講演録「私の生まれた北朝鮮」金 順姫

言論の自由もないし、全ての自由が無いんです。

7月に西東京市ひばりが丘で行われた「脱北者の話を聞く会」より

なぜ脱北を選んだか、北朝鮮とはどんな社会か、日本での歩みを語りました。

7.29 西東京市ひばりが丘 「脱北者の話を聞く会」

私の生まれた北朝鮮というところ

 私は北朝鮮の咸鏡北道の一地方都市で、日本の大阪みたいなところで生まれました。北の方にはロシア、北東に中国があるんです。国境まで車で約8時間位かかります。 

私の両親は日本で生まれた「帰国者」で医療関係従事者で、北朝鮮では裕福な家庭でした。お母さんは結婚して家庭の人でした。私は、高校を卒業して平壌の大学で勉強を始めたんですが、大学4年生で中退して脱北することになりました。

北朝鮮で裕福な家庭で生まれ育って、何故脱北したのかって思っている方が多くいらっしゃると思うのですけれども、出来ればその家族がいる故郷で一緒に暮らしたかったんです。なぜ脱北したのか北朝鮮の生活について簡単に、断片的にいくつかご紹介したいと思います。

主に日本のテレビでよく紹介されているのは、やはり北朝鮮といったら核、飢餓、飢え死にする人たちのこと、あとマスゲームがよく出ていると思います。

あと、何かに取りつかれて狂信的に語るアナウンサー、そういうイメージしかないと思うんです。

生まれた瞬間から監視社会

 生まれた瞬間から北朝鮮は徹底的な監視社会です。お互いに監視して何かあったら直ぐ密告する。それをしないと 自分も守れないし、自分の家族も守れないのです。密告しなかったら、自分がその替わりに収容所送りにされるかもしれない そういう社会で 生まれて育ったのです。ですから密告は当たり前です。私の周囲でも、親友にこの政府はおかしいんだよという話をして 次の日には家族全員がどっかに連れていかれ、家は空っぽになった例がありました。誰もいなくなってしまった家は、周囲に何軒もありました。

小さい時からお母さんお父さんに、外に出たらどんなに親しい友人でも絶対、日本の生活や暮らしに関する事は絶対言っちゃだめだって言われながら育ったんです。

言論の自由も、すべての自由がない、賄賂で解決

 もちろん言論の自由もないし、全ての自由が無いんです。些細なところを見ると着ている洋服、ヘアスタイルやスカートの長さまで全部決まっています。

 学生の頃は若いですから、スカート丈の短いミニスカートを着たいですし、ちょっとでも短いスカートを着て出かけると、外に検問所が、結構いっぱいあるんです。そこで捕まるんです。すると何処に住んでいる誰か どの学校の誰なのかって全部書かされます。ひどい場合はバッグの中身も全部調べられ、そこで何か出たら もう大変です。洋服の違反だけでも学校に連絡がいきます。反省文を書かされて、それを学校の生徒全員の前で読み上げるんです。すると生徒たちの中で批判を受けるんです。

 『「資本主義の洋服を着た」ので本当に私は反省しています』と言わなければなりません。反省し批判を受け、ひどい場合は強制労働、もっとひどい場合は、収容所送りにされる場合もあります。学生でも容赦ありません。

 定期的に住宅の捜索もされます。国家安全部(現在人民保安省)の何人かが来て、家の中や引き出しの中も全部見たりします。

 日本から来た人たちは、こっそり日本の雑誌を持っていたり、テープレコーダーを持っていたために、それが発覚して収容所送りにされた人がいっぱいいます。

 そして「何で帰国したのか分かりません。私を日本に帰して欲しい」と言ったために、連れて行かれ、生きているのか死んでいるのか分からない人も、いっぱいいるんです。

 小さい頃から慣れているのは、そうなる前に、とりあえず捕まえに来た人にひどくなる前に賄賂をやって、早い段階で無かった事にしないといけない。小さい頃からそういう習慣が身に付いているんです。何か問題になったら直ぐタバコを差し出すんです。

「喜び組」と「国家安全保衛部」への選抜は名誉、すべての記録を抹消する悲しみ

 またちょっと違う面からで見てみます。北朝鮮では「喜び組」があるっていう話をよく聞くと思うんです。(キムファミリー、軍、党幹部を慰労、楽しませるために全国から選抜される容姿端麗の若い女性たちのグループがあります。)その喜び組の候補の選抜が小学校の頃からあるんです。女性は喜び組で選ばれるのを名誉に思う人もいます。

