東アフリカの小国・ルワンダ。1994年に起こった大虐殺でよく知られる国だが、いまや政情も安定し、目覚ましい経済成長を遂げる新興国となった。
ルダシングワ・ガテラさん、ルダシングワ(吉田)真美さん夫妻は、虐殺の爪痕が残るこの地で、1997年から義足の製作を始め、障害者に無償で提供を続けている。
彼らの「Mulindi Japan One Love Project」(ムリンディ・ジャパン ワンラブ・プロジェクト)が、2017年に20周年を迎えた。
「どこでも良かった」と語る真美さんは、どうして26歳でアフリカに渡り、ガテラさんと出会ったのか。なぜ義足を作り続けたのか。ハフポスト編集部で、作家の乙武洋匡さんが帰国中の2人にこれまでの歩みを聞いた。
女26歳、とにかく逃げたかった。
――まず、一番初めに真美さんがルワンダの地を訪れたのは何年だったんですか?
ルダシングワ(吉田)真美さん(以下吉田):たしか90年だったと思います。ケニアのナイロビで日本人が運営しているスワヒリ語の学校に行ったんです。半年くらい学校に通って、ちょっと東アフリカを旅行しようと思ってルワンダにも行ってみた感じです
どこでも良かったんです。OLをやっていたんですけど、私が働いていたのは特許を扱う法律事務所で、周りにいる人もおじさんばっかりで。その人たちにしか会わないことに何か焦りを感じたんですね。このまま年をとっていくのかなって。
とにかく逃げたいと思って、たまたま仕事の帰りに手にとった「地球の歩き方」に載ってたんですよ。「ケニアでスワヒリ語勉強しませんか」って。5カ月有効の航空券も入って寮のお金も入ってたしか70万円。金額を見たら結構安かったんです。
――当時はおいくつだったんですか?
吉田:ケニアに行ったときは26歳でした。ルワンダにあるヴィクトリア湖をぐるっと回るトラックツアーがあって、それに参加して、ルワンダには2泊しかしなかったです。
――どんな印象でした?
吉田:私のいたケニアは英語圏だったので、メニューにしても看板にしても英語で書かれていたんです。当時ルワンダは、まだフランス語をメインで使っていたので、メニューもフランス語で書いてあったから、自分にとってはフランス語のニュアンスが強くて、ちょっと気取った国という印象でした。
ただ、そのときすでに彼(ガテラさん)の存在を知っていたので。
――ルワンダに行く前に?
吉田:ケニアで勉強していたとき、長屋に住む日本人の友達を訪ねていったら、同じ長屋に彼が住んでいたんです。暑い中、私がボーッと友達が帰ってくるのを待っていたときに、「僕の部屋というか、ここ座って待ってたら」と言ってくれたのが初めての出会いです。
彼がルワンダ人だったので、湖のツアー行く前にルワンダのこととかを聞いたりしました。
彼はアフリカの木彫りのお面や彫刻を、ケニアに卸して売っていて。私も民芸品に興味があったので、「あのお店にこういう人がいるから行ってみたら」とか教えてくれましたね。
私が行く2年ぐらい前から彼はナイロビに。ルワンダの情勢が危ないから、ケニアに来て難民として生活していたんです。
――虐殺が起こる前ですよね。ルワンダはどうだったんですか?
吉田:日本人が行って、不穏な動きは感じなかったですね。ただ、ルワンダだとツチ族とフツ族が対立する構造が出来上がっているから、その名前を口にしないほうがいい、というのは、彼から言われたかな......。
右足が不自由な難民、ガテラさんに惹かれた理由
――ルワンダへ移住することになったきっかけは?
吉田:ルワンダの国に魅せられたというよりは、彼の人柄......。ケニアで会ったときもそんなに話はしなかったんですけど、彼の存在がすごく印象に残ったんです。そのときは好きとか嫌いとかじゃなかったんですけど、「この人のことを知りたい」と。
日本人の女性に対して、10分しか経ってないのに「結婚しよう」とか、周りにはそういうケニア人もたくさんいたんですけど、彼はそういうことを一切言わなかった。
ルワンダに虐殺があることとか障害者の立場とか、アフリカやルワンダの負の部分を話してくれて、そういうことを話す人がいなかったから、印象に残ったんだと思う。
――嘘のない、信頼の出来る人だと。ガテラさんの障害の状況と何による障害なのか、お聞きしていいですか?
吉田:ちょっと聞いてみますね。
ガテラ:記憶に残ってないので、小さいときだったと思います。1歳くらいのときにマラリアにかかって、治療のためにお尻に注射を打ったら、それが神経を刺激してしまって、右足が動かなくなりました。左足も筋力がかなり弱い。
――右足が不自由。ほとんどの人生、右足は動いてない?
ガテラ:ない。歩いた記憶もないです。
――真美さんとガテラさんの距離が縮まったのはなぜですか?
