小保方論文問題に見る科学者と職人の違い

STAP細胞に関する小保方論文を巡る一連の事案を、筆者も強い関心を持って眺めている一人だ。会見のやりとりを確認して一つ自分なりに確信したことは、小保方氏は科学者ではなく、職人だったということだ。

STAP細胞に関する小保方論文を巡る一連の事案を、筆者も強い関心を持って眺めている一人だ。4月9日の会見はマスメディアも大きく取り上げているが、結局のところ、何も新しい証拠は提示されなかった。

会見のやりとりを確認して一つ自分なりに確信したことは、小保方氏は科学者ではなく、職人だったということだ。

会見が、論文において不適切なデータ(画像)を使用したことに故意はなかったということを主張したいだけのものだったことは事前のコメントでもわかっていたし、それは会見のやりとりを眺めても確認できる。加えて、STAP細胞作成には数百回成功しており、第三者の追試成功もあること、今後の研究のために今は秘密にしておきたいからそのデータや実験のすべては公開できないこと等が主張された。

小保方氏は、論文の是非は決定的な問題ではなく(体裁の問題にすぎず)、STAP細胞を作成できたことを評価すべきだと主張する。それは科学者の態度ではなく、職人の態度である。

科学に限らず学者の世界は、専門家の相互承認、相互評価で成り立っている。そして自然科学の場合は、自然現象の説明(仮説)の提示と、別の自然現象をもってなされる仮説の証明からなる。それにより、適用の範囲の広狭はあれ、その仮説は自然法則と見なされるわけだ。それを文書として著したのが論文であり、専門家の相互承認、評価の対象も原則、その論文である。

これは万全ではない。論文が拙くて理解されず、いやそれどころか論文を評価すべき他の学者が理解できる水準に達していなかったため長い間放置された重要論文や、出すべき学会(読ませるべき専門家)を間違えたり、古くは地理的距離などで届かなかった論文だってある。党派的力学で黙殺された論文もある。この相互評価システムは悲劇に満ちている。しかし、それよりもよい確認方法がない。だからそれをやっている。

だから、論文は、その研究の当事者ではない専門家が、それを読むことで、仮説と、論文のむこうにある自分がやっていない検証の確認をする場だ。データが不適切であるということは、先ほど触れたような悲劇云々のレベルではなく、証明が「自然現象」によってなされていることに大きな疑いを生じるので、論文としてはそもそも評価の俎上に上らない。

職人の世界はそれと異なる。職人は、科学者と同じように自然現象を扱っていても、摂理を解明する世界ではなく、何かを作ってみせる世界である。その方法は誰に評価されずとも、その成果物だけで評価されることになる。作成法を表現することも、しないことも自由である。いや、表現できなくても構わない。そこは全く評価の対象ではないからだ。

これはちょうど、試合としての格闘技と、勝負としての格闘技の問題に似ている。ルール違反をしたら試合としての格闘技なら負けであるが、ルール違反かどうかと勝負に勝つかどうかとはまた別の問題だ。両者はどちらよい、悪いではなく、同じ体術を巡る違う価値観の存在なのである。

論文としては間違いだが、確かにSTAP細胞を作成する手法は確立しているので、自分を評価しろというのは、極めて残念なことに、明らかに職人の態度である。

ここで極めて残念といったのは、STAP細胞の作成手法はそれだけでは職人的成功をもたらさず、まだSTAP幹細胞の作成にまで高められるべき途中段階のものだからだ。これだけでは職人としての成功にはまだ直結していない。

そういう意味では、通常であれば、これは科学者の次元で評価され、また小保方氏本人か第三者の手によって発展していくべきものなのだ。しかし、それを見つけた人が、科学者としての資質を満たさず、いち職人であった。これはSTAP細胞という技術の可能性を考える時、残念極まりないとは思う。

だからこそ、筆者は最後まで小保方氏が自分は論文作りは不得手なので、せめて公開実験で自分がSTAP細胞を作成できたことを証明していくと言うことに期待していた。それは、論文とは別の形の知見の公開で、それなら論文作りは稚拙だが科学者の精神だけは持っていると言っても良いと思ったからだ。だが、それを小保方氏は拒み、知見を自らの懐に隠そうとした。

小保方氏は「今後の研究のため」もあって全てを公開はできないと言っていると思うが、残念ながら、科学者として公的研究費によって「今後の研究」をやる機会はないと思う。多分、研究者の道を目指すことは、小保方氏の技能と考え方には相性がよくないようだ。

ただし、小保方氏は職人として、企業やその他の私的原理に基づく空間の中で研究を続けていくことはできるし、その方がよいのではないだろうか?