男性は保衛部員の選抜があります。保衛部員は北朝鮮のトップの要人たちを警護します。エリートを守る軍隊です。選抜の条件は、顔とか、身長とか健康状態、あと家族の出身成分って言うんですけど、そういうのも全部見て小学校の頃から「この子は良い」って目を付けられます。高校ぐらいに成長するとやっぱり人が変わるじゃないですか。そこでも特に問題なければ、上に連れていかれるんです。

けれどもこれもまた酷い話で、その国に自分の子供を捧げなければならないんです。そうなるとその人の個人データ 写真とか一切無くさなければならない。 

 こういう息子がいたという事を外に漏らしてはいけない。あの息子は連れて行かれたというのは、周囲の人は分かっているけど、それを漏らしてはいけません。ある日突然、写真など全部持って行かれ、一枚だけこっそり残しておいてお母さん、お父さんが見て泣いている例も結構あります。

 家族とか、本人が行きたくないと言ったならば、それは国家反逆罪です。国や政府にこういう反逆をする事によって、どっかに連れて行かれます。もう細かい事を言ったらもう本当に切り無くいっぱいあるんです。

国民はなぜ声を上げないのか

 何であの国が今まで維持できているのか。国民は何で黙っているのか、もっと声を上げればいいんじゃないかと思うかもしれないんですけれども、先ほど言ったように密告社会なんです。3人、4人が集まって何か計画したり何かをしようとすると、その中で誰かが密告するか分からない。だからもう身動き出来ないんです。何かしようと思って今まで何回か試みがあったんです。

 そうした動きがあって発覚すれば、その本人、家族は抹殺ですね。親戚まで全部です。罪は三代に及ぶと言われるんです。だから、この人と私が親戚かどうかも分からない人たちまで連れて行かれます。

 また完全にメディアをコントロールして外国の情報が一切入らないように遮断するんです。

 国民を無知にして何も分からない状態にする。これが全てだと思うようにするんです。国民を無知にさせるのと家族全員殺される恐怖でなかなか踏み出せない。 

 日本は最近、オウム真理教の事件で、本人だけが死刑執行された事だけでも、こんなに色々とあの死刑は正しいのかどうか問題になる。北朝鮮ではそんなことはありえないんです。

 奥さんが何か問題を起こして死刑執行される時に、旦那さんを一番前に座らせます。(90年代にとてもきれいな女優がいました。彼女は結婚していましたが、いろいろな幹部や金持ちと男女の関係を持ちました。ある日、北朝鮮に多大なる寄付をする在日の大金持ちの息子と車庫で関係を持っていたが、その男性がガス中毒で死んでしまったのです。彼女は淫蕩罪で処刑となりましたが、その時に夫を一番前に座らせたことはとても有名な話です。)

そういう国で私も生まれて育ちました。

新潟を出港する第一陣帰還船1959年12月14日

在日はなぜ帰国事業(帰還)で北に行ったか

 両親はともに西日本の出身で、中学生の時、1960年代にその帰国事業で家族全員、北朝鮮に帰国したんです。元在日ですね。なんで北に行ってしまったのか。

 日本から行った人たちは、本当に地獄だったと思うのです。私たちは、そこで生まれ育ったからこれが全てなんだと思うんです。両親から日本で色々な差別を受けたと聞いています。でもやっぱり比べ物にならない。北朝鮮では日本の全てを知っている在日帰国者を、現地の人より更に厳しく扱ったんです。それなので、本当に言いたいことも言えないし、辛い生活を送ったと思うのです。

お母さんお父さんは、家では結構日本の話をしてくれて、日本ではこういう事もあったとか、友達とこういう所に遊びに行ってという話をよくしてくれたんです。 

 この国はおかしいから、いつか本当に脱北したいと思ったらしいです。ずーっと言い続けていたのです。脱北して捕まると、ひどい場合は、死刑になるのでなかなか一歩踏み出せないんです。

