新型コロナをきっかけに、書き手の「専門性」について考える
「第26回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」で、作品賞をいただいた。ニューズウィーク日本版「百田尚樹現象」がプロの間で、評価されたことを心から嬉しく思う。作品賞は過去の受賞者には、尊敬してやまない伝説の書き手である本田靖春さん、今も活躍する江川紹子さんの名前が刻まれている。
名前を並べるのはおこがましいが、彼らは私と同じ新聞記者出身である。新聞の枠を飛び出して、本田さんは雑誌と優れたノンフィクションの世界で、江川さんは雑誌・書籍に加え、テレビやウェブと様々なメディアを横断して、刺激的な仕事を積み重ねてきた。
さて。私は良くも悪くも専門分野が無いライターとして活動している。悪く言えば何でも屋であり、しばらく強い劣等意識を抱いていた。
何らか、専門的な分野を持つライターであれば仕事としては楽になるだろうと思っていたからだ。専門はなんでもいい。政治、経済、国や地域、事件、医療、科学……。特定の分野に強ければこそ、書けるものがある。
だが、今回の新型コロナ問題をあって、専門がないことの強みを考えるに至った。
「専門家の意見」だけで決められる?
専門記者になるということは、ある分野のインナーサークルに入るということだ。科学記者なら科学者と、医療分野なら医療関係者と関係を深め、専門家の代弁者となるリスクが生じる。関係が深まる分、書けないこともでてくる。
今のインターネットでは、「専門家の代弁」もしくは「専門家の意見」を文字起こししたような記事がよりシェアされる傾向にある。ウェブメディアの特性とも相性がいい。2つ指摘しておこう。
第一にコストがいい。一人の専門家にインタビューして、記事化したほうが何人も取材してまとめた記事よりはるかに効率よく記事本数と、ページビューを稼げる。
第二にネットの「ムラ社会化」との相性の良さだ。専門家の主張に沿った記事を書けば、彼らの「ムラ」から「この書き手は大手マスコミとは違う」と、もてはやされ、そのフォロワーからも賞賛される。
「ムラ社会の論理」をよく知る記者は、プロの常識と、社会の疑問の間に立つという意識を失い、内輪話の量産に陥る。
今回のコロナは感染症だけでなく、経済問題でもある。ハフポスト日本版で何度か書いたが、感染症というリスクのみに対応すれば、一方で経済リスクが高まり、失業者や自殺者の増加というリスクを抱えることになる。
自粛を求めるなら、当然補償はセットになる。だが、それだけでは足りない。「緊急事態」が長引けば、当然ながら経済は崩壊し、社会も成立しなくなる。
「経済は経済学者だけに任せる」ではいけないのでは?
トレードオフをどのように踏まえて、舵取りするのか。これは一義的には政治の責任だが、専門家―とりわけ政府の専門家会議やクラスター対策班に集う専門家―の発信にも責任はあるという立場で書いてきた。
不況下の政府支出と自殺、健康の関係は公衆衛生でも研究が進んでいる分野であり、「経済は経済学者、政治に任せる」では不十分だと考えたからだ。
もちろん理想を言えば、今からでも経済学者を入れるか、経済学者の専門家会議を別に立ち上げるべきだろう。
私が、こうした視点を持つことができたのも、結局は過去にリーマンショックの派遣切りや新型インフルエンザが発生した時に、経済学や感染症対策、疫学の本や論文を読み漁ったからだった。
私はどの分野でも素人や初学者の域を出ないが、取材を通じて、その分野で「気鋭」もしくは「第一人者」と呼ばれる人々と出会うことができた。
その時の出会いが、今も活きている。素人は素人なりに、調べ、プロの知見を活用することができる。
インナーサークルの最大のデメリットは「視野の狭さ」
インターサークルに入ると、視野が狭くなるというデメリットもある。
4月上旬もこんな場面に出くわした。日本の対策の要とされる専門家、現場の最前線に立つ医師、安倍政権に科学的な側面からアドバイスを送る感染症専門家が都内に一堂に集まる機会があった。
非公式な場だが、私のような記者もオンラインで会場の様子を見ることができた。そこで繰り広げられていたのは、およそ広いとは言えない会議室で、2メートルない距離で密着して座り、マスクを外した要職者が大きな声を張り上げて自説を述べたり、それを受けて周囲が大きな声で笑ったりする姿だった。
著名な科学ジャーナリストや医療系の記者、一線で取材する大手メディアの記者もその姿を見ていたが、「なぜ専門家が率先して、社会的距離を取って『密』を避けないのか」と聞いたのは私一人だった。彼らは、専門分野のことしか聞かない。
その場では回答を濁されたので、後日関係者に質問を送ったところ「あの場で、一つか二つの密は発生していたが『三密』は発生していない」「参加者は医療と社会機能を維持する者である」というメールが返ってきた。
もし、この場に感染者がいたとして、感染が広がったらどうするのか。その点だけは明らかにしてほしいと思った私は「専門家は人々に感染していると思って行動してほしいと言っていたはずだ。感染していると思ったらこのような行動になるのか?これを社会に公開できるのか」と重ねて質問を送ったが、ついにまともな返事は返ってこなかった。
本当のニュースバリューとは何か?
