原爆が次に落ちるのは新潟市。そう判断した知事が命じた「原爆疎開」とは? 17万都市はゴーストタウンに

終戦の4日前の1945年8月11日、新潟県知事は「新型爆弾が新潟市への爆撃に使われる公算が極めて大きい」として強制疎開を命じました。
新潟市の現在の姿(市役所の公式サイトより)
新潟市の現在の姿(市役所の公式サイトより)
city.niigata.lg.jp

終戦の直前、新潟市は人がほとんどいないゴーストタウンのような状態になった。広島、長崎に次ぐ原爆投下のターゲットと予想されたからだった。

終戦4日前の1945年8月11日、新潟県知事は知事布告を出した。「新型爆弾が新潟市への爆撃に使われる公算が極めて大きい」と断言。町内会を通して一般市民の避難を命じたからだった。

77年前に起きた、知られざる「原爆疎開」の歴史を紐解こう。

■新潟県知事が布告。「本措置は敵の無辜の市民に対する殲滅的殺傷企図に、肩すかしを喰わせんとするものである」

「原爆疎開」を命じる知事布告。「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」より
「原爆疎開」を命じる知事布告。「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」より

 8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下された。当時は原爆の存在こそ一般には知られていなかったが、「広島と長崎は新型爆弾で全滅した。次は新潟だ」という噂が市民に広がっていた。

当時の新潟市の人口は約17万人。新潟港は朝鮮半島から物資を輸送する拠点港だったが、戦争末期にアメリカ軍の機雷封鎖を受けて機能を失っていた。ただ、8月1日に近隣の長岡市がB29の大空襲で市街地の80%が焼失したのとは対照的に、新潟市は大規模な空襲をほとんど受けていなかった。

広島への新型爆弾の情報が入った新潟県は、現地視察のために職員を派遣したが、途中の混乱でたどり着けず、内務省で得た断片的な情報をもとに報告書を提出した。これを受けて、新潟県知事ら県幹部は10日午後から緊急会議を開いた。

夜を徹した会議の結果、11日に新潟市民の緊急疎開を実施することを決断。畠田昌福(はたけだ・しょうふく)知事が10日付けで「知事布告」を発令した。

「新型爆弾は我国未被害都市として僅に残った重要都市新潟市に対する爆撃に、近く使用せられる公算極めて大きい」として、「市民各位は覚悟を新たにし、本措置に基づき更に一層徹底したる疎開を急速に実施しなければならない」と命じている。

 全文は以下の通り。

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知事布告(昭和二十年八月十日)

鬼畜敵米は新型爆弾を使用し、広島市を暴爆した。之が為同市は従来国内諸都市が蒙(こうむ)った空襲に比べて、極めて僅少の爆弾を以て最大の被害を受けたのである。此の被害は今迄の各種防空施設を殆ど無効とし、従来の民防空対策を以てはよく対抗し得ない程度のもので、人命被害も亦(また)実に莫大であって、酸鼻の極とも謂うべき状態であった。此の新型爆弾は我国未被害都市として僅に残った重要都市新潟市に対する爆撃に、近く使用せられる公算極めて大きいのである。

茲(ここ)に於(おい)て県は熟慮の結果、人的資源を確保し戦力の保全を期する為、別記の如き措置を急速且つ強力に実施することと致した次第である。

市民各位は既に敵の中小都市に対する空爆開始以来、疎開に関し充分なる理解を以て着々と実行して来たのであるが、変転の激しい戦局と暴戻(ぼうれい)なる敵の攻撃手段に対し、市民各位は覚悟を新たにし、本措置に基づき更に一層徹底したる疎開を急速に実施しなければならない。

本措置は敵の無辜の市民に対する殲滅的殺傷企図に、肩すかしを喰わせんとするものである。本措置は甚だ突然であるが、よくこの趣旨を諒解し、益々闘魂を燃やし、逃避的に堕せず、整斉たる秩序を以て、市外転出を為す様特に要望して止まない次第であります。

