第二次世界大戦中、日本兵ゆかりの写真が戦火をぬって太平洋を超えた。乳飲み子らがうつる家族写真など日本兵ゆかりの5枚は、アメリカの小さな町の地下室にひっそりとしまってあった。25歳で戦死した若いアメリカ兵がなぜ持っていたのか。数奇な運命をたどる写真たちは、今、持ち主を探す旅に出ている。戦争を知らない世代が、たぐり寄せられる”限られた史実”から、次世代にどう記憶を紡いでいけるのかが見えてくる。
乳飲み子らとの家族写真、武道の練習中と思われるもの、晴れ着姿の男性、艶やかな着物の女性、男の子と並んだひげの男性.......。これら5枚の写真の歴史の紐解きは25歳で命を落としたアメリカ兵士ハリー・ダイニンガーさんの実家、アメリカ・ペンシルバニア州から始まる。
ハリー・ダイニンガー Harry Diningerさんは1941年、海兵隊に入隊し、グアムなどに派遣された。1945年5月10日、25歳の時に沖縄の戦いで命を落とした。
ハリーさんが戦地などから故郷の両親に送った100通あまりの手紙とともに日本兵のものだったと思われる写真5枚が同封されていたようで、両親は大切に保存していた。
それらが遠い親戚だったデビッド・ワッセルさん(59)の手元に親戚を通して届いた。写真を手にし「この日本の家族はどうなったのだろう」そう思った。
亡くなったハリーさんのことについては、デビッドさんを可愛がってくれていたハリーさんの兄ボブさんから、返す返す聞いていた。そのため、デビッドさんは、ハリーさんが持ち帰った日本兵の家族と思われるアジア人がうつった写真を手にすると「日本の親族にお返ししたい」と思ったという。
か細い日本との縁を手繰り寄せ、頼ったのは、一人の日本人だった。ニューヨークに住む取材ディレクターの福山万里子さん(54)だ。
ペンシルバニア州に住むデビッドさんは、2018年10月に、大統領選挙でニュースの現地コーディネーターをして取材していた福山さんに取材相手として会った。
デビッドさんの住むところは、ピッツバーグ郊外のホワイトオーク(WhiteOak)で人口7500人の小さな町。白人が大半を占め、アジア人もほとんどおらず日本人と巡り合う機会はなかった。デビッドさんは最初に福山さんに会って2年後、2020年10月に、福山さんと大統領選挙についてやりとりする中で、メールの最後に写真のことについて触れた。
福山さんは、アメリカで見つかった日章旗など戦争の遺品が日本に戻される話はニュースでよく知っていた。小さな手がかりをもとに遺族に返す、そんな話は遠いことだった。だが、半年後の2021年3月にデビッドさんから送られたメールには、5枚の写真が添付されていた。
この5枚を見た時、「これはなんとかしなければ」と福山さんに戦慄が走った。突然手元に舞い込んだ写真は、福山さんの考えを変えた。戦争を知らない世代としてやらねばならぬ「自らの使命」と思わせるものだった。
敵の兵士の写真をなぜ大事に持ち帰るのか
福山さんの父母も戦争を知らない世代だ。
「正直、最初は日本軍の写真と言われても、ピンときませんでした。けれど、実際にファイルを開いて、写真にうつっている戦時中の人を見たら、ご遺族の方を探さなければと強く思いました」と福山さんは話す。
福山さんにとって、戦争は遠いことだったが、急にその時代とつながったかのような感じなのだろうか。この写真を契機に、戦争の記憶を繋いでいく道のりを歩んでいっている。
福山さんは手紙を受けとってすぐ2021年3月から、遺族会に連絡を取ったり、当時の地図を参照しながら、約80年前の日本軍とハリーさんの足取りを紐解き始めた。
ハリーさんがこの写真を拾ったのは、マーシャル諸島のエニウェトク環礁だとみられる。
1944年2月26日付けの両親への手紙で、「マーシャル諸島のエニウェトク環礁(の中の)Engebi(日本名エンチャピ)島とParry(日本名メリレン)島へ上陸しました」と書かれている。エニウェトク環礁のエンチャピ島とメリレン島の戦闘は2月23日に終わっていることがわかっており、この島々でハリーさんは日本兵と戦ったとみられる。
約3週間後の3月17日付の手紙には、「さらに3つの環礁を掃討して回った」「エニウェトクでの戦いに比べると、出会う日本人の数は少なく、楽勝だった」と書かれている。
3月9日から13日の5日間は、オトー環礁、ウジャ環礁、ラエー環礁で米軍と日本軍が戦っている。オトーでは日本兵12人が自決し、ウジャでは、6人が捕虜に、ラエーでは、無血で占領したとされる。
3月17日付けのハリーさんの手紙では「写真は、昨日も書いた手紙に入れようとして忘れていた」「ずっと持ち歩いていたので、状態があまりよくない」と書かれていた。拾った日本兵の写真が同封されたことを推測させる。
福山さんが、マーシャル方面遺族会の山村一郎さんに問い合わせたところ、手紙の時期と戦歴を照らし、この5枚の写真は、エニウェトクの戦いで拾った可能性が高いとの答えを得た。
アメリカ海兵隊の資料によると、エニウェトクの戦いで日本軍は少数の捕虜以外は全滅。アメリカ軍の戦死・行方不明者は195名、負傷者は521名だった。
日本兵だけではなくアメリカ兵も、熱帯で壮絶な戦いを強いられていたことは、LIFE誌の有名な「1000ヤードの凝視」で描かれている。うつろで焦点の定まらない眼差しの若いアメリカ兵が、感情のないまま遠くを見つめる様子だ。
従軍記者で画家のトム・リーTom Lea はこう書いている。
彼が祖国を離れて31ヶ月が過ぎた。参加した最初の戦闘で負傷し、その後もいくつもの熱帯病にかかった。夜もまともに眠れず、穴に潜むジャップ(日本兵の蔑称)を一日中掃討している。彼の部隊では3分の2が死ぬか、負傷している。彼は今日の朝には前線に戻る。人間はどこまで耐えられるのだろうか?
