「いまさら綺麗事だと思われるかもしれませんが、ぼくはやはり人の役に立ちたいんです」
乙武さんは、そう言って前を向く。
1998年に発売された600万部超の大ベストセラー『五体不満足』によって、四肢欠損でありながも前向きに生きる障害者として知られることとなった乙武洋匡さん。彼の登場が世間に多大なインパクトを与えたことは想像に難くない。
以降、乙武さんはスポーツライターや小学校教諭を経て、執筆や講演、メディア出演などの発信活動を続けてきた。挑戦する彼の姿に勇気をもらった人も多いはずだ。
しかしながら、2016年に起きた不倫騒動により、乙武さんは世間から大きなバッシングを浴びることとなる。そして、メディアの最前線からその姿は消えた。
乙武さんが表舞台に立つことは、もう二度とないのだろう。当時は、誰もがそう思っていたに違いない。
ところが、乙武さんは再びメディアの注目を集めることとなった。
2018年11月に発表された義足プロジェクトだ。「OTOTAKE PROJECT」と名付けられたそれは、乙武さんが最新のロボット義足により「二足歩行」にチャレンジするというものだった。
2019年11月には、プロジェクトの全貌を綴った著書『四肢奮迅』が発売された。描かれていたのは、ひたむきに「歩くこと」に挑戦する乙武さんの姿だった。
彼はなぜ、新たなチャレンジに身を投じたのか。耳の聞こえない両親を持ち、聴覚障害について伝えるライターの五十嵐大さんがその思いを聞いた。
どん底に落ちた人間が立ち止まって考えたこと
――四肢欠損の状態で生まれた幼少期の頃から、義足エンジニアとの出会い、そして「乙武義足プロジェクト」の全貌が描かれた『四肢奮迅』を読んで、あらためて乙武さんの人生がひとつの物語のように眼前に迫ってくる印象を覚えました。
ありがとうございます。それはきっと乙武洋匡という人間についての事前情報をある程度知っていただいていることも関係しているのかもしれません。
『五体不満足』で世間に登場した私は、4年前の騒動で“社会的な死”を迎えました。もちろん、あの騒動については身から出た錆ですし、私の不徳の致すところです。時計の針を戻すことはできませんから、世間の評価を受け止めて進んでいくしかありません。
ただ、そうしてどん底に落ちた人間がまた新しいことにチャレンジをしているというのは、創作である小説ともまた違う、生々しさや泥臭さにまみれているのかなと思います。そこに物語性が生まれているのかな、と。
――当時は相当なバッシングもありました。乙武さん自身も世に出るのが怖くなってしまったのではないかと想像します。それでも再び発信をしようと思った理由はなんですか?
いまさら綺麗事だと思われるかもしれませんが、私はやはり人の役に立ちたいんです。
当時はもうそれもかなわないのかな……と途方に暮れていました。そんなとき、義足エンジニアである遠藤謙さんからお話をいただいたんです。
彼はそれまで困難だとされていた「人間の膝を再現するモーターの開発に成功しました。でも、その技術を大勢の人に知ってもらおうと考えたときに、学会のようなクローズドな空間で発表するだけでは、なかなか広められない。
そこで遠藤さんは、私を歩かせることができたら、世間に非常に大きなインパクトを与えられると考えたんです。まさにプロデューサーとしての視点ですよね。
声を上げるだけでは、きっと社会は変わらない
――遠藤さんが「どうすればより大勢の人に届けられるか」を考え抜いた結果、乙武さんに白羽の矢が立った。
私はオファーをいただいて、自分ごとながら「なるほどな」と思いました。
たとえば、いまはマイノリティについての情報がメディアでも頻繁に取り上げられるようになったと感じますか?
――そうですね。一昔前よりも可視化されるようになったと感じています。
でも、それは(五十嵐さんが)「アンテナを張っているから」だと思うんです。マイノリティに興味があって、そのジャンルについて知りたいと考えている人には、彼らの存在が可視化されたと言えます。
ただし、多くの人に伝わっているかというと、まだそこに至っていないと思うんです。
たとえば、いまだにLGBTQという言葉の意味を理解していない人が圧倒的だし、(本人の了解を得ずに、公にしていないセクシャリティを暴露する)「アウティング」がどれだけ命に関わる問題なのかを知っている人もほとんどいない。
だからこそ、遠藤さんのように「戦略を立てること」が大事なんだと思います。
「つらいんです」と声を上げることだけが目的ならば、そこまで考える必要はありません。誰もが発信できる時代なので、「つらい」と声を上げればいい。
でも、「社会を変えること」をゴールに据えるのであれば、愚直に声を上げ続けるのではなく、道筋をしっかり考えなければいけないんです。
マイノリティが抱える問題って、マジョリティからすれば「どうでもいいこと」だと受け止められがちなので。
――どうしてですか。本当は「どうでもいいこと」じゃないのに。
そう。でも、マイノリティに思いを馳せる場面やきっかけがなければ、人は意識を向けることはないと思うんです。むしろ、それが自然なこと。
私は障害者として生まれたからこそ、障害についてたくさん考えてきましたけど、仮に障害がなかったとしたら、きっと広告代理店あたりで鼻持ちならない生活を送っていたんじゃないかなと思いますよ。障害者のことを考えることもなく。
でも、それは「無視をしている」のではなく「意識すらない」ということなんだと思います。