脱北までの悩み

 また、私たちの家は中国国境までけっこう距離もあって、そこに行くまでかなり検問所がいっぱいあって、「何で国境に行くのか」と 聞かれるんです。通行証も必要です。それは賄賂で作るとしても、何回もやって、もし万が一何かあって捕まったとなるともう家族の安全も保障出来ないので一歩を踏み出せない。私は大学まで何とか行ったんですけど 大学4年生の頃、3年生くらいからなんですけど、卒業して自分の行きたい希望とかそういうのはあり得ないんです。国が全て決めます。それで悩みは深くなりました。

 この人は此処に行きなさい、あなたは此処に行きなさい。これをやりなさい、と予め全部決められているのです。平壌の出身の人たちは、やはり人脈があっていろいろやる希望の部署を探すんですけれども、私は地方から来て人脈も無ければ、私の実家の地域ではそこそこ裕福だったかもしれないけれども、平壌ではもう全然通用しないレベルなんですね。

 私は噂で、自分が望まない、皆が行きたがらなかった厳しい職場に私が行くかもしれないって、話を聞いたんです。それで悩んで悩んで、4年生の時に辞めますと言って大学を中退して家に戻ったんです。 

 しかし此処では、本当に自分の将来、未来、夢とかは無いというのを思い知ったわけです。思い悩んでお母さんに脱北したいという事を伝えました。本当は家族全員で来ると良いんですけど家族全員で国境に行くと、それは直ぐばれる。脱北をしようとしているのがばれるので、まず一人でちょっと先に行って道を作って、それから家族が来る予定で 私一人先に中国に行きました。恵山(ヘサン)という国境の町なんです。そこで中国に脱北者を斡旋したり、人身売買をするブローカーがいるんです。その人たちはお金さえ貰えば何でもする人たちです。お金を渡してその人の家で2週間ぐらい暮らしながら、日本の親戚と連絡を取りました。

 その親戚が日本の政府に「帰国者の在日2世の子ども」であるとの証明と関係書類を出し、それが確認されて、私は中国の瀋陽日本総領事館に保護される事になりました。日本総領事館に保護されて本当に助かったと本当に喜んだんです。

日本総領事館に保護されても地獄!?

 でもまたそれからが地獄なんです。これくらいの広さの所に私を含めて脱北者10人くらいが保護されました。簡易造りの壁があって、自分の部屋は2,3人ぐらい入れるスペースとシャワールームとトイレがある部屋なんです。

保護されて助かったんですけれど、日本に行けるという保証も、いつ行けるという保証もないんです。総領事館の外に出たら中国政府に捕まって、北朝鮮に戻されるから外に出ちゃいけないんです。 

いつもドアの外には中国の公安が待っているんです。家族がどうなっているのか分からない。携帯もない。テレビはNHKが映るわけなんですが、言葉が通じないので何をしたらいいか分からない。毎日その中で脱北者10人ぐらいで暮らしてたんです。

朝昼晩、ご飯が来るんですけど、多分そんな中国の料理で良い所じゃないのかと思われるかもしれませんが、もう脂っぽくて口に合わない。とにかく苦痛なんです。

それでもいつも総領事館に入った瞬間から、明日は日本に行けるのか、明後日は行けるのかと、ずーっと待って1年間そこに居ました。

もう外に出て中国の公安に捕まって北朝鮮に戻されて家族と会って何とかならないかなと思い、私はもう逃げようとしました。もう本当に耐えられなくて断食もしました。それでも外の情報を領事館員は教えてくれないんです。私達が動揺するからなのでしょう。それで行けるのかどうかも分からないしいつか北朝鮮に戻されるのかな。だったら今のうちに逃げて北朝鮮に戻ろうかなとか、いろんな思いが錯綜し、巡ってぃました。

窓から外を見るとアメリカの領事館が隣にあるんです。壁を越えて逃げて、あそこに入ろうかな。するともうちょっと早めに行けないのかな。そんな事を毎日毎日考え、1年ぐらいたった時に領事の許可がおりたことを伝えてくれました。

日本に来ても地獄が待っていた

 それで初めて飛行機に乗って日本に来たんです。日本に来てからまた地獄で、言葉が通じないのです。本当に私は「リンゴ」「おはようございます」と「お母さん」「お父さん」ぐらいしか日本語を知らなかったのです。親戚が迎えに来てくれたんですけども、その親戚も日本で生まれて育った人で韓国語が出来ない。

 私に「朝日朝鮮語辞典」と日本語がある辞書を渡し、それを頼りに 私の従弟は、「日朝辞典」の日本語のものを持ってきて「ハイハイ、ここ、ここ」って指さしながら会話をするんです。 