「いつか家に帰れる」ハリーさんを襲った沖縄での弾丸
入隊から4年間、家族に会えないまま亡くなったハリーさんもそんな一人だったのかもしれない。悲惨な戦闘があったはずだが、彼の両親宛の手紙はいつも明るい言葉が並ぶ。「(リゾートの)パルムビーチに行って焼けたみたいです」。
「ご両親に心配させないと明るい話を手紙に盛り込み、優しさが滲み出ている」と福山さんは話す。
ハリーさんは、エニウェトクの戦いで拾った日本兵の写真を同封した手紙を送った3月17日から1年2ヶ月後の1945年5月10日、沖縄のチャーリーの丘を駆け上がっていたところ、マシンガンで胸を撃ち抜かれて即死した。
ハリーさんの同僚がハリーさんの両親への手紙で「わたしが言えるのは、彼は勇敢に戦い、そして一瞬で命を散らしたということです。それは、兵士としては最上の死に方でもあります。もし、最終的に死ぬななければならないならば」と綴っている。
そして、「ハリーは家に帰ることだけを語っていました」彼と話した最期の会話について触れた。
いつか家に帰れるのだと信じてやっていた20代の若者が骨になって、しかも遺骨はアメリカに戻ったのかも明確ではないままになっている。日本兵もきっと同じような状況だったのだろう。
交錯する日米の死者たちの写真
実は、写真をめぐってもう一つのストーリーがある。戦場で拾われていたのは、日本兵の写真だけではなかったのだ。ハリーさんの写真も別の日本兵が持っていたのだ。ハリーさんの写真は日本兵が、日本兵の家族写真はハリーさんが持ち去っていた。
流れはこうだ。ハリーさんは、1944年2月にエニウェトクの戦いで日本兵の家族の写真を拾った後、自身が亡くなる約10ヶ月前の1944年7-8月、グアムでの戦いに参加し、負傷。ハリーさんは、所持品の入ったリュックを現場に置いたまま、戦地から病院へ搬送された。
このハリーさんのリュックを日本兵が拾い、中に入っていたハリーさんの家族写真を抜き取っていた。だが、この日本兵はその後戦死したという。米軍が亡くなった日本兵の持ち物の中からハリーさんの写真を発見し、ハリーさんの母親のもとに戻した。
戦地での敵同士が相手方の写真をそれぞれ己の懐に入れていたのだーー。
「ハリーさんにとっては、おそらく短い人生の中でまだ見たことのないアジア人だったのでしょう。そして日本兵にとっては、話したこともないアメリカ人。戦った相手は同じ人間だがどんな人なのか確認したくて遺品を持ち去ったのでしょうか」福山さんはそう語る。
命をかけた戦いをした前線の若者の気持ちや思いはもはやわからないが、寄り添いたい。そんな気持ちが湧いた。
次世代に伝えたい。戦争に巻き込まれた儚い命
現在59歳のデビッドさんは、5枚の写真が日本で何らかの手がかりが見つかり、後世に伝わっていくことを望んでいる。
「私にとって、ハリーおじさんとその兄で欧州で戦ったボブおじさんがいたことを語りつぐこと、それが戦争を直接知らない私ができることです。戦争の悲惨さなんて、大きな文脈では伝えられないけれど、ここにリアルな人が生きていたことの証がある」
「アメリカ人の義務として国のために生き、父と母に会えないまま死んでしまう者がいたということを次の世代に伝えたい」。
デビッドさんは、次世代にも記憶をつなげようと、甥にはこれまで口頭でハリーさんやボブさんの話を伝えてきた。その甥の子供も9歳になり、そろそろ話を伝えようと思っている。
「私は大丈夫。健康で最高の状態で、元気です」
「お母さん、私が死ぬのではないかと心配しているのは知っていますが、すべてがうまくいき、最終的には状況が良くなるので、心配しないで」
ハリーさんが入隊から両親へ書いた手紙100通あまりは、地下に段ボールで保存されており、80年経ってもなお非常に状態はいい。
ハリーさんの両親が大事にし、それを引き継いだ子供の妻、つまりデビッドさんの祖母の姉からデビッドさんに行き着いた。デビッドさんは、今、日本との架け橋を見つけ、記憶を紡いでいこうとしている。
「日本の遺族が生きていれば返却したい」そして「歴史を次世代につなぎたい」。デビッドさんと福山さんの共通の思いだ。
【ハフポスト日本版・井上未雪】
ハリーさんがアメリカの両親にあてた手紙に同封した日本兵の写真を、以下、1枚づつ掲載しています。
これら5枚の写真についてご存知の情報があれば、news@huffpost.jp までご一報ください。編集部からデビッドさんと福山さんにご連絡します。