そもそも、人間はエゴの塊なので、「平等が大事」だとは思っていても、そのためにどれだけ自分のリソースを避けるかどうかは別問題。
「確かに障害者は大変かもしれないけれど、どうして俺らがそこまでやらなきゃいけないの?」と考えるのは自然なこと。だから、戦略を練って、伝えていくことが重要になるわけです。
『五体不満足』が世間にもたらした“功罪”
――『四肢奮迅』には、「『障害者』というバイアスに苦しめられてきた」という記述がありました。なにかを頑張れば「障害者なのにすごいね」と言われ、失態を犯せば「障害者のくせに」と過剰に批判されてしまう。障害者のコンテンツに対して、「感動ポルノだ」という声もたびたび目にします。
そういった批判については、私も20代の頃に非常に悩みました。『五体不満足』を書いたときに、さまざまな声が届いたんです。なかには、ネガティブな意見もあって驚いたし、正直戸惑いました。
でも、表現物をどのように受け取るのかは十人十色で、それに対して「こう受け取ってください」と強制することはできません。
数年かけて出した結論は、「どっちを取るか」。
自分が発信をやめてメディアから姿を消せば、不快な思いをする人はいなくなる。同時に、自分の発信からポジティブな感情を受け取ってくれた人たちに、声を届けることもできなくなる。
表現をする人間として、ネガティブな意見を受け止めながらも応援してくれる人たちのために発信を続けるのか、すべてをやめてしまうのか。その二択から選ばなければいけないと思ったんです。
そして、最終的には、私の姿を見るだけでイライラする人たちには「本当にごめんなさい」だけれども、やっぱり私のメッセージを待ってくれている人たちに向けて活動を続けていこうと決断しました。
――乙武さんにも悩んだ時期があったんですね……。
そもそも、『五体不満足』には功罪があったと思っています。
功の部分で言うと、「未知との遭遇」という役割が果たせた。
障害者に触れたことがない健常者にとって、障害者はまるで別世界に住んでいるような存在です。でも、『五体不満足』によって、とっつきやすさを感じてくれた方は多いのかなと。別世界の生き物ではなく、同じ社会に住んでいる存在なのだと知ってもらえたと思うんです。
一方で『五体不満足』の罪はなんだったのか。それは、障害者について「知った気持ち」にさせてしまう本だったということ。
障害者といっても、どんな境遇で育つかは人それぞれです。幸いにも私は環境に恵まれていました。両親から愛され、先生の指導や友人の温かさを受け取ってきた。
でも、なかにはそうではない人たちもいます。障害を理由に過酷ないじめに遭ったり、両親から辛辣な言葉を浴びせられたりしてきた人たちも存在するんです。
本来であれば、もっとそのことに触れる必要がありました。障害者の生きづらさや、解決すべき問題を知ってもらわなければいけなかった。
でも、『五体不満足』を読んだ人たちに、「乙武さんという障害者はこんなに前向きなんだ。障害者でも、こんなに楽しく生きられるなら大丈夫なんだね」と思わせてしまった。
でも、そうした罪を背負いながらも、私は発信を続けていきたいと思っています。
乙武さんが「義足」で歩き続ける理由
――乙武さんが活動を続ける原点は、やはり社会を変えたいという思いですか?
そうですね。人の役に立ちたいですし、社会を変えられたらいいなと。ただし、“マイノリティ・マッチョ”になってはいけないと思っています。
障害者として生まれ育った境遇としては、私はおそらく(障害者のなかでは)強者になるはず。そういう人間が陥りがちなのが、「自分はこんなに頑張っているんだから、みんなもできるはずだ」という考え方なんです。
でも、それはすごく思い上がった発想ですよね。同じ障害者だとしても一人ひとり境遇は異なりますし、それは健常者にも言えます。
なかには家庭環境に恵まれなかった人もいるでしょうし、経済的な余裕がなかった人もいるでしょう。容姿で苦労をしてきたりした人もいるかもしれない。そういったさまざまな要素に目を向けず、「みんなも頑張れ」と言ってしまうのは乱暴な話。
そうしたことも踏まえて私が目指しているのは、誰にでもチャンスが与えられる社会です。
どんな境遇の人だって、頑張ろうと思えば頑張れるし、頑張れない人のことも認めてあげる。そんな社会を実現できたらいいなって。
――そんな社会の実現に向けて、乙武さんは「頑張れる人間」だから頑張っているわけですね。
今回の「義足プロジェクト」を続けているのも、頑張れるから。『四肢奮迅』は、2019年の夏に20メートル歩くことができた場面で終わっていますが、プロジェクト自体は終わっていません。
秋には途中で立ち止まる練習や、曲がったりUターンしたりする練習に明け暮れました。この冬には、軽い坂道にチャレンジしたり、わずかな段差を超える練習にも取り組んでみる予定です。実は義足って、段差を超えるのが難しくて。わずか数ミリでも大変なんですよ。
――このプロジェクトの最終地点はどこになるんですか?
まだまだやれることは残っていますし、メンバーの誰も満足していないんです。私が取り組んでいる間に実用化に至るほど簡単ではないとも思っています。
それでも続けるのは、未来のため。
私たちの取り組みが次の世代へと引き継がれて、彼らの研究結果もまた次の世代に引き継がれて、ようやく実用化できればいいかな、と。
そのためにも、めちゃくちゃしんどいけれど、「歩き」続けていこうと思っています。
乙武さんの新刊『四肢奮迅』は講談社から発売中。
(取材・文:五十嵐大 写真:川しまゆうこ 編集:笹川かおり)