西日本の田舎に定住したんですけど、そこに居ても北朝鮮にいる家族と繋がらない。いまだに家族とは連絡が取れない状況なんです。

領事館に入ってからずーっと 日本に来て2、3年ぐらいまで、ずーっと悪夢が続きました。夜は悪夢で眠れないぐらい夢を見て、何故か捕まって北朝鮮に戻される夢だったり、うまくいったんだけれど何かで自殺する夢だったりもしたんです。

その他に、お母さんとお父さんが出て来て、もう私たちは他の人の里親になるから あなたとは縁を切るっていう夢も見たりしました。九州で半年ぐらいいてもこの悪夢が続きました。

此処にいては、私は本当におかしくなると思い始めました。田舎なので新しい人が来るとすぐに分かってしまうんです。すぐに誰なのか詮索が始まります。それなので外に出ちゃいけないって親戚に言われ、半年間の滞在でもう精神的におかしくなりそうでした。

救いになったのは、日本に来た同じ脱北者の人の電話番号を知っていたので、その人と連絡とってNGOの北朝鮮難民救援基金と知り合いました。

 北朝鮮難民救援基金が東京弁護士会から人権賞を授与されたのを祝う受賞パーティーが広尾のJICAでありました。そのパーティーに行くって親戚に言って、それで初めて東京に出て来ました。東京に来て色々調べたら夜間中学校があるというのを知りました。

 従弟から貰った携帯で 夜間中学校の先生に連絡しました。日本語は、まだまだぜんぜん出来ないし、ワードは50ぐらいも知らなかったと思うんです。それでも何とか繋げて、その夜間中学に行きたいですと伝えたら、その先生に結構熱意が伝わったみたいで、いついつまで来なさいと言われたんです。 

早速従弟にも連絡して私は勉強したいのです、と伝えて許可を貰い、一緒に夜間中学校に行ったのが東京に出て来たきっかけなんです。夜間中学校の先生たちはとっても優しく、親切で熱意を持っている先生たちです。一生懸命教えてくれて日本語ある程度マスターして、一年ぐらいで卒業できました。高校は新宿の都立山吹高校に推薦入学を頂きました。

一年に在籍している時に、ふとあれやこれや考えていた時に真面目に三年通ったら私何歳になるんだとか、いろいろ考えることがありました。これはちょっと厳しいなと思って、その高卒認定試験を受けて二年ぐらいで高校卒業の単位を取得できました。卒業認定をもらって医療系専門学校に行くことになり、今は医療関係職で働いています。

コミュニュケーションはやはり難しい

 先輩たちとのコミュニケーションも結構難しいです。仕事の事だったら何とか大丈夫なんですけど、同じ年代の人たちがいついつ何が流行したよねとか、そういう話題になると一切ついていけないんです。そういう会話は大変だし、あと人間関係がちょっと大変だったりするんです。来日してすぐの頃は、人間関係で大変とか思う余裕すらなかった。とにかく周りのものを覚えるようにしました。マスタードとかも含めて知らなくて・・・。 北朝鮮では塩と唐辛子ぐらいしか無い国ですから全てが新しい知識です。

お茶の種類や違い、作法とかもそうですし、何もかもいろいろ勉強するのに一杯いっぱいの日々だったんです。もう周りから変な事言ったって笑われても、それを気にする余裕すらなかったんです。今は色々と人間関係で悩んだりとかすると ああちょっと私も余裕が出て来たと思いながら 毎日やっています。

 今一番気持ちのベースとしてあるのは、いつか家族と会う時は、恥ずかしくない姿でいたいというのが自分の中にあるんです。

  私は日本の国籍持っています。そして今は、日本の方と結婚したんです。その人を選ぶ時も、やはり家族に紹介しても恥ずかしくないかなっていうのが一番気持ちにあったんです。

今何かとトランプ大統領と北朝鮮の事だったり、いろいろありますけれど、私はもうニュースの裏とか読む余裕はないです。とにかく希望を持って何とか運を待ち続けるしかないんだと毎日思っています。

 ざっくりですけど、私の話を終わります。 

(文/北朝鮮難民救援基金 金順姫/北朝鮮難民救援基金 NEWS Sep 2018 № 109より転載)

北朝鮮難民救援基金のWEBサイト https://www.lfnkr.or.jp/

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