吉田:日本に戻ったとき、私には7年間お付き合いしていた人がいたんですね。「このまま結婚するんだろうな」と思っていたら、ケニアから戻ったらフラれたんです。クリスマスの日に。
7年ずっと一緒だったので落ち込んで、ガテラに手紙を書いたんです。「つらいよ」という内容の手紙を書いたら、返事をくれた。時間はかかったんですけど。
彼の手紙には、「ドイツから戻ってくるときに、ルワンダの空港で捕まった。敵対する民族だという理由で捕まって、拷問を受けた」と書かれていました。ドレッドの髪も全部引きちぎられて、その写真が一緒に入っていたんです。
自分の全然知らない世界――。民族が違うだけで、拘束をされて拷問を受けることを知らなかった。手紙の返事に「私だけがつらいわけじゃない。自分はこういう目に遭ったし、他にももっとつらい人がいるんだ」と書いてあって、「こういう人が世の中にいるんだ」と惹かれはじめました。
――ルワンダに住むまでは、どういう流れだったんですか?
吉田:私がさらに返事を出して、しばらく文通をしていて...。
何となく自分の中で惹かれていると分かりはじめて、彼の手紙からも何となく私のことを好きかなってニュアンスが出てきて。自分の気持ちを確かめなきゃいけないってケニアに行ったんです。そこで会って、お互いの気持ちをくみ取って、分かり合って......。
当時、彼は難民という立場でケニアにいて、お面を売る商売をしていました。別にケニアでやる必要はないと思って、一度日本に来てみましょう、と誘ったのが91年です。
日本の義肢製作所でひらめいたこと
――今度はガテラさんが日本に来たんですね。
吉田:日本に来て、彼の装具が壊れちゃったんですよ。義足や装具のことを一切知らなかったから、どこで誰がどういう物を作っているのか分からなくて。探した結果、横浜にある義肢製作所にたどり着いて、新しいのを作ってもらったんです。
石膏で型取りをするじゃないですか。それを見たときに、お互いひらめいた。
私は型を取っているのを見て、「彼の足を作れるようになったらいいな」と。彼はルワンダという国の人で、いろんな紛争があって、子供の頃は障害者の施設で育っていたので、そんな人たちの状況を目の当たりにしていたわけです。
「この技術でルワンダの人の手助けをできる」と思って、2人ですぐに話をしたんです。彼は日本に長くいられる資格がないから、戻らなきゃいけない。だから私に「この技術を勉強しなさい」と言いましたね。
――いよいよ真美さんが向こうに行くことに決めたわけですね。やっぱりケニアじゃなくてルワンダに?
吉田:やっぱり彼の国はルワンダです。彼と「これ(義足)を勉強しましょう」となって5年間、私が日本で勉強して資格を取ってから行ったので、実際に移り住んだのは97年。
日本で勉強しているときに、94年の虐殺が起きました。そのとき、彼はケニアにいました。
ルワンダの大虐殺、小さな村での誓い
――それぞれに聞きたいんですけど、まずガテラさんは、隣国で自分の国で虐殺が起こって何を思いましたか?
ガテラ:94年の虐殺が起きたときはケニアにいました。ニュースを聞きながら「この中で本当に生き延びられる人はいるんだろうか」と思いながら。
虐殺が終わった後、10月にルワンダに戻ったんですけど、そのときは、あちこちに遺体が転がっていて、人がまだ十分な生活が出来ない状態でした。
その時はすでに、ルワンダに戻って義足を届ける仕事をやりたいと思っていたので、「虐殺のために手足を失った人がいたら、自分達が助けよう」という思いでいました。
――またいつ虐殺が起こるかも分からないなかで、「このままケニアでいいんじゃないかな」「日本に住める方法はないか」と揺れたりはしなかったんですか?
ガテラ:他の国で生活をしよう、仕事をしようとは一切思っていませんでした。
90年ぐらいから不穏な動きは出ていて、友達も「愛国戦線」という反政府軍に入って前線で戦っていました。その都度いろんな人から状況を聞いて、反政府軍が負けるとは思わなかったので、ターゲットはルワンダだけでした。
吉田:私達の団体は「ムリンディ・ジャパン」という名前なんですけど、ムリンディというのはルワンダの中にある小っちゃな村で、そこに愛国戦線の拠点があったんです。
彼は、日本の義肢製作所から中古の義足を何本かもらって、担いで帰ったんですよ。
ムリンディに義足を持っていって、他の国に逃げていたルワンダ人たちが集まって「愛国戦線」を支援する集会で、「ルワンダが平和になったら、足を失くした人には僕達が義足を作る」と。兵隊に対しても「自分達のために戦って、もし足を失くしたら足を作るから戦ってください」と話していたんです。
――ガテラさんには「やっぱり自分の国だから」という信念があった。真美さんにとっては、いくら好きな人の祖国とはいえ他人の国。気持ちは揺らがなかったですか?
