これは脱北した医師との対話の記録です。李泰炅(イ・テギョン)先生は、北朝鮮において公立病院の院長をされていた方であり、正直、その極めて冷静かつ的確な分析に感服いたしました。医師同士ならではの踏み込んだ会話もできたと思います。なお、李先生と電話でお話ししたこともありますが、この対話の大半は翻訳者の仲介によりメールで行われました。よって、以下の内容は、メールのやり取りを再構成したものになります。
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―― 半島情勢は不安定化しているようだ。これから先の難民流出の可能性をどう見ているか?
これまでに中朝国境を越えて15万から30万の北朝鮮住民が脱出している。また、日本にも今年だけで60隻余りの木造船が日本に漂着している。すでに体制は不安定化していると考えるべきだ。
―― 北朝鮮の感染症疫学に注目している。これは難民を受け入れる側として、きわめて重要な情報となる。ところが、その実態がよく見えないでいる。そもそも、北朝鮮について信頼できるレポートは存在するのか?
少なくとも、WHOなどが公表している北朝鮮ファクトシートを信じるべきではない。なぜなら、これらは北朝鮮政府が提供しているが、その統計資料が正しくないからだ。より多くの食糧と薬品の支援を受けようとすれば患者数を増やし、支援がないとみれば北朝鮮の印象が悪くなるので人為的に減らしている。国連が手にしているものは、偽った疫学情報に過ぎない。
私自身、国連やユニセフから支援物資を受けるために、偽った数字を提出していた。幼稚園児たち数十人を連れてきて、病院食堂で食べている映像を撮って、支援物資を消費していると報告したこともある。そもそも、北朝鮮において支援物資の透明性など期待するべきではない。
金正日の指示は、ただ、「ぼんやりと、有利なことだけ見せろ」というものだった。こうして、国家全体で国連まで騙していたんだ。
―― 感染症以外の保健医療統計も信用できないということか?
北朝鮮の統計、すなわち死亡率、出生率、年齢別人口構成、男女比率、子供や老人人口統計のすべてが機密情報である。これらを正確に知る者はいないはずだ。とりわけ、社会主義と金正恩の偉大さに傷がつく恐れがあるものは、すべてが隠されてしまう。淋病、梅毒などの性感染症はその代表で、公式統計など発表されるはずがない。これは北朝鮮の保健医療を理解するうえでの基本だ。
―― 北朝鮮の社会保障制度について聞きたい。無料の公的医療部門が廃れている状況があると聞いているが、住民の医療アクセスはどうか?
90年代に経済が崩壊して、無償治療制は完全に麻痺している。たとえば、感染症に罹れば、自然治癒するか、あるいは死亡するかしかない。つまり、それなりに免疫力がある人は自然に治り、金がなくて栄養失調に陥っているような人は死ぬのを待つばかりだ。
たとえば、コレラ、結核、淋病、梅毒などを発症したとき、市場で抗菌薬を購入する金がなければ治ることは見込めない。当局は、300万の餓死者を出しても良心の呵責などなかった。病気に罹って死ぬことなど、余りにも当然のことになっている。
抗菌薬を手に入れたとしても、その多くが偽物であり、結局は死に至ることも珍しくはない。順天製薬、新義州製薬から原材料を盗み、錠剤にして、市場で売っている人たちがいる。ただし、鎮痛剤など、小麦粉だけを材料にして錠剤として、市場に売られていたりする。
経口補水塩も手に入れにくくなっており、コレラなどの急性胃腸炎で子供たちが次々に死んでいる。当然ながら、テトラサイクリン(高山注:コレラの治療薬)を一般の人々が手に入れることは困難である。
北朝鮮は、先進国家に比べて交通の便が悪いため、感染症の伝播速度が遅いものの、持続的かつ散発的に流行している。自然治癒した患者のなかにも不顕性感染者が多いことが原因だろうと思う。
―― 北朝鮮の医師の診療能力はどうか? 維持できていると思うか?