新潟市に対する緊急措置要綱

一、一般市民の急速なる徹底的人員疎開

二、重要工場の有効且能率的なる疎開

三、公共施設の疎開

四、新潟市に於ける建物疎開の一時中止

【編註】読みやすさを考慮して、旧仮名遣いは新仮名遣いに。旧漢字は新漢字に。カナカナは平仮名に直した。なお、建物疎開とは、空襲で火災が広がらないように建物を強制撤去すること。

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 ■ゴーストタウンになった新潟市街。「夜間ラジオも沈黙して人の声も聞こえず、廃墟の如く敗戦前夜の感あり」

新潟市は8月11日午後1時30分から、緊急町内会長会議を開いて、この方針を説明した。しかし、11日に各地の町内会長から住民に知らせる前に、8月10日夜から噂が広まり、疎開が始まっていたという。

郊外に通じる道は、荷物を山積みにしたリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。郊外にツテがない市民には集団住宅が用意され、13日までに中心街は、緊急要員を残して、もぬけの殻になった。

市内に住んでいた金塚友之丞さんは「郷土新潟」第6号に寄せた手記でこう振り返っている。

「十一日から建物疎開を一時中止し、夜に入るや市民は即時郊外二里(編註:8キロ)以上の処へ、待避すべしとの命令が出た。私は予め用意の必需品包み薬品などを、各自が分担して背負い、既定の道筋を青山さして急いだ。うす月夜のためか無灯でも困ることはなかった。道路一ぱいになり延々と続く退避民は、強いて先を争うでもなく、病人を戸板にのせて担ぎ行くもの、乳母車に荷を積みすぎて故障を起こしているものなどいろいろで」

この騒動の中でも、ごくわずかに避難しなかった人もいた。蒲原浄光寺の住職である蒲原霊英は、8月12日の日記に「夜間ラジオも沈黙して人の声も聞こえず、廃墟の如く敗戦前夜の感あり」と記している。疎開した市民が玉音放送を聞いて戻ってきたのは、終戦3日後の18日ごろのことだった。

2004年1月19日の朝日新聞デジタル掲載記事によると、本来は避難対象でなかった公務員や生産・交通関係者までが避難を始めてしまい、混乱に拍車がかかったという。

■実際に原爆投下の「候補地」だった新潟

広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」
広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」
Universal History Archive via Getty Images

結果的には新潟に原爆が投下されることはなかった。「原爆疎開」も無駄に終わったかに見えた。しかし、当時の新潟県知事の判断が誤っていたとは言い切れない。米軍の原爆投下の候補地に新潟が選ばれていたのは事実だったからだ。

ポツダム宣言が公表される前日、7月25日の時点では、新潟は原爆投下候補の4つの候補地の一つだった。アメリカ軍の参謀総長代理トーマス・T・ハンディから、カール・スパーツ将軍にあてた書簡には以下のように書かれている。

「第20航空軍第509混成部隊は、1945年8月3日ごろ以降、目視による爆撃が可能な天候になり次第速やかに、次の目標、広島・小倉・新潟・長崎の一つに最初の特殊爆弾を投下せよ」

しかし、8月2日の作戦命令では第一目標:広島、第二目標:小倉、第三目標:長崎として新潟は目標は外されていた。

新潟市が1998年に編纂した「戦場としての新潟」によると、アメリカ軍の資料には「原子爆弾攻撃のために取り分けて合った四都市の中で、新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当である」と記してあるという。

【参考文献】

・「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」(編集発行:新潟市)
・秦郁彦「八月十五日の空 ー日本空軍の最後ー」(文藝春秋)
・新潟郷土史研究会「郷土新潟」第6号
・毎日新聞 2010年8月14日夕刊 「『原爆投下 次は新潟だ』疎開命令で市民緊迫」
・新潟日報 1945年8月12〜13日

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