吉田:テレビを見たり新聞を読んだりして、とんでもない状態になっていることは分かってたんですけど、怖さはあまり無かったです。
全部彼に結びついちゃう部分があるんですけど、子供のときから、彼は大変な目に遭っていた。障害もそのひとつかもしれないし、ルワンダでも大きな虐殺は94年になりますけど、小さなものは59年から始まっていて、彼はそれを生き延びてきた。
虐殺に巻き込まれるといけないと、彼の家族は隣の国に逃げたんですけども、彼に障害があったので、足手まといになるからって、一緒に逃げて......連れて行ってもらえなかった。
要するに、彼は捨てられて障害者として育ったんですが、色んなことがあっても生き延びてきたので、多分この人の話を聞いていれば、滅茶苦茶危険な目には遭わないだろうと。
例えば、彼が「まだ今は時期じゃない、ケニアにいよう」といえば、じゃあケニアなんだなと。でも「ルワンダはもう大丈夫だ」といったら大丈夫なんだろうと思っていました。
――ガテラさんのサバイバル能力を信じたんですね。虐殺があったのが94年。実際に移住された97年、国はどんな状況でした?
吉田:97年はもう普通でしたね。生活する上では不便もなかったです。もちろん建物が壊されていたり銃の跡があったり、そういう影響はありましたけど、ちょっと拍子抜けの部分はあったかもしれないです。
停電したり、水が十分に手に入らなかったり、たしかに不便な部分はありましたけど、そんなに支障ではなかったし、まだ若かったので楽しんでいたところもありました。
ただ、「ここで虐殺があったんだな」と確信したのは、大きなお墓というか、殺された人達の遺体をバーっと埋めるための穴が掘ってあったこと。それを見て、腐っていく臭いを嗅いだときに「ここでこういう事があったんだ」と。
20年間、無償で義足を届けてきた理由
――実際に「ワンラブ・プロジェクト」の活動を始めたのはいつですか?
吉田:97年です。その前から資金を集めたり、日本でいらない義足をもらったりはしていたんですけど。
――2017年でちょうど20年。任意団体として寄付で運営していて、義足も販売ではなく寄贈している?
吉田:基本は無償で配ってます。
――成り立つものですか?
吉田:厳しいですよ。だから、例えばこうやって日本に帰って来ると、色んなところで話させてもらって、謝礼もらったり寄付集めたりやっていますし、助成金があれば、申請書を書いたりしています。
最初の頃は、全部寄付ってやっていたのでだんだん卑屈になっていました。自分たちでお金を生み出せず、常に人にお金をお願いするという姿勢は、精神的に厳しいです。だから今は、ルワンダでゲストハウスやレストランやって、生活費や活動資金に充てています。
――この20年間で、「延べ」何足くらい義足を作られたんですか? 同じ方でも20年あったら2足、3足と使われたかもしれないですね。
吉田:一人で「義足」と「杖」のセットで「2」と数えるんですけど、だいたい今ルワンダで延べ8300...。
――8000!
吉田:杖だけを渡す人も多いんですよ。義足ってどうしてもコストが上がるので、なかなか作れない。どうしても予算を考えないといけない。杖は、基本的に建築資材用の鉄パイプ。これだったらルワンダで手に入るので。杖の場合はペアで1個と数えます。
数値があいまいなのは、データをずっと紙で残してたんですけど、何度か大きな洪水の被害があって、全部なくなったからなんです。
――「洪水で流されちゃった」という情報もすごく生々しいですね。今ルワンダ国内で使われている、もしくは作られている義足の何割ぐらいが「ワンラブ・プロジェクト」のものかわかりますか?
吉田:何割というのは難しいですが、半分は超えていると思います。
ガテラ:最近は他にも義足を作るところが出てきたり、私達のところで勉強した人が独立したりしているので、もうちょっと増えると思うんですが、需要と供給は、まだ需要のほうが全然多い。
吉田:20年間同じような技術を使いながらやってきて、技術的に良くしたいって思いがあるんですけど、どうしても材料がルワンダで手に入らない。
日本の企業から「3Dプリンタを使って義足を作ろう」という話もあるんです。もしそれが出来るようになれば、短い時間で安くたくさん作れるようになるから、すごくいいなと思います。
――ゴールはありますか?
吉田:今の活動が、私達がいない状態でも動いていけるように持っていくことですね。でも私自身の、個人のゴールはないかもしれません。
――20年止めずに続けてきたモチベーションは? レストランとゲストハウスだけやって、義足を作るのを止めたら、大分楽になりますよね。
吉田:うーん......。多分、言っちゃった手前、今さら後に引けないのもしれない。
商売人になろうとは思わない。もちろんレストランで美味しい物を提供したいとか、そういう意識はあるんですけど、それで食べていく気持ちにはならない気がします。
これを取っちゃったら、私に何も残らないような気がするんですよね。
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(聞き手:乙武洋匡 構成:笹川かおり)