病院に薬もなく、患者は市場で薬を買って治療している。あるいは、自宅での民間療法で勝手に治療し、悪化してやっと医師のもとにやって来る。つまり、若い医師たちは、治療するタイミングもその結果も学ぶことができないでいる。
病院では、簡便な検査だけが行われている。たとえば、ウイルス性肝炎を疑っても血清検査を行うことはできず、GOT,GPTの上昇で推定しているのが実情だ。白血球数は測定できても分画は測れない。赤血球数もみれない。淋病、梅毒などの診断検査も行われていない。よって、医師は典型的な臨床症状で診断せざるをえない。
能力を維持できないのではなく、発揮できないでいるんだ。そして、もちろん失われていく。北朝鮮の医療から、科学的な診断と治療は完全に消えたと私は思う。
―― 北朝鮮の医師のなかに、中国やロシアなどへの留学経験者はいるか?
私は経験ない。北朝鮮では、党による重点分野、すなわち原子力やITなど、その時期に必要な分野の人材を留学させている。70年代、80年代には、東欧の社会主義国家に一部の医師が留学していたが、社会主義陣営の崩壊とともに留学する医師はいなくなった。留学した医師がいたとしても、かなりの高齢だろう。
ただし、金万有病院、赤十字病院、烽火診療所、金日成・金正日・金正恩万寿無疆研究所などの特別な役割を有する一部の医師は留学しているかもしれない。
―― 社会主義医学の伝統とは、予防医学だと聞いている。治療とともに、健康教育や健診活動などにも力が注がれてきたはずだ。
社会主義優越性という予防医学の戦略は完全に破綻している。たとえば、予防接種の継続性が失われており、国際機関からワクチンが供出されるタイミングだけに依存しているのが実情だ。
また、経済の破綻によって、簡単な水系感染症も予防できない状況になっている。塩素剤と電力が不足していることから、衛生的な上水道も存在しない。地方では、各家で井戸を掘って飲料水にしていても、そこに汚水が混入していることも少なくないだろう。
―― 水系感染症は多いだろうと私も推測している。ところが、脱北者の疫学分析では、コレラや腸チフスが少ないようだ。また、マラリアの報告もほとんどない。不思議に思っている。
北朝鮮の感染症には、地域的な特性があることを理解すべきだ。すなわち、脱北者の7割が咸鏡北道、両江道、慈江道出身の出身であって、その疫学情報は北部地域の感染症状況である。
コレラなどの水系感染症は、水質が非常に劣悪な南部地方で深刻に現れている。マラリアもまた南部地方で多発している。一方、発疹チフス、疥癬、疫痢などは、集団生活をする突撃隊が多い北部地方で多発している。
北朝鮮のどの地域からの難民なのか、そういう視点をもって分析しなければならない。平壌と地方では感染症の発生頻度はまったく異なる。また、生活階層の違いも大きく、権力のある上層と飢餓に苦しむ下層の感染症もまったく異なる。
―― 北朝鮮政府によると、国内の結核発症率は10万人あたり513人と報告されており、これは世界で6番目の多さである。また、疫学情報の断片からは、通常の抗結核薬が無効な多剤耐性結核が多いと推定できる。
ほとんどの北朝鮮住民が結核菌を保菌しているだろう。1990年代末に300万人余りが餓死したが、その中には餓死だけでなく結核死も多かったと私はみている。
2000年代に入って、国連より抗結核薬の支援が届くようになった。このとき初めて、私は標準的な結核治療を知らされた。それまで、イソニアジドとマイシリン(高山注:ストレプトマイシンとペニシリンの合剤。日本では獣医が使用するものであって、ヒトには使用されない)で治療していた(高山注:この治療薬の組み合わせでは結核の治癒は見込めない)。治療薬と一緒に牛肉煮込み料理が治療セットとして出されたが、こちらは党委員会と個別幹部の食用になり、患者には回らなかった。
ただし、貧困と食糧不足が慢性化した社会では、仮に抗菌薬を手に入れても、完治するまで抗菌薬を継続できない。食べることが第一なので、症状が軽快すれば抗菌薬を売ってしまうからだ。こうして多剤耐性結核が増加していると思われる。
―― 北朝鮮の医師は結核をどのように診断しているのか?
培養検査や感受性検査は行われていない。結核の診断はレントゲンのみだ。陰影の形状と透過性、そして部位により13の型に区分する。つまり、北朝鮮の医師は自分の診ている結核患者が、耐性菌なのかどうかを知ることができない。
―― 北朝鮮政府による2000年の統計では、マラリア患者が国内に15万人いると報告していた。ところが、2015年の統計では7,700人と激減している。マラリアのコントロールに成功しているのか? あるいは、医療にアクセスできない住民が増加してだけなのか?