事の顛末とそこから考えた課題は、ニューズウィーク日本版に詳細に記した。記者が科学者のインナーサークルに入ると、専門性の高い話ばかりを追いかけることになり、やがてこうした疑問点は持たなくなるのかもしれない。
あるいはコロナ問題を経済リスクという視点も入れて問いを立てるという考えも薄くなる。
「ムラ社会のお仲間」であることに安住していれば、異論も述べにくくなるだろう。何が問いか、何がニュースなのかの判断も専門家に寄ってくる。
私が質問したことを、些末なことにこだわっているととるか、大事なものとして考えるかーー。何を大事な問題として扱うかは個々人のニュースバリューの判断であり、正解はない。
私が強調したいのは専門記者ならスルーするところにも、ニュースバリューがあると判断できることこそ、専門を持たないライターの強みになるということだ。
私の目には彼らの人間としての立ち居振る舞いがとても興味深く映り、それを報じる価値があるものと判断した。
専門外から問いかける価値を示したのが、経済学者の安田洋祐さんのブログ「8割減の誤解」だ。
・8割減という目標が「人出」だと誤解している人が多い
・そうした誤解をメディアなども助長してきた側面が強い
のではないか、と個人的には感じています。(僕自身も、テレビ番組にコメンテーターとして出演しているので、知らないうちに“助長”に加わっていたかもしれません。そうであれば、深く反省したいです)これは邪推ですが、専門家会議(の何人かのメンバー)も、多くの国民の“誤解”に気付いていながら、感染拡大を抑えるプレッシャーを与え続けるために、積極的にその誤解を解こうとはしてこなかった(=誤解を放置した)のではないでしょうか。
安田さんの専門はゲーム理論およびマーケットデザインで、感染症の専門家やそれを取材する立場でもない。それでも問題を「スルー」せず、自身のロジックで前向きな議論をした姿勢は見習いたい。
専門が「ない」ことの価値
さまざまな分野を掛け合わせ、メディアを横断し、取材を通して思考を深めていく。これも専門がないライターの醍醐味だ。
専門がないライターの最高峰は沢木耕太郎さんだろう。沢木さんは、近頃、エッセイの中で、こんなことを書いている。
「ノンフィクションを書くためには、まず対象を『みる』ことが必要になる」(『沢木耕太郎セッションズ<訊いて、聴く>Ⅲ 陶酔と覚醒』岩波書店)
ノンフィクションに限らず、ニュースの現場でも「みる」ことから全ては始まる。視る、読む、また視る、そして会い、取材対象の話を正面から聞き、全てを終えてから書く。書きながら、読み、また会う……。観察せず、人と会わず、話を聞かずでは、私の仕事は成立しない。
自分なりの視座を持ち、目の前の仕事を一つ一つ、積み重ねていった先に、自分にしかできない仕事があればいい。いま、専門がないこともまた価値があると感じている。
(文:石戸諭/編集:南 麻理江)