12月14日午前11時、沖縄県名護市の辺野古沿岸に、国が土砂の投入を開始した。
土砂の投入は、アメリカ軍普天間飛行場の返還に伴い、辺野古へ基地を移設するためだ。
14日朝、沖縄防衛局が「埋め立て工事に着手する」と県海岸防災課へ連絡。
玉城デニー知事は報道陣に対し「予定ありきで県民の民意を無視して進める工事に強い憤りを禁じ得ない」と感情をあらわにした。
辺野古沿岸への新基地建設に対し、反対を表明している玉城知事は、前日の12月13日、菅義偉官房長官や、岩屋毅防衛相と会談し、翌14日に迫った辺野古沖への埋め立て土砂投入に再度中止を求めていた。
会談前には自身のTwitterを更新。「言いなりにはならない」と決意を述べていた。
辺野古移設って?
そもそも「辺野古移設問題」とは何なのか。日米両政府が1996年4月に普天間飛行場の返還に同意してから22年。
歴代の沖縄県知事は政権とどのように対峙していたのか。その流れを、いままでの報道をもとに時系列でまとめた。
1996年――橋本龍太郎首相、ビル・クリントン合意「普天間返還。移設先は海上」
1996年4月12日、大田昌秀県知事(当時)は、橋本首相(当時)から電話を受けた。
「普天間が返ることになった。協力してくれ」
大田知事は、即答せず「県三役に相談する」と伝えた。
「基地のない暮らし」は念願でもあった。
1995年のアメリカ兵による小学生の少女暴行事件をきっかけに、県内では「反基地感情」が高まっていた。
前政権との衝突もあった。日米安保の堅持を掲げた前・村山富市首相が、米軍用地の強制使用について、代理署名を拒否した大田知事を相手取って職務執行命令請求の訴訟を起こし、係争していた。
この年の3月には、判決が下された。大方の予想通り、大田昌秀知事に代理署名を命じるものだった。
この裁判は、本土と沖縄の深い溝を見せつける結果となった。
前政権の宿題として残された普天間移設問題。引き継いだ橋本首相は、クリントン大統領と詰めの協議を続けた。4月の大統領来日までに、何らかの形を示すことを目指していた。
大統領来日目前の4月12日夜、橋本首相はモンデール駐日米大使(当時)と会談。
共同記者会見で「普天間飛行場は今後五年ないし七年以内に、全面返還される」と発表した。
9月には、普天間飛行場の返還に対し、ヘリポート移設先として「撤去可能な海上ヘリポートの建造」をアメリカ側が提案。両政府がこの案を受け入れることとなった。
移設先は当初、沖縄本島東側の中城湾などが浮上した。しかし県が埋め立て開発事業に支障が出るとして反対し、名護市辺野古沖のキャンプ・シュワブ水域に焦点があてられた。
これが現在まで問題となっている名護市辺野古への移設とつながっている。
1998年――県内移設賛成派の稲嶺恵一知事が誕生
1997年12月21日、辺野古沖への移設について、名護市の市民投票が行われた。
投票者数に対し、反対52.86%、賛成45.33%。投票率は82.45%となった。
この結果を受け、翌1998年の年明け、大田知事は「結果を尊重することが大事だ」と所感を述べ、2月に正式に反対を表明した。
しかし、同じく2月には、名護市長選で海上基地建設賛成派が推す岸本建男氏が初当選。
11月の知事選も辺野古移設反対の現職・大田氏に対し、県北部に軍民共用の飛行場建設を掲げた新顔の稲嶺恵一氏が当選。様相が変わった。
1999年4月には、2000年の沖縄サミットが決定。基地問題を21世紀に繰り越したくないという焦りも見え始める。
稲嶺知事は辺野古への移設に際し「米軍使用は15年」という期限を要請した。「移設案」が一気に進むと思われた矢先、アメリカ側がこの期限に難色を示す。
2006年――現行案「辺野古にV字滑走路」に日米両政府が合意
2004年8月、沖縄国際大学に米軍ヘリコプターが墜落した。この事故を機に、再び基地問題が注目を浴びた。
当選当初、辺野古への移設を進めていた稲嶺知事。だが、移設は反対派の抵抗で現地調査が滞っていた。
政府は県に反対派の排除を要請したが、稲嶺知事が拒み、徐々に政府との関係は冷え込み始めた。
そんな状況下の2006年5月、日米両政府は「名護市辺野古崎にV字形の滑走路を造る計画」(現行案)に合意。