1970年代はマラリア患者が多かったが、長らく沈静化していた。蚊が少なくなったのも要因ではないかと私は思う。とくに、南部の黄海南道に蚊が多く棲息しているが、家庭で蚊帳や網戸を設置して生活することが定着したことも大きい。
私が生活してきた黄海北道では、1999年から2000年初めに三日熱マラリアの流行がみられたが、それも沈静化しているはずだ。これは、国連が支援した治療薬によるものだ。薬が無料で受け取れるのであれば、発症者は積極的に病院を受診する。こうして、治療が徹底しされたとが良かったんだと思う。また、国連が支援した蚊帳が病院や幼稚園などに供給したため、これも予防に役立ったと思われる。
北朝鮮政府当局による感染症対策の成果でないことは間違いない。当局は、水溜まりを埋めたり、殺虫剤を撒いたりということを散発的にやっただけだった。
―― 法定感染症の患者について、適切に隔離は行われているのか?
北朝鮮では、感染症は治療が難しく、致死率が高いが、伝染経路の遮断は容易である。それは、独裁国家という特性から「命令」で患者を隔離できるからだ。感染経路を遮断することは、適切である以上に積極的に行われている。
たとえば、北朝鮮において治療することができないエイズ患者は、ある離島に完全隔離している。障害者は強制的に去勢している。人権無視の国家なので、党が指示すれば無条件で何でも実施することができる。感染症の予防にも党が介入している。
―― 脱北者における疫学情報では、ウイルス性肝炎の頻度が高く報告されている。ある報告では、脱北者6,087人のうちウイルス性肝炎が669人(11.0%)としていた。血清型が同定されるとB型のようだ。極めて高い罹患率だが、これは医原性と考えてよいか?
そのとおり。注射針の使いまわしが原因だ。もちろん、北朝鮮でも注射針は使い捨てが原則だった。しかし、注射針が手に入らなくなったので仕方がない。80年代初めまでは診療所にもオートクレーブがあり、4気圧40分の加熱で肝炎ウイルスだって消毒できていた。
しかし、90年代に入ると電力が失われ、石油コンロや石炭の火力で煮沸消毒しただけで注射針を再利用するようになってしまった。私は、北朝鮮住民のウイルス性肝炎の100%近くが医原性であるとみている。
一方、性感染症としてのウイルス性肝炎は、ほとんど問題にならないレベルだ。なぜなら、北朝鮮は生理的欲求が停滞している国だからだ。また、先進国に比べて性文化の乱れもないと言える。
―― 経済制裁の医療への影響はどうか?
経済の破綻は北朝鮮のすべてを破壊した。さらに、300万もの健康な人たちが死んでいった。その一方で、結核に罹り、コレラに罹り、肝炎に罹って死ぬのは、丈夫な人が飢えて死ぬことに比較すれば、さして驚くようなことではないと私は感じる。
経済破綻で多くの人々が堕落し、人生をあきらめて、麻薬使用者が増えていった。酒を飲んで自殺する人々も多くなった。麻薬やアルコールは肝硬変を引き起こすが、こうしたことが医療への影響と言えるかもしれない。それと比すれば、医療器材が失われたことなど重大なことではない。
―― 北朝鮮からの難民における、医療ニーズの特徴について教えてほしい。
北朝鮮住民の4割は栄養失調である。免疫力を改善させるためにも、栄養状態を好転させることが最優先だ。
その他の医療ニーズを私が語ることはできない。なぜなら、北朝鮮国内では感染症の診断ができていないからだ。何かあったとしても政府は隠しており、誰も知ることはできない。難民を受け入れた側が、ウイルス性肝炎を含めたスクリーニングを行うことで、その医療ニーズが次第に明らかになるだろう。
ただ、後進国型の感染症が多いと断言できる。すなわち、結核、疥癬、淋病、梅毒、コレラ、パラチフス。北朝鮮からの難民を受け入れる国では、これらの診断と治療に追われることだろう。
(おわり)
※ この対話は、北朝鮮難民救援基金(加藤博・代表)の多大なご協力により実現いたしました。心より御礼申し上げます。