたいと感じています。いわば、チーム対抗戦を戦っているようなもので、「社会貢献」とは異なり「他チームとの競争」の要素が入ってきます。

言葉上は社会と言っても、「日本」という国が外国よりも発展することを目指すといった場合には、こちらの「組織貢献」にあたると思います。

(5)の「自分が成長するために仕事をする」とも、成長や発展を目指すという意味では類似していますが、これも成長すべき主体が「自分」か「組織」かで異なります。経営者ともなってくるとその区別が曖昧となってきますが、経営者の中にも一つの企業の経営に長年ずっと専念する方も居れば、企業を転々としたり、企業を売却しては次の起業にすぐ取り組んだりする方も居るので、それぞれの経営者の心の中には「自分」が主体なのか「組織」が主体なのか違いがあるようにも思います。

この仕事観の問題点としては、極端に組織の論理で動くと、個人を犠牲にしたり社会に不利益を与える場合があることです。

あえて悪徳なケースを挙げれば、サービス残業の強要や、脱税・食品偽装・公害などのいわば犯罪的な行為とその隠蔽などですね。

ここまで極端でなくとも、組織の論理を振りかざして、プライベートを尊重したい「割良し」仕事観の方からの拒絶や、社会正義を目指したい「社会貢献」仕事観の方からの義憤とぶつかることはやはり珍しくない光景です。

一般的な私企業と言うのは、その利益を追求するために設立されますから、組織に所属する以上、組織の利益や発展を願うのは当然のことです。

また、地元のプロ野球チームを応援したり、運動会で偶然分けられた赤組白組でもその組の勝利のために全力を尽くしたりと、所属した組織の勝利を目指すというのは人にとって自然な感情――本能とも言えます。

しかし、あくまで組織というものは人ではなく形の無いものです。組織そのものは発展を喜びも悲しみもしません。

組織という形の無いもののために、いつのまにか組織内外の実体を持った人々が苦しむことがないように、組織の論理の振りかざし方は慎重になる方が良いのではないかなと思います。

(7) やることになってることを仕事にする

さて、ようやく最後の仕事観ですが、「やることになってることを仕事にする」です。

良い表現が思いつかなかったので分かりにくいかもしれませんが、要するに「親の稼業を継がないといけない」とか「うちは医者家系だから自分も医者になる」とか「公務員に絶対なれと親に教育された」といった世襲的・親の影響的な仕事観です。

これは他の仕事観ともちょっと異質です。

今でこそ、ある程度自分の希望に沿って仕事を選ぶことができるようになってはいますが(といってもなかなか希望通りにもいきませんが)、近代以前では親の仕事を子どもが継ぐというのは非常に一般的な形態でした。ですから、そもそも仕事を好みだったり得意だったり何なりで「選択してよい」という仕事観が生まれたのはそんなに古い話ではありません。

そして、現代においても、世襲的な稼業を持たれている家は少なくありません。

この場合、子は「その仕事をやることになってるから」と消極的な理由でその仕事に就くことになります。

この仕事観の問題点は、選んだという実感なく仕事に就くために、うまく他のどれかの仕事観にチェンジできないと辛い思いをする場合があるということです。

最初はやれと言われて仕方なく始めた仕事だったけれど、やってるうちにだんだん好きになってきた、となれば良いのですが、運が悪いと結局、その仕事が好きでも、得意でも、社会貢献や自己成長の実感を得られるわけでも、必ずしも組織の発展が見込めるわけでもないことがあります。

こういう時は、何とかこの「やることになってることを仕事にする」の仕事観の中で充足感を得なければなりません(あるいは掟を破り脱走するか・・・)。

仕事を自由に選ぶことはできなかったけれど、だからこそ、これが運命の仕事なんだとか、伝統を受け継いでいることそのものを喜びとするなど、その「選べなかった仕事」を「選べなかったこと」も含めて受け入れることが必要になります。

こう言うと何とも弱気な考えに思われるかもしれませんが、私は案外そうでもないと思います。

顔の作りや頭の良さ、運動神経、病気の有無などなど、人は生まれながらにして不本意なことを山ほど抱えています。

就く仕事が生まれながらにして決まっていることだって、その山ほどある不本意の一つの要素でしかなく、人生においてはこのような不本意は珍しいことではありませんし、仕事が自由に選べる他の人だって何か他の不本意を抱えているかもしれません。

だから、それに文句を言ってもどうしようもありません。

何にしたって人生は配られたカードで戦うしかない、この手札の中でどうプレーするかは自分で決められる、そう割り切れたならば、与えられた仕事も自分のものにできるのではないでしょうか。

まとめ:天職は自分に聞くしかない

というわけで、思いのほか長々となってしまいましたが、以上が私の勝手に考えた仕事観の分類になります。

私なりに大きなところは押さえたつもりですが、個人個人多彩な仕事観がこんなに綺麗に分かれるはずもなく、これで網羅できたというわけでもないでしょう。

また、読んでいて思われたと思うのですが、これらの仕事観は互いに排他的なものではありません。多くの方が多かれ少なかれ複数の仕事観を心に抱えているはずです。

そういう意味では仕事観の分類というより仕事観の軸と言うべきかもしれません。

ただ、それでもどの仕事観を主に抱えているかというのは人によって違うはずです。

冒頭にも書いた通り、この主に抱えている仕事観の違いで、すれ違いが起きてしまっていることは少なくないと思うのです。

例えば、自分に向いている仕事は何かという話をした時、ついつい「得意」仕事観の人はあなたの得意なことを活かせる仕事を勧めて来るでしょうし、「社会貢献」仕事観の人は今の世の中で大きな問題となっていることに関する仕事を勧めてくることでしょう。

しかし、あなた自身の仕事観が実は「組織の発展」であったとすれば、お勧めされた仕事が必ずしも自分に合っているとは言えない可能性がありますよね。

やっぱり最終的には自分の天職は自分に聞くしかないんです。

そして、自身の仕事観を見つめる経験をすることでこそ、他の人の仕事観を尊重することもできるようになるんだと思います。

【参考記事】

P.S

実際のとこ、「何のために仕事するんだろう?」「仕事ってそもそも何?」「これって私に向いてる仕事かなぁ?」というのは就活時だけでなく、就職してからもずっと悩むところです。

悩んだ結果、天職を求めて転職する人もちょいちょい居ます(私も正直そんな感じの一人です;)。

まあ、それも人生ということで!

(2015年3月12日「雪見、月見、花見。」より転載)

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