移設先を沖合から沿岸部にしたことに対し、集落へ近づいたことに懸念を示した稲嶺知事は、政府の計画を拒否した。
この年の12月、稲嶺知事は退任する。2期8年で普天間返還が叶わなかったことに対し、記者会見で「一生懸命やったが、(戦後から)61年の糸が絡まっていて、なかなか解けない」と述べた。
後継となった仲井眞弘多知事は、稲嶺氏の時代よりも政府との関係性を重視した。「現行のV字形案のままでは賛成できない」としながらも、県内移設も「やむを得ないことはあり得る」との姿勢を示した。
一方で2008年には、野党が多数派を占めた県議会で、辺野古への移設に対する反対決議が議決された。
2009年――「最低でも県外」政府に翻弄される沖縄
2009年、長く政権を握っていた自民党が大敗し、民主党政権が誕生する。
衆院選を前にした7月19日、民主党の鳩山由紀夫代表(当時)は、県内の聴衆に向かってマイクを握った。
「最低でも県外、その方向に向けて積極的に行動を起こさなければならない」
この「最低でも県外」は、9月に始まった鳩山政権の公約でもある。
基地問題の気風は一気に潮目が変わった。2010年には、名護市長が辺野古移設反対派の稲嶺進市長に変わった。移設容認派だった仲井眞知事も、同年11月の知事選挙で「県外移設」を公約に掲げた。
だが、鳩山政権は1年も経たず論を覆し、「県外移設」の断念を表明。県外移設で盛り上がった民意は地に落とされた。
2012年――第2次安倍政権の誕生。仲井眞知事「埋め立て承認」、地元の反発
3年間の民主党政権は、基地移転問題が進まないまま幕を閉じた。2012年12月、政権は自公のもとに戻り、第2次安倍晋三内閣が誕生した。
県内移設を拒んだ仲井眞知事と、辺野古移設を進めたい安倍政権の折衝は1年続いた。交渉では、「オスプレイ訓練の沖縄県外での引き受け」などの新たな基地負担軽減案が提示された。
2013年12月27日、仲井眞知事は普天間基地を辺野古へ移設するための国の埋め立て申請を承認した。この選択は県民の反感を買い、仲井眞知事は2014年11月の知事選で10万票近くの差をつけられ、惨敗に終わる。
2015年――辺野古移設反対、翁長雄志知事の抵抗
この知事選を戦ったのは、那覇市長を務めていた翁長雄志氏だった。普天間返還合意があった1996年以降、「辺野古移設反対」を掲げた候補が当選したのは初めてのことだった。
2015年10月、翁長知事(当時)は仲井眞前知事が合意した「辺野古沿岸の埋め立て承認」を取り消した。
辺野古の埋め立て承認問題は法廷闘争へもつれこむ。一時は工事停止になったが、2016年12月、最高裁はこの承認取り消しを「違憲」と判断。
国は工事を進めていくことになった。2017年4月、国は辺野古護岸工事に着手する。
しかし、県は同年7月に工事差し止めを求め、国を提訴。
2018年3月に那覇地裁が県の訴えを却下すると、7月には翁長知事が「埋め立て承認撤回」を表明。
だが撤回の手続きのさなか、8月8日、翁長知事は死去した。
2018年――玉城デニー知事、過去最多得票で当選「辺野古移設反対」
県は2018年8月末、辺野古の埋め立て承認を撤回する。9月には翁長知事の死去による沖縄知事選が始まった。
知事選は、翁長前知事の「後継」として辺野古移設反対を掲げた玉城デニー氏が、過去最多となる39万6632票を獲得し、初当選。政府、与党が全面支持をした前宜野湾市長の佐喜真淳氏を、8万174票の大差で破った。
知事就任直後の10月12日には、対話を求めて安倍首相と会談。しかし5日後の17日、国が「承認の撤回」に対し行政不服審査法に基づき、撤回の効力停止を申し立てた。
玉城知事は「わずか5日後に対抗措置を講じた国の姿勢は、知事選で改めて示された民意を踏みにじるもので、到底認められない」とコメント。
11月にはアメリカを訪れ、玉城知事自ら国務省に直談判したが「辺野古移設が唯一の解決策」というアメリカ側の姿勢は変わらなかった。
12月3日、国は「12月14日からの土砂投入」を通知。玉城知事は県の規則や条例違反があるとして、政府などに作業の停止を求めていた。