だから、小保方氏がかわいそうだと思う人は、是非、小保方氏を助けてあげればよいのだ。一番わかりやすいのは、支援者が出資金を出して「株式会社小保方STAP製作所」を作ることではないだろうか。あるいは、余裕がある企業なら小保方氏をそのまま招聘して雇用してしまえばいい。

それで小保方氏が科学者になれるわけでもないし、公的研究資金が支給されるわけでもないけれど、それによって小保方氏はSTAP細胞を作る研究ができるだろうし、それによって小保方氏がひょっとしたらSTAP幹細胞を作成するノウ・ハウを開発し、STAP幹細胞を世の中に大量に供給できるかもしれない。それは社会にとって素晴らしいことだし、そこから得られる利益を出資者=支援者に配当できれば、支援者にとってもよいことだろう。

職人には職人としての成功の道が、科学者には科学者としての成功の道がある。職人が科学者としての成功を無理に追求しても、悲劇(か喜劇)にしかならない。是非、小保方氏には職人としての成功を目指していただきたい。

(附言1) 論文の「不正」性について

小保方氏が主張する論文作成上の不適切な方法についての法的評価に関して、筆者はあまり言うことはない。その主観としての害意や、気づいていたかどうか、故意の有無について、筆者は断ずべき基準も、断ずべき根拠情報も持っていない。

しかし、言いたいことは二つある。

一つは、筆者は、誰かの主観を第三者が確定することは原理上あり得ないと思う。しかし、裁判はそれをしている。それを行為者の反論より優先させて「事実」としてとりあえず措定し、世の中を前に進ませようというのがその考えである。それは問題にされているご本人や、その代理人である弁護士の方が納得するかどうかとは別の次元の問題である。

もう一つは、科学者の世界が論文を軸に回っていること、それゆえ論文の書き方には一定のルールがあることは博士号をとる等のプロセスの中で科学者には当然理解されているはずのものだということだ。小保方氏は「未熟」と繰り返すが、結果的にそれを逸脱した以上、重過失は認められると言わざるを得ない。

そして、少なくとも学者コミュニティの相互承認、相互評価が評価の本質であり、この論文が「不正」であるかどうか、小保方氏の主張をどう判断するかは、小保方氏を今後も科学者として認めていくかということと同様、最終的には科学者コミュニティが自由に判断してよい問題だ。

おそらく理研は、今、小保方氏と並んで、この科学者コミュニティの評価に晒されているのだろう。その中で科学者コミュニティの一部として小保方氏を評価すべきか、小保方氏の雇用者として職員をどう評価すべきか、などいくつかの立場の選択を迫られているのだろうと思う。しかし、この点については筆者の興味の範疇ではない。

(附言2) 剽窃という事象について

論文や、それを含む著作物一般について、時折「剽窃」ということが問題になる。

論文や著作物の出来を自らの利益(金銭的収入であれ、名望であれ)にするというしくみの中で、自分が本当に付加した部分がどこかを明らかにせず、他者の利益を横取りする行為を指す。これにはおそらく二つの態度があり、著作権法は、厳密に言うなら、本来の論文等著作物作成者の許諾を得ているなら構わないのだろうが、無許諾で行うならば問題だということで、他人の論文等著作物から一部であれば無許諾で取り込むこと(引用)を認める代わりに、どこから取り込んだかを明示するなどの条件を付けている。学者の世界では、その人のではなく、その個々の論文の付加価値が問題になるので、誰の論文かは問わず(たとえ自分の論文であっても)引用には引用元の明示を求める。この引用のルールに従わない、他の論文等著作物からの一部又は全部の取り込みを「剽窃」と呼ぶ。

小保方氏が剽窃を行ったとすれば、その科学者としての資質に疑義がはさまれても仕方ない。それは科学者コミュニティが小保方氏を今後どうあつかっていくかという自由判断の中に加味されるだろう。それ以上でも、それ以下でもない。

(附言3) 特許制度と科学者の態度、職人の態度の関係について

現代社会の法制度は、科学者の態度と職人の態度をうまく組み合わせるために、特許という考え方を導入している。科学者のように、ノウ・ハウをうまく表現して開放することで何らかの利益(多くの場合、特許使用料)を得られるようにすれば、職人が作成行為を独占しなくなるのではないか、という期待がそこにはある。

このしくみは、密室に生きる職人を科学者の公開の世界に引っ張り出し、科学者の仕事と職人の仕事を融合する効果を持ったが、同時に科学者に研究の全容を論文に書かない、部分的にしか公開しないという職人的傾向を混濁させる効果も生んでしまったようにも思う。それゆえ、本来の科学者の世界観を理解せずに、こうした目の前で起きていることだけから「我流」で「科学者の態度」を学んでしまう(学んだ気になってしまう)と、そこを何とか維持するための論文の書き方(データの取扱い、他の論文等著作物の記載を流用するさいの取扱いなど)などのルールもどうでもよく思えてしまい、該かも職人が科学者を称してよいかのような誤解を生むのかもしれない。

(附言4) 職人と技術者の違いについて

筆者はここでノウ・ハウをコンテンツ化する責務の有無という点で、これを負わない人という意味で「職人」という言葉を使った。「技術者」はこの点で、そのノウ・ハウを己の属する組織やグループの範囲では共有し、後継者を作る責務を負うと思うので、「科学者」ほどオープンではないにしろ、「職人」とは少し違うと筆者は思っている。

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